第28話
その道程には見覚えがある。
かつて何度も通った道。
ある日を境に二度と足を運ぶことがなかった場所。
あの日を境に二度と通りたくなくなった場所。
頬を裂かんばかりの突風が前から吹いてくる。まだ残っていた枯れ葉が宙へと舞い上がったかと思うと、そのままどこかへと飛んでいってしまう。
「…………」
何となく手を伸ばしてみる。遥か彼方へと離れていってもう見えなくなってしまった方向へ。
しかし右手が掴むのは虚空だけで、欲しいものはどこにもない。
どうしてこんなことをしているんだろう。傍から見たらただ空中に手を伸ばしている不審者だ。通報されても文句は言えない。自分の行動の滑稽さが可笑しい。
――全然笑えない。
『寒いねー』
『そうだな。最近どんどん冷えてきてるし、風邪引くなよ?』
『ありがと。……孔人くんは優しいね』」
『? 普通じゃないか?』
『うん……。でも、それが嬉しい』
あのとき繋いでいた手はどこにもない。
あんなにも近くにいたのに、あんなのもわかり合えていたと思っていたのに。
どうして、俺は君を――。
「天笠くん?」
唐突に鼓膜を震わせる背後からの声に、心臓が口から飛び出そうになる。
「あ、やっぱり天笠くんだ! おはよー」
振り返るとやはりそこにいたのは、神野遥だ。
天笠くん、なんて呼ぶような人間が他に――、
「くっ……」
――いたじゃないか。
誰よりも大切だった、一人の女の子が。
頭痛と胃液が逆流する感触が混ざって、死への願望すら思い浮かび上がってくる。
どうにか耐えるために、強く奥歯を噛み締めた。
「神野……」
「どうして、神野がここに……?」
「あれ、でもどうしてここに天笠くんがいるの?」
全く同じ疑問を神野の口から聞くことになるとは思わなかった。
が、理に適っているのは彼女の方だ。
神野の通学路を考えたら、ここが通り道になるのは不自然な話じゃない。
しかし普段この方面へ来ない俺がこの時間にここにいるのはどう考えても不自然だ。
なんて返せばいい?
無言の俺を訝しんでか、神野の表情から少しずつ笑顔が失われていく。
なんて、なんて言えば――。
「!」
「天笠くん!?」
たまらなくなって俺は神野に背を向けて駆け出した。
冬の空気を切り裂きながら地面をただ蹴る。
蹴って、蹴って、逃げ出した。
「ねぇ!」
遠くで神野の声がしたような気がした。
気がしたけど、気のせいにした。
結局自分は逃げているだけだ。夢からも、現実からも。
だってしょうがないじゃないか。そうする他にないだろう?
でもどこへ?
いつまで?
こうやってずっと生きていくのか?
それ以上先を考えたくなくて、自分の身体をがむしゃらに前に押しやる。
もう神野は遥か遠くに離れてしまっているのがわかっていながら、それでも俺は住宅街の中を疾走し続けた。
思考するための酸素を身体を動かす方に回していれば、彼女のことを考えなくて済むと思ったからだ。
早送りのように次々と視界から流れ去っていく風景。
どこを見ても、彼女の姿があった。
一歩進むごとに肺が痛くなっていくのに歯を食いしばりながら、それでも同じ光景がずっと巻き戻されていく。
「なんで……っ、どう、して……」
神野のせいだ。
神野を好きになった自分のせいだ。
神野にどことなく似た一人の女の子を、いつか好きになったせいだ。
答えは単純明快。
恐ろしいまでに最初から提示されていた。
なんて最低な男だろう。
自分で自分が許せなくなって、もう一段階走るスピードを上げる。心臓と肺が、本当に爆発四散してくれればいい。
そうして無様に惨めに、車に轢かれた野良猫のように道端でのたれ死んでしまえば良い。
「はぁっ……、はぁ……。ぐぁっ!?」
靴底が地面と擦れて下半身が急停止する。
上体だけが前に進もうとして、そのまま俺はコンクリートの地面へとダイブした。
予想から大きく外れた挙動と感覚に痛烈なまでの違和感を感じながら、現実は衝撃と物理的な痛みを俺に突きつける。
「いっつ……」
