第32話
雫との別れ道のあと、うちの学校の制服姿と黄色い傘が道端でちらついた。
向こうも俺の存在に気づいて声を上げる。
「あ」
「あ……」
同じく部活後であろう『女子A』は顔をほころばせて、小走りで俺に近付いてきた。
「天笠じゃん。偶然だね」
「おお」
表面上は普通に振る舞えていると思うが、内心では思考がまとまらずぎこちなくなっていないか心配だ。
「部活?」
『女子A』は自分の居場所だと言わんばかりに、俺の右側を歩き始める。
俺の傘が彼女のに時折ぶつかり、その度に衝撃で布の上にて静止していた水滴が滑り落ちていく。
「そう。そっちもだろ?」
「うん、まぁね」
「…………」
何も口にできない。
『女子A』には一度告白されていて、完全には断りきれず、彼女に変な期待を残してしまった.
その後ろめたさに全単語を封じ込められていたようだった。
「天笠さ……、四宮さんと付き合ってるんだって?」
思わず『女子A』の方を向く。
逆に『女子A』の目線は俺の方へは向いておらず、ぼんやりと前を見ているだけだ。
「…………」
水分を含んでじめじめする空気が、肺の中に入り込んでくる。
自分のすぐ上で水滴が弾かれる音。
それと俺たちの濡れたアスファルトを踏む音。
聞こえるのはその二つだけだ。
「……何か言ってよ」
そんな沈黙を破ったのは『女子A』の方だった。
俺はまだそれを破るための方法ばかりが、頭の中を巡っていた。
「……うん」
ただ首肯するしかなかった。
何を口にしようかと思考を巡らせていると、『女子A』の足が止まった。
同じく俺も止まるも反応が遅れて、数歩ほど彼女よりも進んだ形になった。
そのまま流れるように振り返るも、『女子A』の顔は傘で隠れて見えなかった。
「あたしのことは振ったのに」
黄色く遮られた壁の向こうから、低くドモったような声がした。
「……ごめん」
俺を責めたいだけなのだろうか。
彼女の真意がつかめずに、どうにかそれを読み取ろうにも、顔が隠れていては知りようもなかった。。
「なんで?」
「えっ?」
「四宮さんの、何が良いの?」
語気が強まるのを感じた。
それは質問の重要性をそのまま反映しているようで、俺は彼女を見るのをやめて思考を巡らした。
「何が……か」
「そう」
雫の顔を思い浮かべる。
……。
…………。
彼女と一緒にいる時間のことを考えていると、不思議と胸の辺りがあたたかくなるのを感じた。
「ただ、幸せなんだと思う」
「幸せ?」
「どこが可愛いとか、何が好きだとか、そういうことじゃないんだ。しず……四宮と一緒にいると、ただそれだけなのに嬉しい」
「……あたしじゃ、ダメなの?」
「…………」
二人の靴とアスファルトがぶつかり、水が飛び跳ねる音が、一歩ごとに足下から踏み鳴る。
いつの間にか道を歩く人は俺たち以外いなくなっていて、そのせいで余計に足音だけが強調される。
「そう」
ひどく、冷たい声だった。
耳から入り込んで全身が凍りつかせたような錯覚。
「もう、わかった」
何の感情も込められていない、ただ紡がれた言葉。
それが鼓膜を振動したと感覚するのと同時に、突然彼女の身体は大きく動いた。黄色い傘が俺の横をすり抜けていく。
その時、一枚の布の向こう側が一瞬だけ目に入った。
『女子A』の表情は冷酷さを想起させる声音とは正反対のものだった。
素っ気ない口調を捨て台詞のようにして、俺より先を走っていく。
何か一言でも声をかけようと思ったが、肝心の言葉は微塵も浮かんでこないままで、手を伸ばすことすらできなかった。
そうこうしている間に『女子A』の姿はもう見えなくなっていた。
一人残された俺はうつむき地面を見る。
いくつもの雨粒でびしょ濡れになった地面が、街灯の光を鈍く反射していた。
体の奥底を鈍く響く痛みが、沈んだ心をさらに深いところまで引きずり下ろしていく。
ついさっきまで隣りにいた『女子A』の顔が頭から離れてくれない。
あんなにも背筋を震わせた声のイメージは、粉々に砕けそうな彼女の涙と入り混じって、その意味を不明瞭に、不自然にしている。
「もう、諦めてくれたのかな」
無意識に漏れていた独り言が、自分の他に誰もいない家路の中にふわりと浮かんで消えた。
「……帰ろう」
――――
次の日も早朝から朝練で、既にクタクタになった足で教室へ向かった。
しかも今朝もあいにくの天気で走れたわけでもないから、爽快感すらも皆無だった。
この時間の廊下は普通に登校する生徒や、朝練終わりの運動部がいるせいで混み合っていて、賑やかを通り越して騒がしい印象を受ける。
「疲れた……これから授業とか嘘だろ……」
「授業……寝る気しかしない」
「一時間目なんだっけか……」
「……忘れた」
ゾンビのごとく廊下を歩み進む三人の陸上部。
つい数分前まで校庭を疾走していた姿とは、似ても似つかないだろう。
教室に近付いてくると、中からの喧騒が廊下にまで聞こえてくる。
しかしいろんな人の声が混在しているせいで、具体的な会話の内容までは聞き取れなかった。疲労困憊であることも原因の一つなのだろうが。
「……四宮さんってさぁ」
しかしそんな中でも、その単語だけははっきりと際立って聞こえた。
四宮?
