第29話
相変わらず外は雨が降り続いている。恐らく今日一日は止みそうにない勢いだ。晴れていたら屋上に行こうかと思っていたが、それもできない。
……いや、どちらにしろもう屋上に足を運ぶことなんて、到底できそうにないだろう。
「…………」
教室の付近には体力を持て余した生徒たちがたむろっているが、そこを抜けて図書室などのある方へ行くとまるで別世界のように静かだ。
ふと、思い立って後ろを振り返ってみる。
そこにはもちろん誰もいない。学校の廊下なんてどこも似たような代物だ。
だから彼女がここにいたことはないが、そこにありもしない面影を投影させてしまう。
リノリウムの廊下を歩いていた、一人の女子の姿を、そこに重ねてしまう。
そして、またその喪失を想起して、小さくため息をついた。
冷気と湿気の入り混じった空気は、一つ呼吸するだけで不快感を覚えさせる。行く宛もなしに教室を出たのは失敗だったと後悔しながら、俺は校舎内をただブラブラと歩き続けた。
昼休みも残り十五分弱。
そろそろ戻らないと弁当が食べきれないと教室に足を踏み入れる。
「な……!?」
思わずそんな声が漏れ出てしまった。
俺の席のすぐ近くに、神野の姿があったからだ。その場所はさっき俺が教室を出た時からほとんど変わっていない。
「!」
俺の声が聞こえたのか神野が振り返る。
その表情は困惑気味でありながら、どこか怒っているようにも見えて、その内心を読み取れない。
「…………」
しかしこっちも昼食がかかっている。
いや、昼食自体は最早どうでもいい。食欲なんてほとんど湧いてこない。
ただ、自分の席の近くで誰かがずっとうろついているのに、どこか煩わしさを感じた。意を決して一歩踏み出すと、神野の足が一歩後ろに下がった。
不思議に思い彼女の目を見ると、やはり怯える小動物は健在のままで、サッと目を逸らされた。
ならばこっちが気を遣う必要もないと、さらに堂々と歩みを進めて席につく。
再び箸を手に取り、白飯とおかずを交互に口に入れるのを再開する。しかし神野は未だに机の傍から離れようとせず、そのせいで食事に集中できない。
視界の端で神野が何か言おうと口を開こうとして、それからまた閉じるのを繰り返している。
そんな神野の姿を見るのは嫌で仕方なかったが、かと言ってこっちからも何かを言うつもりもなかった。
つい昨日まであれほど興味の対象であった神野も、今の自分にとってはどうでもいい。
「…………」
しかし、いつまでもそこに立たせたままでいさせるのも、バツが悪い。
「……いつまで、そこにいるんだ」
「あはは……。やっと話しかけてくれたね」
寂しそうで儚げな笑みが、神野の口元に浮かぶ。
ズキリと胸が痛む。
神野にこんな顔をさせているのが自分だと思うと、ドッと自責の念が自分に押し寄せてきた。
「天笠くん、何か悩んでるなら……」
「!」
神野の声が、喋り方が、ちょっとした髪をかき上げる仕草が、別の誰かに重なる。
顔立ちが似ているわけではないのに、纏っている雰囲気がそっくりだ。
「……から」
言葉にしようとした声はかすれて、語尾だけが不自然に外界に放たれた。
「頼むから……」
「うん……?」
「もう、話しかけないでくれ……」
ダンッ!
