第26話
「随分デカいブツだったな」
席につくとまず九郎からそんな戯言が飛んできた。そう言えば自分はトイレに行くと言って、ここを立ったのだった。
「ああ。過去最高レベルだったよ」
「……最近、お前冷たいな」
「そうか? むしろお前の戯言に付き合ってやってるんだから、あたたかさしかないだろ」
「生暖かさしかねぇよ、それ……。オレは悲しいよ。これも恋人が出来てしまったからなのか……」
「出来てねぇっつーの」
時計を確認するともう一、二分で授業が始まるところだった。
幸い机の引き出しに次の数学の教科書は入っている。昨日ロッカーにしまわなかった自分に感謝。
ふと、右斜め前の方へ目を移すと、いつもの席に神野の姿があった。
変わりない彼女の佇まいが、少しだけ自分の心を安心させてくれる。
だが出処のわからない不安がまだ離れてくれない。
この前の神野とのデートのことを思い出す。
その時にも俺は何か、自分のものでないような記憶を呼び起こした。
そして、さっきの夢野の言葉。
『あなたは見なければいけない』
『……は?』
『見たくないものを。見ようとしないものを』
俺の記憶の中に一体、何が隠れているのだろう。
俺が見たくないもの、見ようとしないもの、そして思い出せないものとは一体……?
いつの間にか始まっていた授業がうわの空になるのを覚悟で、俺はさらに考え続ける。
夢野は俺の中学の時の母校がどこなのかを聞いた。
つまり、俺が中学生の時に何かヒントがある……?
記憶を遡る。
つい数年前のことなのに、予想以上にそれらは曖昧だった。
俺は、確かあの時は陸上部に入っていたんだ。長距離走の選手だった。
覚えている。のに、わざわざ思い出そうとしなければ出てこなかった。それくらい中学の時のことは思い出したくないことだらけだった。
「……?」
そこでようやく、今まで抱いていた違和感の正体に気づく。
中学の頃に嫌なことがあって、それらは思い出したくない記憶になっている。それは覚えている。
なのにその肝心の、記憶の内容自体は頭の中から綺麗さっぱり消えていた。よく考えてみると不自然極まりない。
中学の頃なんてまだ十年も経っていない頃の話なのに、自分がその頃に何をしていたのかが、何も覚えていなかった。
逆に小学生の頃の記憶の方が鮮明ですらあった。
何なんだ、これは?
授業を受けているふりをしてシャーペンを握っている指が勝手に震えだす。
その身体は紛れもなく自分のもののはずなのに、それが自分でないような感覚が混ざり、気分がまた悪くなっていった。
「おい、天笠」
「は、はい!?」
微かに教室の中がざわつくのと同時に、奇妙な感覚もスゥっと薄れていった。
「これ、答えは?」
黒板に書かれた記号の羅列を指すタカさん。アルファベットや等号が書かれていることはわかっても、それらが意味することは何一つわからない。
「わ、わかりません……」
「ふむ……、じゃ、鷺坂……はまた寝てんのか。天笠、起こしてくれ」
後ろで熟睡をキメていた九郎の肩を揺さぶると、スッと顔を上げて何か数式を口にし、また机に突っ伏した。
「ん、正解。んじゃ、これはな……」
え、正解ですか。
思わずそう口にしてしまいそうになった。
前に九郎が数学は聞いている、みたいなことを言っていた。その時は信じていなかったが……。
ノートの一つもとってないのに、どうしてそんなことができるのか。
改めてこの男の恐ろしさを実感する。
「はぁ……」
わからないことだらけだ。
自分が何をわかっているのか、それすらも。
わからない。
もうなにもわからない。
――――
学校が終わり、そのまま家路につく。
放課後の駅へと続く道は帰ろうとする生徒たちで賑わっている。
するとその人混みの中に神野がいるのに気づいた。いつも一緒の沢上の姿はなく、一人で駅へと歩いているようだった。