気になって耳を澄ますが、それ以降の会話は全く聞き取れない。
声の感じから察するに、女子の中でも上位のグループの会話らしい。確か『女子A』もそっち側だったような気がする。
中学校の中には所謂スクールカーストというものが存在するらしい。
誰が決めるでもなく形成されていく上位層と下位層、無意識の内にそれを感じ取って日々を過ごしていく。
うちのクラスにも例に漏れずそれが存在しているようで、ならば『女子A』たちのグループはその上位の方であると思う。
しかし彼女たちの会話の中で雫の名前が出てくるのは、どこか不自然だ。雫は言ってしまえば上位層にも下位層にも属していない、イレギュラーな存在だと俺は認識している。
だからこそ、なおさら不自然だ。
「よぉ、おはよう」
教室に入るとすぐ目の前付近の一角を、『女子A』たちが占拠していた。
一斉にその目が俺の方へ向くと、みな一様に笑顔を向けてきた。
「おはよ!」
「おす」
「おはよう」
「天笠くん、死にそうだね」
「朝練がキツくてな」
「あれ、オレたちは?」
「あんた誰だっけ?」
「扱いが酷くないか!?」
「うそうそ」
『女子B』が手のひらをクネクネと振りながら冗談だと笑う。
それを見て『男子A』は安心したように息をつく。『男子B』は既に『女子B』と一言交わした時点で自分の席に向かっていた。
「……おはよ」
他の人に比べて若干暗めの顔が死角から現れた。その姿を目に入れた瞬間、昨日の帰りのことを思い出して一瞬だけ思考が飛ぶ。
「お、おはよう……」
「お疲れ様」
「えっ?」
全く予想外の言葉に間の抜けたな声が飛び出してしまった。
それを俺が意味を理解できていないと受け取ったらしい『女子A』は繰り返す。
「朝練だったんでしょ?」
「あ、ああ。ありがと。……じゃ」
俺は逃げるように片手を上げてその場を後にした。
どうして雫のことを話題にしていたのか、それを聞くタイミングが見つからずすごすごと退散する自分の姿が、なんだか滑稽なようにも思えた。
……そうだ、雫は?
雫のいる教室前方の扉側へと視線をやると、そこにはいつも通り本を読んでいる彼女の姿があった。
ずっとそこにいたような彼女の佇まいから考えて、『女子A』たちとの会話に混じっていたようにも思えない。
一体何だったのだろうか。
ガララ―。
と、担任が教室に入ってきて思考が強制的に停止された。
「おい、席につけー」
担任に声を皮切りに教室内に静けさが訪れた。
……眠い。
周りが静まった途端に睡魔が全身に、主にまぶたに襲い掛かってきた。
急激に舞い込んだダルさのせいで、眠りの世界へと誘われた俺はそのまま……、
――――
『……だって、マジで』
『それってさ……、……じゃない』
『……らしいよ。それで……も……したって』
『あたしも前から……だと思ってたし』
『わかる』
『私も』
『じゃあさ……』
――――
結局眠りに落ちるまでは良かったものの、授業が始まるとたちまち数学の教師に起こされてしまい、今に至る。
なんでわざわざ俺を名指しで起こした? おかげでいい笑い者になってしまった。『男子A』も寝ていたのに。
気づかれなかったからか起こされなかった『男子A』は気持ち良さそうに寝息を立てていて、それがなんだか癪に障った俺は消しゴムの切れ端をぶん投げてやった。
白くて軽い物体は放物線を描いて、ワイシャツと背中の間に吸い込まれていった。
その間わずか一秒。
教室内でこれに感づいたものはいない。
本人でさえ気づかずに夢の中。授業が終わって起きたら見ものだろう。
ふと、雫のことが気になって視線だけをそっちにやってみる。
当然授業を真面目に受けているのだろうと予測していたのだが、驚くことにその予想は外れた。
彼女は首だけを回して、俺の方を向いていた。
俺と雫の目が合う。
「!」
驚いたように目を丸くして、それからまばたきするくらいの刹那の間を挟んでから、頬を赤らめて姿勢を前に戻す。
一瞬の出来事だったはずなのに、一分くらいに引き伸ばされたような感覚。
「~~~~~~!」
そんな雫の様子を見ていたら、平気だったはずの自分まで顔が熱くなってくる。
手首の脈を測ってみても、同様にその脈動の間隔も狭まっている。
雫はそれからまたゆっくりと恐る恐る、人見知りがちの小さな子どものように、俺の方へ目を向けた。
今度は俺と目が合ってもさして驚かずに、小さく俺以外の誰にも見えないくらいに小さな微笑みを浮かべる。
