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第20話

「くそ……、あと、もう三センチ……!」


 それからまた十分後。

 俺は地上から数メートル離れた枝の上で腹這いになりながら、必死に指先まで一直線になっていた。

 これ以上先は枝が細くなっていて、自分の体重に耐えかねて折れてしまいそうで、ここが最終臨海地点だった。

 

 手を極限まで伸ばす。それでもまだ足りない。

 指先だけでもチェーン部分に引っかかってくれれば、あとはこちら側に手繰り寄せればいいような形なので、本当にあと数センチでいい。

 しかしその数センチが途方もなく遠く思えた。


「ぐ、くぅ……!」


 力が入りすぎるあまり喉の奥が軋んで、普段出ないような声になる。


「その声、天笠くん……?」


 するとその時、知っている声が自分の下からした。

 いきなり過ぎる驚きで、一瞬バランスを崩しかけるも、それでここから落ちるほどは俺の運動神経は鈍っていなかった。


「え?」


 それと引き換えのような形で、完全に裏返った声で彼女に返答することになってしまったのだが。


「どうしてそんなところに……、あ!」


 恐らく俺の姿と、その先にあるキーホルダーが目に入ったのだろう。

 枝の死角で顔は見えなかったが、目を丸くした神野の顔が頭の中に浮かぶ。


「あ、危ないよ! そんなの……!」

「大丈夫だって。あともう少しなんだ」


 本当にあとたったの三センチくらい。

 今だけでいいから、ちょっとだけでいいから身体が伸びてくれればいいのに、なんて荒唐無稽な発想が出てくる。


「でも、それで天笠くんが怪我しちゃったら――!」

「しないって。これくらいの高さなら」


 ちょっと、いや、だいぶ嘘だった。

 目を逸らしていた下方へと目を移すと、少なくとも自分の身長の倍の高さはある。

 もしも落ちたら――、いや、そんなことは今は考えないでおこう。そんなことよりも今は、あのキーホルダーを取ることだけを考えなければ。


「ぐぅ……がぁ……っ!」


 もう少し、もう少しだけなら、前に出ても大丈夫だろう。

 これまでずっと保っててくれたんだ。今更数センチ前に行ったって、テコの原理を考慮しても折れたりしない。

 そんな何の根拠もない自信が、身体全体を亀よりもさらに遅いスピードで進めさせる。


 全身全霊。

 そう言っても嘘じゃない。

 ただ手を伸ばした。


 俺は一体、どうしてこんなことをしているのだろう。

 どうしてこんなにも、必死なんだろう。

 そんな疑問がふいに湧いて出たのと同時に、人差し指に冷たい物が触れた。

 背筋が電流が走ったように震えた。思わず声に出して叫んでしまいそうですらあった。


 届いた――!


 やっと、届いたんだ――!


 しかし、それで指先のコントロールを誤って、遠くに飛ばしてしまっては元も子もない。

 慎重に、息を殺して、ゆっくり、ゆっくりと、人差し指の爪と皮膚の間にチェーンを引っかけるようにして、こちらに手繰り寄せる。


 自分の心臓の音が内側から響いて、金属とざらついた枝が擦れ合う音が外側から耳に入ってくる。

 少しずつズラしたそれを、人差し指と中指でつまむ。

 そして落とさないように、そっと指から伝いついには手のひらの中に閉じ込めた。


「ふぅ……」


 何度も手の中の感触を確かめる、小さく息を吐いた。


「取れたよ」


 興奮のあまり震えそうな声をどうにか絞り出して、下に呼びかける。


「本当!?」

「ああ」


 さて、降りるとするか。

 かなり危ない場所まで来てしまったし、そーっとゆっくり降りないと――。


 バギィッ!!


