第33話
「まずい……っ」
誰もいない廊下を走る。
廊下を走ってはいけないが、他に誰もいないならこの場合セーフである。どんな悪事も、発覚しなければ罪には問われない。
放課後になってから晴れてきたことにより、思ったよりも部活が長引いてしまって、もう最終下校直前だ。雫に随分長いこと待ちぼうけを食わせてしまった。
練習靴や教科書の入ったバッグが重く煩わしい。思わずその辺りにでも投げ捨ててしまいたい衝動に襲われる。
階段を一段、二段飛ばしで駆け上がる。
梅雨で湿った床に一瞬滑りそうになった瞬間、曲がり角から流れてくる声。
女子の声だ。
「ねー。さっきのめっちゃ笑ったわー」
「わかるー。……あ」
「お……。よ、よぉ」
同じクラスの『女子B』と『女子C』だった。俺の姿を見るなり、口元に貼り付いていた笑みが凍ったように見えた。
「あ、天笠」
「二人も今帰り?」
「え、あ、うん。そうそう」
「そっか。んじゃ」
二人の間を通り抜けるようにして、また階段を上り始める。
こんな時間に何をしていたのかは見当も付かなかったが、どうでもよかった。雫を待たせているという焦燥感が圧倒的だった。
「あ……。じゃ、じゃあねー」
『女子B』の声もぎこちないように聞こえた。
彼女たちも、最終下校を気にして焦っているのかもしれない。
夕暮れの陽が差し込む廊下を抜けて扉を開く。
いつもの席に雫はいた。俺が入ってきたのを見るなり、開いていた文庫本を閉じる。
「おまたせ……」
「天笠くん、お疲れ……、ってすごい汗!」
「え、あ、あれ……。確かに」
「別にそんなに焦らなくてもよかったのに」
そう言って微笑む雫は、言葉とは裏腹にすごく嬉しそうに見える。
「そうもいかないよ。ただでさえ待たせてるのに」
「そっか……。うん、ありがとう」
手早く文庫本をカバンの中にしまい、帰りの準備を整える。
……どうしてだろう。
雫の表情に少し影がちらつく気がする。
どこがどう違うのかまではわからないし、ただの気のせいなのかもしれない。しかし違和感が拭えず堪らなくなって、問いかけた。
「……雫」
「ん? なに?」
「何か、あった?」
「えっ?」
カバンの持ち手にかかっていた指の動きが止まる。
「何かって?」
「わかんないけど、それをこっちが聞いてるんだし」
「あ、質問に質問で返しちゃった」
はぁ、と雫は一つため息をつく。光が反射しているメガネの奥の瞳が見えない。
少し下がっていたのを指でクイと上げて、雫は困ったように笑って口を開いた。
「ちょっと今日読んだ本で、感動しちゃって、さっきまで泣いちゃってたの」
雫の首が動いて彼女の目が揺れた。
夕日のせいで気づかなかったが、確かに雫の目が少し赤くなっている。違和感の原因はこれだったのだろうか。
「ああ、なるほど」
「カッコ悪いから誤魔化そうとしてたのに、ひどい」
俺を責めるような目つき。付き合うようになってから初めて見た彼女の一面だ。
「ご、ごめん」
「冗談だよ」
そう、いたずらっぽく笑う。雫にこんな表情をする一面があるのが、少し意外に感じられた。
「だからほら、帰ろ? 時間もあれだし」
言われて時計を見るともう最終下校から五分くらい過ぎていた。時計から目を戻すと雫はもう教室の外で、カバンを左右に軽く揺らしている。
「早くしないと、先生来ちゃうよ?」
雫が先に行ってしまうような素振りを見せた。
「わかったって」
俺も彼女を追って教室から出る。
――ん?
