第27話
神野が電車に乗った後、母校へと向かう気にはならず、そのままいつもの道を辿って家に帰った。
部屋に着くと一気に疲れが押し寄せてきて、そのまま倒れ込むようにベッドへとダイブインする。スプリングによる反発が少し心地よかった。
「何だったんだ、どうしちまったんだ俺は……」
独り言が漏れても返ってくるのは静寂だけだ。
むしろ何か返ってきたら、そっちのほうが怖いわけだが。
「そういやカフェに会えてないな……」
今日も帰り道にカフェの姿はなく、少しだけそれが寂しかった。
最近は朝にも出くわさず、ちょっとしたロスになっているのかもしれない。
あのやわらかい毛皮に触れれば、少しはこの憂鬱な気分も晴れるというのに。
そんな我ながらバカげた発想に苦笑して、その声もまた一人きりの部屋に吸い込まれていき静寂が訪れる。
笑っても一人って俳句を残したのは誰だっけか。てかあの俳句そもそも笑ってもいなかった気がする。
「孔人ー。ご飯よー」
一階のリビングから母さんの声がしたので、重い身体を起こしながら返事をする。
普段よりも少し早めの夕飯だが、恐らく父さんの帰宅が早かったからだろう。
降りるとまだテーブルの上は準備が出来ていなかった。
父さんは椅子に座りながら新聞を読んでいる。
「よぉ、孔人。学校はどうだ?」
食器や箸を運んでいるとそんな声が飛んできた。
「ん、まぁまぁ」
「そればっかだな」
「そりゃね。普通だよ」
自分で言っていて違和感があった。ここ数日は全然普通じゃないのに。
「彼女の一人くらいいないのか。高校生なのに」
「あんた」
母さんがおかずのコロッケをテーブルの中央に置く。
「あっ……。うん、まぁ、楽しいなら何よりだ」
ウチは夕飯中に大体父さんがテレビを点けてニュースを見ている。
俺も母さんもそこまでニュースには執心ではなく、二人とも基本的に流し見だ。
「ん、このコロッケ美味いね」
「そうでしょ? 今日見つけてきたのー」
本当に嬉しそうにそう言って、そのコロッケの一切れを口に入れる。
「確かに、これはうまい!」
「あんた、いつものと味の違いわかんないでしょ」
「わ、わかるとも! これは、あっさりとした中に、コクがある!」
「いつもそればっかりよね」
そう言って母さんは苦笑する。
こうやって父さんは完全に尻に敷かれているが、息子から見ても二人の仲は良い。
我が親ながら微笑ましいと思ってしまうほどだ。
そんな二人の様子を見て笑いながら、味噌汁をすする。
『先日、中学生の女子生徒が、学校の屋上から飛び降りた事件について――』
そのアナウンサーの無機質な声が耳に入った瞬間、箸を動かす手が止まった。
なんてことのない、よくあるニュースのはずなのに。
「あ、そういえば」
目をテレビの方へ向けた時には、その画面には芸人の顔にパイが投げつけられるシーンの、スローモーション映像が映っていた。
「見たいのがあったのよね」
「あぁっ、俺見てたのに!」
「ニュースなんていつでも見れるでしょ?」
「ひっでぇなぁ……」
と言うも、父さんはチャンネルの主導権を取り戻す気はないらしく、そのまま缶ビールに口をつけた。
父さん自身もそこまでニュースに対する執着心はなく、何か見たいのがある時は母さん優先だ。
本当、女には勝てないんだなぁ、男って。
「…………」
よくある団欒の光景なのに、何かが胸の内を侵食し始めている。
それはもう違和感という言葉ではもう形容しきれない。
しかし両親に余計な心配をかけたくない。
これまでたくさん世話になって、迷惑もかけてきている。
ニュースの続きを見たいと言うのは、我慢した。
「ごほんっ」
父さんが小さく咳払いをして、再び新聞を開く。
母さんはテレビに目を向けたままで、そんな所作に特に興味もないようだ。
――ああ、そう言えば。
咳をするんだっけな、あの俳句は。
そんなどうでもいいことを考えるも、違和感は消えないままコロッケを口につけた。
――――
まだ日付の変わる前だったが、神野との約束もあって俺は布団の中にいた。
入ったばかりの布団はまだ冷たく、早く体温で温かくなってくれと念じる。
「…………」
念じながら目を閉じて眠りの中に入ろうとするも、なかなか眠れなかった。
夕飯の時に聞いたアナウンサーの声が、何度も何度も頭の中をグルグルと回って、神経が休まる気配がない。
なんとなく、スマホを手に取る。スリープを解除した画面が眩しい。
ブラウザを開いて、キーワードを入力する。
『中学生 自殺』と。
さっきのニュースと同じ事件の記事がすぐ出てくる。
『◯月×日午前九時ごろ、△△県□□市の市立中学校の敷地内で、中学三年の女子生徒が倒れているのを教員が見つけた』
