第31話
それから、部活が終わった後に教室に向かうのが日課になっていた。
誰もいない廊下を抜けて教室の扉を開くと、そこにはいつも四宮がいて、軽く話してから一緒に帰る。
それは最初は一週間に一度くらいで、次第に三日おきになって、二日おきになって、いつの間にか毎日になっていた。
「よ」
「部活、お疲れ様」
「ありがと」
四宮の前の机にカバンを置いて、椅子に座る。女の子の甘い香りが鼻孔をくすぐった。
「今日は何読んでたんだ?」
「これ」
四宮が表紙を俺に見せてくれる。
「あ、これは知ってる」
「ほんと?」
「うん。読んだことはないけど、タイトルだけは」
確か前にベストセラーとかになった恋愛小説だったはずだ。普段ミステリーや歴史小説を読んでいる四宮にしては、珍しいチョイスだと思った。
「貸してあげようか?」
「いいのか?」
「うん。もう読み終わっちゃったし」
「それ、今日読み始めてなかった?」
「うん? そうだけど……」
「もう読み終わったって?」
「読み終わったけど……?」
キョトンとした顔で首を傾げる。
本当に四宮は本を読むのが早い。少なくとも俺の数倍は。
「早いよな……四宮って」
「そうかな?」
「そうだろ。俺なんか下手したら一冊に一ヶ月くらいかかるぞ」
「それって読んでない間が長いだけなんじゃないかな」
「……なるほど、確かに」
言われてみれば途中で飽きて読むのが面倒になって、読まずに放置している時間というのは多い。実際に読んでいる時間だけを合計したら、四宮ほどではなくとも短い時間で読んでいるのかもしれない。
「天笠くんって本はあまり好きじゃないの?」
「嫌いってほどでもないけど、進んで読むのは少ないな。たぶんマンガ読んでる方が多い」
たぶん、というより確実に多い。小さな頃からお気に入りのワンパルトボールなんかは、一ヶ月に一回くらいで読み返しているくらいだ。
「どういうの読むの?」
「ワンパルトボール」
「すごく男の子っぽいね」
そういう系統に縁のなさそうな四宮も知っているようだ。さすがワンパルトボール。
「興味あるなら貸すよ。超少年マンガだけど」
「そういうの読んだことないからわからないけど、読んでみようかな」
はたしてあの熱いストーリーが四宮に受け入れられるのか全く予想できないが、もしもハマったりしたら面白そうだ。
「……あ」
そんな会話をしているとあっという間に時間は過ぎる。また最終下校の直前だ。
「そろそろ帰ろっか」
俺が時計を見たのに気づいた四宮が今日の終わりを告げる。
幸せだと、すごく思う。
ただこうやって同じ時間を過ごす、それだけのことで心が満たされていく。
だから、こうやってそれが終わることがひどく名残惜しく感じる。明日になれば、また会える。
そうわかっていながらなお、もっとが欲しい。
そんな自分は傲慢なのだろうか。現状の自分のしていることは『女子A』と同じなのではないだろうか。
「天笠くん、ほら行こ?」
扉に手をかけて俺を待つ四宮。優しさに満ちた声が俺の心をかき乱す。
俺は今まで誰かにこんな感情を抱いたことはないし、そもそも恋というもの自体、未経験だ。
だからこの分類不能な感情を、恋愛感情と呼んで良いのかもわからない。
それでも、心がそうだと言っていた。
なんの確信もそこにはないのに、はっきりとそう告げている。
高ぶる心臓の鼓動が、そう言っていた。熱くなる頬が、そう言っていた。
俺自身もそう信じている。
「……なぁ、四宮」
「なに? 天笠くん」
息が苦しい。
全身から汗が止まらない。
頭の中いっぱいに埋め尽くしている言葉を、口にする最後の勇気が振り絞れない。
「……っ」
でも、伝えたい。
その思いが強く俺を動かす。
「俺、四宮のことが好きだ」
自分でもなんて芸のない告白だと思う。
でもそれ以外に自分の中に言葉はなかった。これだけが全てだと、これ以外は偽物だとすら思った。
愛してるだとか、君は太陽のようだとか、そんな歯の浮くようなセリフは、自分の中では結び付かない。
でもそれをちゃんと口に出来たかどうか、言ったそばから自信がなくなってくる。
喉の奥が酷く乾いて痛い。なのに背中は汗でびっしょりになっていて寒い。
だが、それから先は無音だった。
四宮は何も言葉にせず、ただ呆然とそこに立っているだけだ。
彼女はいつもそうだ。自分にとって予想外のことが起きると、完全に思考が停止してしまうのだろう。
だからこうなってしまうことに対して、驚きはなかった。
しかしそれとは別の話で、俺の告白に対して四宮がどう感じているのかはわからない。
彼女の心が気になってしょうがなくて、でも自分が何を言えばいいかもわからなくて、四宮の目を見つめることしかできない。
遠くから騒いでいるような声がうっすらと聞こえてくる。きっと下校中のうちの生徒のものだろう。
それもまた徐々に遠く薄れていって、やがては消えた。
それでもまだ、四宮は何も言わなかった。
反応を待つことしかできない俺は、まるで死刑宣告をされる前の犯罪者みたいだと思った。