雫の机を横切る時に触れた冷たい感触。
またしても違和感が過ぎったが、彼女を待たせていることを思い出して頭から追い払った。
――――
校門を抜けた頃には外はだいぶ薄暗くなっていた。
夏に近付いて日が延びたものの、そのぶん部活の時間も長くなって結局空模様が明るいうちに帰るどころか、余計に暗い時間に帰ることになってしまっている。
これからさらに日没は遅くなるだろうからいいのだろうが、最初の今は夜かと思ってしまうくらいに真っ暗だ。
もう夜空と呼んでも差し支えない空は、未だ雲がかかっていて星どころか月すら見えない。
月はあの辺りにあるのだろうか、などと考えていると、隣を歩いていた雫の動きが止まった。
「あ……」
子猫のように小さく声を上げる。
公園の前に備え付けられた町内の掲示板の一角に、彼女の視線は注がれていた。
「どうしたんだ?」
尋ねながら雫の隣まで戻って同じ方向を見ると、画鋲で止められたコート紙に、黒の背景に紅で彩られた一輪の花火が印刷されている。
近場で開催される花火大会の広告だった。ここから電車で二十分くらいのところで毎年あるお祭りで、両親と一緒に行ったことが何度かある。
「花火……」
ぽつりと呟かれた声。
「一緒に行く?」
「えっ?」
パッとこっちを振り向くと、雫の三つ編みが遅れてゆっくりと揺れた。
「お祭り。部活あるから、無理かもしれないけど」
「行きたい……な」
目をキラキラと輝かせながら雫が首を縦に振った。
「でも……」
しかしふと何かに思い至ったようにうつむいて、返答の勢いをなくした。
「でも?」
「ううん、ただ、いいのかなって……」
「いいに決まってる」
むしろどこにダメな要素があるのだろうか。と、そこである可能性が頭に浮かんだ。
「その日何か用事があるとか?」
「それは大丈夫……だと思う」
「なら問題ないんじゃないか」
「そう……だね! うん、じゃあそうしよう」
「よし!」
その返答が嬉しくて、思わず拳を握ってガッツポーズを決める。
「こ、孔人くん?」
俺の反応に驚いたのか言葉が詰まった雫は、目を丸くしていた。よく考えたら一人だけ舞い上がっているみたいだ。テンションの差が悲しい。
「あ、いや、こう雫と夏っぽいこととかできたらなぁって思ってたから……」
「…………」
「……嫌、だったか?」
「ううん! そんなことは全然ないよ!」
俺の質問が予想外のものだったらしく、これ以上ないくらい強く首を振る。
「ただ……」
「ただ?」
「……私で、いいのかなって」
「……はい?」
今度は俺が、雫の言葉に素っ頓狂な声を漏らしてしまう。
しかし雫の目に冗談の色は一切見えず、ともすれば辛そうにも見えた。
「それって、どういうこと?」
問い返す俺に彼女は答えず、地面を見つめるばかり。
二人の間に沈黙が訪れる。
蝉の鳴き声はいつの間にかしなくなっていて、代わりに聞こえる虫の声。
痺れを切らしてもう一度問おうとすると、雫の唇がゆっくりと動いた。
「そこ公園だし、少し話してもいいかな」
そう言って指差す先には木で出来た、ちょうど二人で座れそうなベンチがあった。
暗くなった公園の中に、他に人影は見られない。
「うん」
答えるやいなや、雫が先に公園に足を踏み入れていく。砂利を踏み転がす、ザッザッという音がやけに際だって聞こえた。
後を追ってベンチに二人で座る。表面をなぞるとささくれ立った木の凹凸が、指を刺すようで痛い。
ベンチの脇に備え付けられている常夜灯がポッと明るくなり、一帯の暗闇がそこを中心としてなぎはらわれる。
「最近思うの」
唐突に雫が言葉を紡ぐ。それは俺に向けられたものというよりは、独り言に近いようにも感じられた。
「私、孔人くんの彼女でいいのかなって」
呟きに近い雫の声のぼやけた輪郭の言葉は、はっきりとした彼女の感情を持っていて、俺の胸に深く突き刺さる。
何も言えなかった。何を言えば良いのかがわからなかった。
そんなことを口にしてしまう彼女の思考も、感情も、何もわからない。
ただ、そこに雫の悲痛な思いが込められていることだけはわかる。理解不能な痛みは、全身が引き裂かれてしまいそうなほどだった。
雫の表情を覗こうと右へ視線だけを動かすも、既に灯りのない空の下では顔がよく見えない。
それっきり口を開こうとしない雫が、俺の言葉を待っていることはわかった。でも何て言えば良いのかわからず、結果的に思考がループする。
「……どうして、そんなことを?」