幸いにも腕が前に出てくれて顔面ダイブには至らなかったが、身代わりになった腕の筋肉が軋んで鈍く痛む。
恐らく軽い打撲にはなってしまったはずだ。
「くそ……」
そのまま立ち上がる気力すらなかった俺は、コンクリートの冷えたデコボコに背中を預ける。
灰色のグラデーションがかかった空が、眼前一面に広がる。
「しくった……」
もっといろいろ誤魔化しようがあったはずだ。あれだけ手札があったのに、そのどれも口にすることができなかった。
その挙句神野から逃げ出すという最悪の手段をとった。
「ふ、ふふふ……」
可笑しい。
可笑しくて仕方ない。
何なんだ自分は。
自己犠牲の真似事をして、それでも自己愛の塊だからそれを悔やんで。
――いいや、悔やんですらいないのかもしれない。
ただこの悲劇の主人公、あるいはヒロインである現状に酔っているだけじゃないか。
そうなった原因も、自分が招いた結果なのに。
――ぽつり。
額に小さくひんやり。
指でそれを拭うとその先端は微かに濡れていた。
――ぽつり、ぽつり。
今度は頬に顎。次々と水滴が特攻隊のように俺の全身に襲いかかり、皆一様に弾かれて四散する。
雨だ。
そう気づく頃には制服には乾いたところがなくなっていた。
「ふふふ……、くくっ、くははは……っ」
考えるほどに滑稽で可笑しい。なんて間抜けな主人公だろう。
「はは、はははは、かはははは……」
空っぽの笑い声が閑静な住宅街に木霊する。
一人でいればいいって、そう思っていたはずなのに。どうして忘れていたんだろう。
「にゃー」
耳元でささやくような小さな声。
首だけを動かしてみると、白と茶色のやわらかそうな毛並みがゆらゆらと揺れている。
「……カフェ?」
「にゃー」
久しぶりに俺の前に姿を現したカフェは、イエスと目をつぶる。
さざ波のように風になびく毛先に手を伸ばすと、命のあたたかさとやわらかさが指先から俺の中に入り込んでくる。
でも、雨粒で濡れていて、所々が冷たい。
「風邪、ひくぞ」
「みゃっ!」
そう言ってもカフェは俺の傍らから離れようとしない。
猫は温かいところを好むと聞く。冬の真っ只中の雨はカフェにとって寒いに違いない。なのに――
「……そうか」
ゆっくりと身体を起こすと、一日中眠っていた休日の昼のように、背中や肩が音を鳴らす。
「いつつ……」
よく見ると掌も擦りむいていて、中の肉が抉れていた。
道理で鈍い痛みだけじゃなかったわけだ。
「学校……行かなきゃな……」
重い身体を引きずるようにして歩き始める。
雨で制服が濡れたせいで、水分の重さが余計に全身にのしかかってきていた。
――――
授業中で生徒のいない廊下は、学校の人口密度とは真逆に静けさに満ちていた。本当にこの中に何百人も人がいるのかと疑わしくもなる。
腕時計を見るともう登校すべき時間から、三十分ほど過ぎていた。
後ろを振り返ると、びしょ濡れの制服から滴り落ちる水滴が、俺の歩いてきた道程に点々と続いている。
どうしようかと一瞬悩んだが、少しすれば乾くだろうと、また前を向く。
廊下を踏む音と、水滴が落ちる音が交互にして、少しすると重なり、また少しすると離れていくを繰り返す。
「これ、どうするかな……」
流石にこのまま教室に入るわけにもいかない。変に目立つのも面倒だ。
そうだ、保健室になら、タオルくらいあるかもしれない。
長く身体を冷やしていたせいか、寒気もしてきた。一限はもう出る気もなく、二限から出ることにしよう。
教室へと向かっていた身体を180度反転させて、保健室のある方へ向かう。
ふと、そんな自分は端から見たら、まるでゾンビのようだろうなんて、至極くだらないことを考えた。
一限が終わり、休み時間のチャイムが鳴る。
それから二、三分ほどを見計らって教室の中に入った。
なるべく気づかれないように、とは思っていたが、俺の方をみんな見てくる。これは仕方ない。
「お、孔人。ようやく来たか……って、なんだその格好」
九郎が俺の姿を見るなり吹き出した。