激しく俺の机を叩く音。
間髪入れずに怒声が鼓膜を貫いた。
「あんた、いい加減にしなよ!」
叩きつけられた手の主は沢上だった。そのナイフのように鋭く血走った目が、俺の顔を強く睨みつけてくる。
「遥にデレデレしてるかと思えば、突然女の腐ったやつみたいになって、一体何なの!?」
「エ、エリ……」
激昂する沢上をたしなめるように、神野が肩を押さえようとするも、それを振り切ってもう一度机を叩いた。
耳元で叫ばれているのに、エコーがかかって遠いところから反響してくるようだった。
女の腐ったやつって、滅多に使う単語じゃないな、なんて笑ってしまいそうになる。
「何か言いなよ。あんた男でしょ?」
問われたからには、何かしらの返答をしなければならない。
でなければ沢上は引き下がってくれるような質ではないだろう。
「さっきも言った通り、変わらない。もう、関わってこないで欲しい」
「……あっそ。行こ、遥」
「えっ? あ……」
沢上は、これ以上ないほどの軽蔑の念を込めながら俺を睨み、神野の手を取って自分の席へ戻っていく。
神野はまだ何が言いたげだったが、引っ張られる沢上の手に引かれるまま遠ざかっていく。
自分の席周辺にようやく静けさが戻った。
外気に長時間野晒しになっていた唐揚げは、普段よりも一段冷たくマズい。唐揚げだけでなく、白飯も他のおかずも同じで思わずため息をつく。
ふと、後ろの席の九郎の方へ目を向けるも、見えたのは机に突っ伏している九郎の腕と頭だけだった。
――――
授業は気づけば過ぎ去っていて、俺は荷物を背負って廊下を歩いていた。
昇降口を出るといくつもの傘の群れが歩いているのが見えた。まだ雨は止んでいないらしい。
あれからはもう神野も九郎も俺に話しかけてくることはなく、誰の何の障害もなしに俺は家路につく――
「天笠くん!」
――はずだったのだが。
背後から神野の声に、左袖を掴まれた。
「…………」
彼女を気にも留めずにその足を動かし、全身を前へと進める。
ポケットに入れていたイヤホンを取り出そうと右手をつっこむも、コードが絡まっているのか上手く掴めない。
「天笠くんってば!」
袖を力強く引っ張る小さな掌に、俺の前進が妨げられる。こうなったら流石にこれ以上無視を続けるわけにもいかない。
「……なに?」
湿った空気の中で反響して聞こえる自分の声は、まさに不機嫌という言葉を体現している。随分と嫌な人間になったものだ。
「えっと、その……一緒に、帰ろ?」
そう言って浮かべた笑顔は若干のぎこちなさを帯びていたが、それにも関わらず俺の脈は狂う。
「…………」
神野が傘を開くと、まるで一輪の花が突然咲き開いたように、真っ赤な円が目の前にパッと広がる。
「それに、傘、ないでしょ?」
言われてみればそうだ。俺はまたこの土砂降りの中を、ずぶ濡れになりながら帰るつもりだったらしい。正直、そんなこともどうでもよかったのだが。
「別に、いい」
何だかこのまま神野に従うのも癪に思えて、そのまま景色を覆い隠すような勢いで雨が降る中へ躍り出る。
冷気をたっぷりはらんだ水滴の冷たい感触が一気に脳天にいくつも打ち付けてくるも、すぐにそれは止んだ。
「それじゃ、風邪ひいちゃうよ!」
慌てて傘に俺を入れたらしい神野のコートは、肩の辺りが少し濡れて色が濃くなっている。
「……はぁ」
観念してそのまま赤い傘の中にお邪魔する。
このまま逃げようにも神野はついてくるだろう。そうすれば彼女もこの雨に濡れてしまう。
俺に風邪をひくよなんて言いながら、自分が体調を崩していたらとんだ笑い草だ。
「雨、神野が濡れてる」
「あ……」
あっさりと俺が傘に入ったのを見て神野は少し驚いているようで、挙動が止まっている。
俺に指摘されるまで気づかなかったらしく、自分の肩を見てポカンと口を開けた。
そんな心どこかここにあらずな神野の手から、傘をとる。力がそこまで入っていなかったのか、すんなりと彼女の手から木の持ち手が離れた。
「天笠くん?」
「傘は俺が持つよ」
「あ、ありがと……」
「ほら、じゃあ、帰ろう」
俺が歩み出すと神野もその右側でついてくる。彼女が濡れないように、少しだけ傘を右へと寄せる。
幾多もの水滴が弾かれる音が、足音も雨が地面を打ち付ける音も打ち消す。
それだけが、俺たちの間を通り抜ける会話だった。
「駅まででいい?」
駅と家路への分かれ道で問うが、神野は答えない。
しかしここで別れるのも変だと思い、他の生徒と同じ方へ曲がる。
すると、神野の歩く速度が少しずつ遅くなり、やがて止まった。そして多くの人の群れが進む方から外れた、一本の小道を指差す。
「……こっち」
「えっ?」
「いいから、ね」
それだけ言うと神野はその道へ足を踏み入れた。
彼女を濡れさせまいとその後を追う俺は、完全に神野のペースに乗せられていた。