無限にも思える繰り返しの果てに、ようやく絞り出した文句は『わからない』と遠回しに言っているようなものだった。
あまりにも情けない自分が腹立たしい。
「自分で言うのもなんだけど……」
別の言葉はないものかと思索を巡らせていると、雫が話を切り出す。
その口元は何かを皮肉っているように笑っている。
ひどく、悲しそうな笑みだった。
「私って地味で、暗くて、人と上手く話せなくて、人としてダメな部類だと思うの」
「そんなこと――」
ないと言おうとしたが、雫が手のひらをこっちに突き出してそれを遮る。
「でも、孔人くんは違う。私と違って、すごく明るくてみんなのヒーローで、だから……」
苦しそうに言葉を詰まらせる。しかしすぐに息を整えてまた呟くように言葉を紡ぐ。
「私みたいな人と一緒にいるのは、孔人くんに迷惑なんじゃないかって」
「迷惑なんかじゃない!」
自分の予想よりも大きな声が飛び出していた。
雫が呆然と俺を見上げている。無意識の内に俺は立ち上がっていたようだった。
「俺は雫が好きだ。だから付き合ってるんだ」
感情のままに口から出ていく言葉は脊髄反射的で、論理性もへったくれもないシンプルな代物だ。
もっと上手く言葉に出来るはずなのに、感情的になっている脳がそれを思いつかせてくれない。
「それなのに、そんなことを、言うな……!」
喉の奥がグルグルとかき混ぜられているような感触で、吐き気がする。顔を撫でてくるそよ風が僅かな冷静を取り戻させると、自分の抱いている感情が怒りなのだとわかった。
「俺と雫が違うって、そんなことあるもんか。同じただの中学生じゃないか」
抑えきれない感情の荒波で、自分の声が震えている。
雫はどこか怯えたような感情を湛えながらも、俺から目を離さずにただ黙って聞いている。
ひとしきり言い切った喉がひどく乾いて痛かった。
強く握り込んでいる手のひらには、爪の跡が食い込んでいるだろう。
「孔人くんは……私でいいの?」
もう一度、念を押すような問い方。
雫に自分をひどく低く評価するところがあることはわかっていたが、ここまでとは思っていなかった。
「で、じゃなくて、が、だ」
「えっ?」
「雫でいい、じゃない。雫がいいんだ。他の人と付き合うなんて、あり得ない」
「そう……なんだ」
頬を紅潮させながらもどこか安堵したように息を吐いた。
「なんだか、そんな風に言われると、ちょっと照れる……」
ニヤけそうになるのを堪えるように、雫がそう言葉にする。そんな彼女の姿が、表情が、全てがたまらなく愛おしくて仕方がなくて、一歩踏み出した。
「――っ!」
雫の息が詰まるのが聞こえたけど、見えない。
彼女は、俺の腕の中にいたからだ。
手放したくないと思った。
彼女の、四宮雫のそばにずっといたいと思った。
彼女の身体はまるで細い木の幹のようで、力を入れすぎるとそのまま折れてしまうんじゃないかと思ってしまうほどだ。
ブルッと腕の中で震える温度が、触れ合っている相手が今この瞬間に生きていることを確かに告げている。
強く、強く抱きしめた。
自分の思いが、言葉以上の好きだという感情が、ちゃんと伝わっているのだろうか。
ふと、雫がもぞもぞと身動きするのを感じた。苦しいのだろうかと手を解放しようとすると、自分の背中に小さな感触。
「あたたかい……」
躊躇いがちに、でも確かに強まる力。
雫の弱々しさが余計に伝わってきて、自分が抱きしめているのが小さな女の子なのだと、改めて実感する。
「ごめん、いきなり」
「ううん」
雫の声が自分の胸に吸い込まれていく。空気を渡って皮膚に触れた振動がむず痒い。
自然とどちらともなく二人の手は解かれて、互いの腰辺りの不十分な位置で止まった。
久しぶりに見たような顔は、前より一層紅潮している。きっと自分も同じようなんだと思う。
恥ずかしいような照れくさいような、そんな思いから目を逸らしてしまいたくなったが、まっすぐに俺を見つめる雫の瞳から目を離せない。
外灯の白い光に照らされた俺と雫は、まるで演劇のスポットライトをあてられているようだ。
ライトを遮る形を表すふたつのシルエットが、ゆらゆらと揺れる。
指先を動かすとそれを追うように、足元から伸びているシルエットの片方も動いた。
影の中のひとりの手が、もうひとりの肩にかかる。
小さい方の影は一瞬だけビクリと全身を震わせて、それから少し背伸びをした。
ふたつの影が、ひとつに重なり合う。
そこに音はなく。
光もなく。
声も、涙も、夜も、月も、すべてのものが意味を失った。
ただふたつの影だけだった。