「なんでジャージなんて着てるんだ」
そう、俺が今着ているのは体育用のジャージだ。
制服がどうしようもないくらいにびしょ濡れになってしまったのだから、仕方ない。ちなみにその制服は保健室で乾かしてもらっている。
保健室は暖房が効いているし、次の時間には完全とは言わずともある程度着れるくらいにはなるはずだ。
「まぁ、いろいろ……」
それだけ言って自分の席につく。
「おいおい、どうしたんだ? なんか元気ないぞ?」
「…………」
「無視かよ……。おーい、どうしたんだよー」
「…………」
完全に無視してみるも意味はないらしく、九郎は変わらず話しかけてくる。
カバンを机に置いて、もう一度立ち上がる。
トイレに行こうとすると、九郎はしつこくついて来た。
「なぁー孔人やーい」
脳天気な九郎が背中をバシバシ叩いてくる。
もう九郎のことなんてどうでも良くなっていた。むしろ鬱陶しい。
「……うるさい」
「はっ?」
「少しうるさいよ、九郎……」
「うるさいって……。お前、俺は心配してんのに――」
「そんなの頼んだつもりないから……」
「……っ! お前な!」
次の瞬間、胸元に強烈な引力を感じた。
見ると九郎の手がそこにあって、胸ぐらをつかまれているのだと気づく。
九郎の目は血走ってすらいて、怒りが宿っているのがありありとわかった。
このまま殴られるかもしれない、と思った。
しかし九郎の動きは俺の胸ぐらを掴んだところで止まったままだった。
「……殴んの?」
「くっ……!」
九郎は悔しそうに歯を食いしばって、俺のジャージの胸元を握る拳を震わす。そして、何かを悟ったように乱暴に離した。
勢いをつけて離された俺の身体は、そのまま壁に激突する。
自分のことなのにその一連の出来事の全てが他人事のようで、まるで現実味がなかった。
背中の痛みすら、自分が享受しているはずなのに、どこか夢の中のようだ。
「くそっ!」
九郎は吐き捨てるようにそう言って、トイレから出ていく。
イラついて勢いよく閉められた扉の音が、自分をさらに叱責してきたような気がした。
しかしそれもすぐに薄れていく。
同時に過去の記憶が俺になだれ込んできて、それ以上の自己嫌悪の衝動が全身を包んだ。
「はぁ……」
次の授業がもう少しで始まる。
戻るのも面倒だったが、流石に二限連続でサボるわけにもいかず、ゆっくりとトイレの扉を開いた。
――――
それから昼休みまではあっという間だった。
ボーっと外の風景を見ていると終わる授業の繰り返し。同じことのリピートだ。
授業の内容自体はもちろん科目も違うし異なるのであろうが、その差異を見分けることもできない。するつもりも毛頭なかったのだが。
二限終わりに取りに行った制服は無事乾いていて、とりあえず一人だけジャージ姿という奇特な状況を早々に脱せたのは大分助かった。
いつも昼飯を共にしていた九郎は、昼休みになっても俺の方へ来る素振りを見せない。
そのことに少し安心する。関わり合いにならないのならそうに越したことはない。
「あ、天笠くん……」
しかし、もう一人。
弁当を食べていると神野が俺の席まで近づいて来た。
「昨日、ちゃんと眠れた?」
「ああ」
「そっか……。よかった」
「ああ」
会話は途切れた。
立ち尽くす神野を無視して、弁当箱に箸を伸ばす。
「え、えっと……、朝の……」
きっと来るだろうな、と思っていた話題。
「ねぇ、天笠くん……本当にどうしたの……?」
でも、何を言えばいいのかわからなくなってしまった。答える気力がなかったという方が正しいのかもしれない。
「…………」
黙って立ち上がると神野の肩がビクッと震える。その仕草はまるで小動物のように見えた。
箸を弁当箱の縁に乗せて教室の出口に向かおうとすると、神野もついて来る。
「トイレまでついて来るつもりか?」
「え? ちょ、ちょっと――!」
驚いて口をポカンと開けている神野を置いて教室の外へ出た。俺を呼び止めようとする声は聞こえていたが、無視した。