「ご、ごめんなさい」
絶望。
恋愛というものに疎い俺でも、こういう時に出てくる謝罪の言葉の意味くらいは知っている。
思わず、目の前が真っ暗になって、そのままぶっ倒れそうになる。
「……あっ!! ち、違う! そういうことじゃなくて!!」
滅多に聞かない四宮の大声が、俺の意識を現実に戻した。
「こういう時に何て言えばいいのかわからなくて、それで黙っちゃってごめんって、そういう意味で……っ」
「は、はぁ……」
「だから、その……っ」
四宮の言葉が途中で詰まった。
胸の辺りを押さえている彼女の姿が酷く苦しそうに見え、心配の方向が別の方へとシフトしていく。
もしかして身体がどこか悪いのだろうか。
「四宮……?」
「えっと……、あ……」
四宮の目から、ひとしずくの涙がこぼれた。
頬を、顎をつたって空中に投げ出された水滴が、決して大きくはなくとも確かな音を立てて、床を跳ねる。
「おかしいね……っ、なんで嬉しいのに、泣いているのかな……」
目元を擦って必死に涙を押し止めようとするも、次々と感情の濁流が押し寄せてはその瞳から溢れ出ていく。
「……私も、天笠くんのこと、好き」
四宮が必死に紡いだ言葉が俺の鼓膜を震わせた瞬間、身体全体が一斉に宙へと浮き上がったような感覚が脳に直撃した。
思わず言葉にならない声が出そうになる。
しかしすんでのところでどうにか堪えて、残ったキャパで考えられる言葉を口にする。
「よかった……」
今の自分にはこう言うのが精一杯だった。
「両想い……ってことだよね……?」
「だと……思う」
「そっか……」
「うん……」
気恥ずかしくなって四宮の顔から目を逸らす。ほとんど同時に四宮もプイッと俺から顔を背けた。
「……ふふっ」
「あははっ」
何だか自分たちの会話が可笑しく思えてきて、お互いに笑った。
二人の笑い声は夕方の教室の中で小さく響き渡っていた。
「じゃあ、これからもよろしくな」
「うん。こちらこそ不束者ですが、よろしくお願いします」
――――
そんなこんなで俺と雫は付き合うことになった。
楽しいばかりの毎日は光に迫る速度で過ぎていき、気づけば季節は梅雨に突入していた。
昔から梅雨は嫌いだ。雨ばかり降るのは憂鬱以外の何物も産まないし、何よりも基本的に外で遊ぶのが好きな俺は、見事にそれが阻害されて腹立たしい。
部活に入った今は、とりあえず走れなくなることが苦痛だ。
休みになるならまだしも、そういう時は室内でできる基礎トレオンリー。不平を垂れると顧問にドヤされそうだから耐えているものの、今日もまた退屈で仕方なかった。
「あー、疲れた……」
「やっぱ筋トレしかできないって地獄だろ……」
「そろそろ走りてぇよな……」
同じく長距離の二人と愚痴をこぼしながら部室に入り、着替える。
男の着替えなんて数分とかからず、すぐに帰り支度を終えてしまった。
「こう雨ばかりだと、気分まで曇り空になりそうだ」
一番に終えた俺は窓から見える灰色の空を見上げながら、そうぼやいた。
「なーに文学少年気取ってんだよ、彼女持ち」
「そーだ、この彼女持ち」
「お前たち、俺に対しての当たりが最近酷くないか?」
俺と雫が付き合っていることは、既に学校中に広まっていた。
まぁ、毎日毎日部活後にわざわざ会いに教室に行ってたら、嫌でもバレるに決まっている。
「これからも彼女とイチャコラですぜ、どう思います? 同士よ」
「不純異性行為ということで退部していただこう」
「賛成」
「賛成多数。よって、天笠孔人。貴様は死刑だ」
「なんかいろいろおかしくない? ……あ、じゃ、お先に」
「おーじゃあな」
部室を出て走って向かう。
「でも最近さ――」
扉が閉まる直前、そんな『男子B』の声が聞こえたが、どんな会話を始めたのかはさっぱり見当がつかなかった。
そんなことよりも雫を待たせているし、急がないと。
――――
「おまたせ、雫」
「あ、孔人くん。お疲れ様」
付き合い始めてから少し経って、二人きりの時は互いのことを下の名前で呼ぶことにした。理由を尋ねると、小説ではよくある話だからとのこと。
まだ少し恥ずかしさが残っているが、最近はだいぶ慣れてきた。
「遅くなってごめん」
「ううん、いいよ。大会前だもんね」
「三年が最後だしな。気合い入ってるよ。入り過ぎなくらい」
大袈裟にげっそりと疲れたポーズをとると、雫が笑った。
「ふふふっ」
ああ、癒される……。
雫の笑顔を見た瞬間、今日の部活の疲れもどこかへ吹っ飛んでしまった。前から可愛いとは思っていたが、付き合い始めてからはさらに可愛くなっている。
俺の心境の変化のせいもあるが、雫自身の変化も起因していると思う。
「髪、切ったんだ」
些細な違いだが、前髪など所々が少し短く切り揃えられていた。
最近は暑くなってきたから、それに合わせて切ったのだろう。少し短くなっただけなのにも関わらず、随分と爽やかになった印象を受けた。
「あ、うん!」
俺が気づいたことが嬉しくて仕方ないとばかりの、満面の笑みを浮かべた。
笑顔はじけて、可愛さ百倍!