ふと思い立って神野に声をかけてみることにした。特に理由なんてなく、ただ話したい思った感情に従った結果だった。
今日一日の奇妙な出来事の数々に疲れていて、そこに何か別の癒しを求めていたのかもしれない。
「よぉ」
「わ、びっくりしたぁ」
後ろから話しかけると、神野は肩をビクッと震わせながら振り向いた。
「ごめん。今から帰り?」
「うん。天笠くんも?」
「そうそう」
隣を歩き始めても神野の方からは何も言ってこない。別に俺がいてもいいということだろう。
そうやって時折会話をはさみながら歩いていると、神野が声を上げた。
「あれ? そう言えば、天笠くんってこっちの方だっけ?」
いつも左に曲がるT字路を既に右曲していた。
前にキーホルダー探しを手伝った時のことから、神野は俺の帰り道の方向を知っていたのだった。
「こっちでも帰れるんだ。この前は用事があったから、あっちから帰ったけど」
何なら本来の最短ルートはこっちでもある。母校である中学校の前を通りたくないから、あっちから遠回りしているわけだが。
しかし、今日はある目的もあってこの道を選んだ。
モヤモヤとボヤケたままの中学生の頃の記憶。
思い出したくないという嫌悪感もあったが、知らなければならないという義務感が勝った。
そこへ行けば何かがわかる。
何の根拠もなかったが、そう確信していた。
駅まであと少しというところで、俺の通っていた中学校の校舎の端っこが見えてくる。
いつの間にか全身がこわばっていて、歩くのがぎこちなくなり始める。
その反応に気づいた神野が問いかけてきた。
「天笠くんって第二中だっけ?」
「あ、ああ。そうだよ」
「そっかぁ……。私は第一中だったんだー」
「へぇ……、てことは九郎と同じ?」
九郎と出会ったばかりの時に、自分の出身校を話したことがあった。
その時に神野が第一中なのも聞いていたのだが、それはわざわざ口にすることでもないだろう。
「そうだね。一回だけ同じクラスになったことあるかな」
「中学の頃の九郎ってどんなだったんだ?」
純粋な疑問だった。
俺も自分のことはあまり九郎に話していないが、九郎の場合はそれに輪をかけて話さない。
高校に入ってからのあいつしか俺は知らない。
中学の頃に何の部活に入っていたのかすら、鷺坂九郎はわざわざ煙に巻こうとする男なのだ。
そう聞くと、神野は眉をしかめながら空に向かってうーんと唸る。
「今と結構違ったかなぁ……」
「違った?」
「うん。友達多かったと思うし、マジメだったよ。今みたいに一人でいるのも、授業中に居眠りすることもなかったと思う」
「あの九郎が?」
神野の話からはそんな九郎の姿は全く想像つかなかった。
マジメなんて言葉も、友達百人できる曲も、あまりにも彼からはかけ離れ過ぎている。
「本当に何があったんだろうね、鷺坂くん。あんまりお話しないからわからないけど……」
「高校デビューの方向を間違えたのかもしれない」
「プッ! あははは!」
と言うと、神野は目を丸くしてから吹き出した。
こんなに大きな声で笑うなんて、自分が何か見当違いなことを言ってしまったんじゃないかと不安になる。
「ご、ごめんね。まさか天笠くんがそんなこと言うなんて思ってなくて。……高校デビュー、ふふふっ……」
お腹を押さえながら、涙目になったのを拭うも、また思い出し笑いでプルプルと震えている。
「そんなに笑うかなぁ……」
なんとも釈然としなかったが、なんて会話をしているうちにもう駅の入口付近まで来ていた。
辺りには俺たちと同じように、電車通学の生徒とそうでない生徒が雑談している集団がいくつかあった。
ちょうど駅に電車が来たタイミングだったからか、人の大群が次々と改札の向こう側から押し寄せてくる。
邪魔にならないように移動しようとすると、その一団の中に一つ不自然に停止する人影が見えた。