『女子生徒は学校の屋上から飛び降りたとみられ……』
ひたすら食い入るように文字列を追う。
息ができない。酸欠状態になりそうなのに、それでもスマホの画面をスライドして、さらに続きを読み進めてしまう。
何かに急かされるように、見ろと強要されているように。
『自殺の原因は、学生同士のトラブルと見られ……』
『同級生の話によると、女子生徒へのいじめもあったという……』
「く……っ!」
頭が万力で締め付けられる。
その力はあまりにも強く、今にも頭が割れてしまいそうだ。
「くぅ……っ、がぁっ!」
目の前が真っ白に暗くなり、真っ黒に光るのを繰り返す。
やがてそれに三原色が混ざり始めて、攻撃的に点滅していく。
「……っ!!!」
戻っていく。
時間も。
景色も。
俺自身も。
意識を失う直前に見えた、真紅の色。
a。
a。
I。
――――
許さない。
そう言われている。
君は俺を睨んでいるんだ。
刹那の間が永遠にも及ぶ時間に引き伸ばされて、絶え間なく俺に語りかけてくる。
自分から遠く突き放し傍観を続け瞬間が、目の前で繰り返され続ける。
俺は机の前から離れられない。視線を逸らすことすらも。俺はただその瞬間を見続けなければいけない。
やめてくれ。
つぶやいた俺の声は、窓の向こうの君には届かない。
たとえ届いたとしても、君はやめないんだろう。
サカサマの君は悠久の時間をかけて俺を苛み、そして決して許してくれない。
許してくれ。
ああ、神でもなんでもいるのなら聞き届けて欲しい。
リフレインする。
いつまでもここで繰り返す映像を見ていなければいけない。
それでも、君は許してくれない。
許さない。
君の唇の動きに目が奪われて、そして離せない。
象られる声にならない言葉は何十回、何百回、何千回、何万回繰り返しても、変わらない。
君の言葉はいつだって、認識する度にずっと奥深くのやわい箇所に入り込んで、ズタズタに引き裂き回す。
残されたたった一言が、俺には――。
潤んでいた君の瞳だけが、俺には――
――――
「――!」
跳ね起きたのが先なのか、意識の覚醒が先だったのかわからなかった。
眼前にはグチャグチャに荒れきった掛け布団の跡。ベッドから遠く離れて放置されている枕。
下着が身体に張り付く程に溢れ出した汗。鼓動の度に心臓の中心を走る痛み。
「はぁ……っ、っ、は……ぁ……っ」
呼吸の音が震えている。うまく息ができなくて苦しくて今にも死んでしまいそうで、涙がこぼれてしまいそうだ。
「思い……出した……」
小さく声が漏れる。
どうして忘れていたのだろう。
こんなにも大切な記憶を。
どうして忘れていたのだろう。
こんなにも醜い自分の罪を。
どうして、どうして、どうして……。
その理由も何もかもわかっていた。
全部、自分が弱かったせいだ。
「ごめんなさい……」
懺悔の言葉を用いて助けを求めている。
そんな自らの醜さに嫌悪感を催して今にも吐いてしまいそうだ。
「ごめんなさい……」
なのに口から吐き出される語句は一字一句変わらないままで、壊れた玩具のように同じ言葉をループし続ける。
そんなことをしたって何も変わらないのに。
彼女には決して届きはしないのに。
誰も、自分を許してはくれないのに。
この懺悔は誰のためだろう。
彼女のため?」
――否。
ああ、自分の本性が嫌になる。
そんな冷静に客観視している余裕があるのに、どうしてこんなにも俺は弱く愚かなのだ。
脳みそが握りつぶされるような痛みに耐えきれず、気づかぬうちに両手が頭を押さえつけていた。
そんなことをしたって痛みが引かないことをわかっていながら、それでも人間の生物としての本能がそうせざるを得ない。
さらには三半規管が十分に機能しておらず目眩がして、自己嫌悪とは別にひどく気持ち悪い。
掴んだベッドのシーツの皺が歪んで、千鳥足の酔っぱらいが通った足跡のようにフラフラと揺れている。
――ダメだ。
別のものを注視して自分の気を他に惹こうとしても、彼女の目がまぶたの裏に焼き付いて離れてくれない。
彼女の呪いの声が耳の奥の、そのさらに進んでいったところにまでへばりついて、望まずとも勝手に繰り返し再生される。
俺は許されていない。全ての権利が剥奪されている。
笑うことも、喜ぶことも、楽しむことも、生きる上の快とされる全部のことが、しちゃいけないことなんだ。
だって彼女からそれらを奪ったのは俺自身だ。
頭の中に彼女の顔が浮かび上がってくる。
俺の、いちばん大切だった人。
守りたかった人。
そして、俺は守れなかった。
「くそ……っ、くそ、くそぉっ!!」
ベッドを何度も何度も殴りつける。
何かにこの怒りとも悲しみとも形容し難い感情をぶつけたくて仕方なかった。
「雫……っ」