……マズい。そろそろキャラが完全に崩壊しそう。
「昨日、ちょっとだけね。どうかな……?」
心配そうに毛先をいじりながら聞いてくる。その仕草だけでもう可愛い。
「すげぇ、似合ってる……」
「よかった、ありがとう」
雫は嬉しそうに、けれど少し照れているように顔を下に背ける。
「もう時間もあれだし、帰ろう?」
「うん」
――――
同じ時間なのにも関わらず、以前よりもまた夕方が長くなったせいか、帰り道には歩いている人がちらほら見えた。
買い物帰りの主婦に、くたびれたようにカバンと傘を片手に歩くサラリーマン。
はたまた鬼ごっこでもしているのか走り回っている小学生。
雨なのにそんなの障害にもならない様子で、水たまりをバシャバシャと踏み、飛び越えていく。
二人だけで歩いているのも好きだが、こんな風にいろんな人の日常に囲まれながら、二人でいるのも素敵なことだと感じる。
……そうだ。
ふと思いついたことを問いかけてみる。
「今日は何を読んでたの?」
俺を待っている間に読書に耽っているのは、以前から変わらない。たまに読み終わった本を借りることも、今ではそんなに珍しいことではなくなった。
しかし、俺の質問が耳に入るやいなや、雫は顔を曇らせた。
「雫?」
「……なくしちゃったみたいで、今日読もうと思ってたの」
「なくした?」
「うん……。朝にはあったんだけど、気づいたらなくなってて……」
「掃除の時にでも落ちちゃったのかな」
「わからない……。途中まで読んでて続きが気になってたから、ちょっとショックで……」
雫の表情がどんどん落ち込んでいくのがわかった。
「落とし物のところにもなかったのか?」
「教室の方も学校全体の方も、どっちにもなくて……」
「そっか……」
「どこ行っちゃったのかなぁ……」
「きっと見つかるよ。誰かが間違えて持ってるだけで、気づいたら落とし物箱にでも放り込むと思う」
我ながら無責任な言葉だと思った。こんな言葉は希望的観測の結果に過ぎない。
それでも、何も言わないよりはマシだ。どうしようもないことに対して現実的な意見を述べるよりも、ずっと良い。
「そう、かな……」
「そんなものだよ。……そうだ、明日早めに学校来て一緒に探す?」
我ながら名案だと思った。朝から雫に会えるなんて考えたら、それだけで嬉しくなってしまう自分がいた。
が、しかし――、
「それはダメでしょ、孔人くん。朝練だってあるんじゃないの?」
「あ……」
すっかり忘れていた。
明日も授業が始まる前まで、俺はずっと校舎の外を走っていることだろう。
走れたらマシな方だ。また今日のように基礎トレの連続かもしれない。
朝から雫に会うのは、三年になって部活を引退するまで無理なのかもしれない。
「……でもありがと。気持ちだけ受け取っておくよ」
「いえいえ。こっちこそあんまり力になれなくて悪いな」
「それだけで十分、私は嬉しいよ」
ニコリと笑顔を向けてくる雫は、もういつもの彼女に戻っていた。暗い顔は雫には似合わない。
人生で初めて出来た彼女だ。
できる限りずっと笑顔で幸せでいて欲しいと、自分がそうしたいと思う。
ずっと、幸せで。
結局その時に雫がなくした本が見つかることはなかった。
あの瞬間から今に至るまで、永遠に失われたままだ。