「……ん?」
一人の女子。
髪型はところどころボサボサで、身なりを気にする年頃の女子高生にしては珍しい。
俺たちと同じ高校生のようだ。もしかしたら年齢も同じかもしれない。
その見開いた目は確かに俺を見ていた。
ひどく怯えたような目。
俺が見つけた瞬間、その人の顔は一気に青ざめて一歩も足が進まなくなる。
人混みの真っ只中で立ち止まったせいで、後ろからの大群に押されて転ぶ。
助けないと。
そう思った瞬間、突如激しく襲いかかる胸への痛み。
行くな。
背筋が震え上がるような低くくぐもった声。
それは外から耳を通ってではなく、胸の奥から聞こえてきた。
そして湧き上がってくる、黒い感情。
拳が小刻みに震える。
それは恐怖故ではない。
許さない、許さない、許さない。
俺はお前を許さない。
俺はお前を許さない。
俺は俺を許さない。
絶対に、ゆるサナイ。
「あま……がさくん……?」
どこかから神野の声がした。
しかしそんなことももうどうでもいい。
黒い火が内側から身を灼く。焼けてただれた臭いと煙が口から漏れ出る。
改札の中からさっきの女が出てくる。
怯えた表情は変わらないまま、今にも逃げ出しそうな素振りを必死で隠しながら歩く。
俺がそいつに近付くと向こうも気づいたようで、目を逸らそうとしてくる。
「……んなさい」
女の口が小さく動く。
何度も何度も同じ言葉を繰り返しているようだった。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」
次の瞬間、女は猛スピードで駆け出した。
あまりにも突然のことで追いかけようと動かした足がもつれて、そのまま世界が反転する。
そして衝撃。
回らない頭ではそれがどこへの衝撃で、自分が一体どんな風に転んだのかもわからなかった。
「……くん……!」
遠くから神野の声が反響して聞こえてくる。
「天笠くん……!」
途端に意識がハッキリして、目の前が鮮明になった。
あんなにも熱かった何かが胸の内から消え去っていて、逆に薄ら寒さすら感じる。
「あれ……。俺は……」
「大丈夫!?」
「大丈夫……なのかな、はは……」
右腕が軽く痛む。どうやら横に転倒したらしかった。
痛みを堪えてどうにか立ち上がると、神野が本当に心配そうな顔で俺の顔を覗き込んでくる。
「すごい顔してたよ。本当に、まるであの人を殺そうって勢い……」
「俺、そんな顔してた……?」
「うん。今はそんなことないけど」
確かに今まで抱いたことのないほどの感情が、身体を破裂しそうなばかりにどんどん溢れてきて……。
それから先のことが、本当に有耶無耶になってしまっている。
「あの人と、何かあったの?」
「あった……のかも」
「かも?」
神野は怪訝そうな表情を浮かべる。
「覚えてないんだ、よく。ただ――」
その時、駅の中から放送の声が流れてくる。
『まもなく、◯◯行きの電車が――』」
神野は一瞬、改札の中の方へ不安気な表情で目を移した。
その反応から、これが神野の帰る方向の電車なのがすぐにわかった。
手で改札の方へジェスチャーするが、神野の足は止まったまま動かない。
「ほら」
「でも……」
「大丈夫。ちょっと寝不足で疲れてただけだって」
納得いかない様子の神野だったが、電車がもうすぐ来ることを告げる踏切の音が鳴り響く。
もうホームに向かわなければ、この電車には乗れないだろう。
「心配ないから、ほら」
どうにか神野が改札を抜けられるように、平気なふりをしてみせる。
正直なところを言ってしまえば、さっきの出来事への動揺で頭の中がいっぱいだったのだが、それを彼女には悟られたくなかった。
「……今日はちゃんと寝てね。絶対だよ」
「ああ。絶対睡眠はとるって」
「うん。じゃあ、また明日」
「ああ。また、明日」