そして右手を小さく横に振った。
「~~~~~~!」
思わず机に突っ伏した。
傍から見たら懲りもせずに、また居眠りに励もうとしているように映っているに違いない。
まさかニヤける顔を隠すためだなんて誰が思うだろうか。
いや、無理だってあんなの。死ぬ、殺しにかかっている。
心臓がバクバクいってるし、これもう緊張とかじゃない。なんか別の世界が開いてる。
何なのあれ。可愛いとかそんなレベルじゃなくて、可愛すぎる。
「いたっ!?」
頭上に隕石が落ちてきたかのようだった。
「二度寝なんていい度胸だな」
どこからかクスクスと抑えた笑い声が聞こえてくる。
仕方なく顔を上げて辺りを見渡し、あたかも本当に寝ていたかのように装う。
「今、何時間目ですか?」
「まだ一時間目だ」
ドッとクラスが笑い声で湧き上がった。
「はぁ……。ちゃんと授業くらい聞けよ。来年には受験もあるんだから」
「うす」
そう言って授業が再開されるが、緩んだ雰囲気まではすぐには戻らず、まだ誰かの笑う声が聞こえてくる。
……来年か。
クラスの雰囲気を無視して、頬杖をついて窓の外を眺めながら何となくその一単語に思いを馳せる。
雫と同じ高校に行けたら、なんて思う。
そんなことを考えるには随分と気が早いと頭を振った。まだ二年生だって始まったばかりだと言うのに。でも少なくともあと二年は、雫と一緒にいられる。
まだ十年ちょっとしか生きていない自分にとって、二年という年月はすごく長いもののように感じられた。
遠い未来を空想で思い描いて、その未来の中ではどこを切り取っても俺も雫も幸せそうで、またニヤけてしまいそうになる。
あ、でも……。
と、そこでふと思い当たる。
今のうちにちゃんと勉強しておけば、雫と同じ高校に行ける確率が上がるんじゃないだろうか。逆にサボってたら……。
……よし。
閉じられていた教科書を開いて、黒板へと目を移し、筆箱から出したシャーペンを握る。
「…………」
しかし、ここで一つ問題が発生した。
「……何が何だか」
さっぱりわからない。
――――
全授業と形だけの校内の清掃が終わって放課後。天笠孔人は完全に力尽きていた。
「おー、死んでんなー」
「授業がわからなくて泣きそうだった」
「突然どうした」
「いや、ちゃんと授業受けようとしたんだよ……。……何もわからなかった」
「おー、真面目。怒られて更生したか?」
「あれ、なんで俺だけなんだよ……。お前らだって寝てたじゃないか」
「そりゃ、お前目立つし」
「?」
「うんうん」
何がうんうんなのかわからない。
別に俺は特別背が高いわけでも、悪事を働く不良でもないと思う。
――自分では。第三者から見たらどうなのかわからないので、全く自信がないが。
「おら、早くしねぇと顧問に怒られるぞ」
『男子A』が背中をバシンと叩いてくる。手加減が下手な手のひらからの衝撃が、正直痛い。しかしそのおかげで眠気も飛んでいった。もちろん感謝はしないが。
「……行きますか」
立ち上がって身体を伸ばすと節々からメキメキと小気味の良い音が鳴った。それだけ動いていなかったのだと思うと、これからの部活への活力も湧いてくる。
教室の中を見渡すと半分以上の席はもう空いていて、ガランとした印象を受けた。
残っているほとんどが女子で、それぞれ固まって楽しそうにおしゃべりに勤しんでいる。
何人かは一人で勉強をしていたり、本を読んでいたりする。四宮もそのうちの一人だった。
今日も俺の部活が終わるまで、ああして残っていてくれるのだろう。
「あ、ちょっとだけ待ってて」
「おー」
雫の元へ行き机を軽く二回叩くと、雫はハッとしたように顔を上げた。読書の邪魔をしてしまったようで、少し申し訳ない。
「あ……、天笠くんか」
「今日もこれから部活だから」
「うん、ここで待ってるね」
「ありがとう」
軽く手を振って『男子A』達のところに戻ると、二人はこれ以上ないくらいにニヤニヤした目つきで俺を迎えてくれた。
「微笑ましいですねぇ、実に」
「ですなぁ」
「何なんだその口調」
「いえいえ、何でもありませんよ。なぁ『男子B』さん?」
「ええ、ええ。そうですとも。おほほほほほ」
「おーい、帰ってこーい」
二人の井戸端会議をしているオバちゃん風の喋り方は部活が始まるまでやめることはなく、そしてその終わったきっかけも顧問の一喝という、実にくだらない幕切れでありましたわ。おほほほほ。