が、その道へ進んだ瞬間、いや、もっと言うと神野が足を止めた時点で、自分たちがどこへ向かうか、なんとなく見当がついていた。
神野はそれからもまるっきり口を閉ざしたまま、人気の少ない住宅街を抜けていく。
俺はまるで従者のごとく、彼女が雨に当たらないよう後ろに続いた。
――――
そうして着いた先は案の定、いつか神野のキーホルダーを探したあの公園だった。
ただでさえ人の立ち寄らない上にこの雨天である。俺たち以外の人影は一切見えない。
この場所は……。
「!」
存在しないはずの影が脳裏に浮かび上がってきて、それはそのまま視界に映りこむ。
背中から汗が噴き出す。平衡感覚が狂って倒れそうだ。
全てを思い出してしまった今、この場所は他のどんな所よりも俺を苦しめる。地獄すらここよりはマシなのかもしれない。
「……どうして、ここに」
震えそうになるのを我慢して、ギリギリ問いかけると、神野はまた黙って敷地内の端にあるベンチを指差した。
意味を読みとれずに首を傾げている俺の制服が引っ張られてベンチまで近寄ると、傘を打つ雨音が途端に静かになった。
この場所には上に屋根が出来たのだ。
いつか、ずっと前にここに来たときには、そんなものはなかった気がする。
雨で湿っているものの座っても支障のなさそうなベンチに神野が座るのを見て、傘を畳んで彼女の隣に座った。
「で、どうして?」
なるべく感情を込めないように口にした。
「教えて欲しいの」
俺の問いにポツリと神野のか細い声が応えた。
「何を」
「天笠くんのことを」
「俺のことって……」
「誤魔化さないで」
「…………」
「言いたくない話だったら、聞かないでおこうって思ってたけど。でも、昨日から天笠くん、別人みたいだから……」
きっと神野は本当に俺のことを心配してくれて、こんな風に言ってくれているのだろう。それは彼女の表情や声から、重々にわかった。
「そんな辛そうな天笠くん、見てられないよ……」
足元に出来ている水たまりには俺の顔が薄暗く反射していて、その顔はまさに死人のような様相だ。
確かにこれなら誰もが俺の様子に驚き、不安がることだろう。最近一緒にいることの多かった神野ならなおさらだ。
――どうして、こんなことになっているんだ。
俺は、もう誰とも関わっちゃいけないはずだったのに。
「どうして、そこまでするんだ」
理由を求める声が無意識のうちにこぼれ落ちた。
「えっ?」
「どうして、俺なんかのためにここまでするんだよ。もう関わらないでくれって言っただろ。なのにどうしてそれでもまだ、俺に突っかかってくるんだよ」
「…………」
「哀れみのつもりなのか? それともただの興味本位か? なぁ、そうなんだろ。そりゃそうだよな。こんな突然人格が変わったみたいになったら、誰だって面白いよな?」
「ちが……っ」
「だったら何なんだよ。どうしてこんな奴にわざわざ――」
「好きだからだよっ!!」
――!
瞬間、世界から音が消えた。
何も聞こえなくなった。
頭が真っ白になる。
それはほんの一瞬のことで、世界にまた音が戻ってくる。
隙間なく連続した雨粒の音が、流れる。
何も言えなかった。
たった今、神野が口にした言葉の意味を捉えられた自信がなかった。
「好き……だから」
神野の頬は、傍から見てもハッキリわかるくらい、真っ赤に染まっていた。
「私……、天笠くんが、好きなの……。だから、ツラそうにしているの、見たくないの……」
――重なる。
かつて見た光景が、うっすらと今の光景と重なり合う。
そして理解する。
どうして、自分が神野に対して特別な想いを抱くようになったのかを。
しかし、それは再び過去の記憶を喚び起こすためのトリガーでもあった。
俺は、思い出す。
雫という一人の女の子のことを。
彼女と過ごした日々のことを。
その日々の先にあった、結末を。
そうだ、忘れてはいけない。
ちゃんと全部、思い出さなくてはいけない。
あの時の後悔を。
自らの醜悪さを。
犯した過ちと罪を。
そうすればきっと、もう忘れることはないだろうから。
そうすればきっと、目の前の彼女は消え去ってくれるから。
俺が、一人になれるから。
「じゃあ、話すよ」
「えっ?」
拍子抜けしたのか、目を見開いて神野は声を上げる。
「その代わり、長い話になるけど、聞くなら最後まで聞いて欲しい。どれだけ痛々しくて救いようがなくても、耳をふさがずに」
「も、もちろん……!」
本当ならずっと前にこうするべきだった。
こんなことになる前に、全てを消しておかなければいけなかった。
どうしてこうなってしまったのかは、わからない。
でも、起こってしまったのなら、なすべきことをなすのが筋だ。
「じゃあ、そうだな……どこから話そう」
まずは結論から始めよう。その方がわかりやすい。
「前に、彼女がいたんだ」
「彼女……」
「そしてその人を、俺は……殺した」