 そんなことを思って力を抜いた瞬間、乾いた音が鼓膜を貫いた。

 同時に自分を支えていた地面が瞬間的にその安定性をなくし、身体が宙に浮き上がったような錯覚を覚えた。


「うわぁああっ!!!」

「きゃあっ!?」


 痛烈な衝撃が腰のあたりから脳天を一気に突き抜ける。黒と白の閃光が一瞬の間に点滅を繰り返した。

 ほとんど全ての感覚が逆転したような感じがしたが、手の中にしまった感触だけは変わらないままでいてくれて安心する。


「大丈夫!?」

「いつつ……」


 よかった。どうやら生きているらしい。

 目を開くと自分がさっきまでしがみついていた木の幹と、青い空があった。

 尻から腰にかけて痺れるように痛みが走る。

そこでようやく、自分が地面に仰向けに倒れているのだとわかった。


「天笠くん!!」


 視界の端からグイと神野の顔が現れた。

 いつもならその近さに驚いて飛び退くのだろうが、頭が回っていないのか――


「ああ、神野か」


 そんな無感情な言葉しか出てこなかった。


「大丈夫なの!?」


 潤んで光をキラキラと反射する瞳と、ひどく歪ませた唇の線。

 こんな顔をさせてしまうほど、彼女に心配をかけてしまった申し訳なさが俺の胸を強く締め付けた。


「だいじょう……んっ!」


 起き上がろうと腰に力を入れると、支点になっている尻の部分がちょうど地面と激突した部分に鈍い痛みが走る。


「大丈夫じゃないよ! 待ってて、今救急車呼ぶから――」

「いいって。大したケガじゃないし」


 まだ痛いけど耐えきれないほどではない。顔に出ないように足に力を入れて立ち上がると、軽く目眩がした。

 腰の痛みで気づかなかったが、頭の右側も少し痛い。どうやら落ちる時に尻餅をついた後に頭も地面にぶつけたようだ。


「本当に大丈夫なの……?」

「軽い打撲くらいで済んでるよ、たぶん。そんなことよりこれ」


 右手を前に差し出して、ずっと握っていた拳を開く。


「だいぶ時間かかっちゃったけどさ。それにどっか壊れちゃってるかも」


 神野は恐る恐る手を伸ばし、か細い指で小さなキーホルダーをつまむ。手にかかっていた重みがふっと消えた。


「…………」


 自分の手の中にある、彼女の宝物であろうキーホルダーを見つめ、そして心の底から嬉しそうに微笑み、抱きしめた。


 ――ああ。


 その瞬間に、あの木の上での疑問がふっと解消されたような気がした。


「……本当に」


 たった一人の笑顔だ。

 それだけだったんだ。

 それさえあれば、十分だったんだ。


「ありがとう、天笠くん……!」


――――


 それから、さっきの交番で会った親子からこれ以上ないくらいに感謝されたことを神野から聞いた。


『おにーちゃん、ありがとー!!』


 俺の予想は的中していて、日曜の朝にテレビでやってる大好きなヒーローのフィギュアで、男の子はずっと泣いていたらしい。

 そんな話を聞いて、その男の子にかつての自分を重ね合わせた。


 公園からの帰り道。俺の隣を神野が歩く。

 さっきの落下の痛みは随分と軽くなっていて、もう普通に歩いていてもほとんど苦ではない。


「あれ、いつの間に拾ってたの?」


 公園からの帰り道、神野が聞いてきた。


「一回俺が見つけたって勘違いした時があっただろ? あの時に拾ってたんだ」

「あー、そういうことだったんだ」


 ずっと昔、結局最後まで見つからなかったあのフィギュアのことを思い出した。

 今でも微かに胸の奥がツンと痛くなることがある。でも――。


 あの時の男の子の喜ぶ姿を思い出して、少しずつゆっくりとさっきの痛みが和らいでいく。

 あの日、幾度の夜を泣いて過ごした少年を救えたような、そんな気がした。


「それと……」


 と、神野が呟き足を止める。二歩ばかり遅れて俺が足を止めて振り向くと、ちょうど夕日をバックに彼女が立つような構図だった。


「本当にありがとう。これ、ずっと前から持ってる宝物だったから……、なくなっちゃったらどうしようって思ってて……」


 大切にキーホルダーを大切に抱える神野の影が俺の足元まで伸びてきて、それを踏んでいるような状態になった。

 体重を支える足を変えるような素振りで、影を踏まないように横にズレる。


「それで……」


 言葉がぶつ切りになり、会話が途切れる。

 ただ無言の二人が、夕暮れの空の下で向かい合っているといった格好だ。

 きっと第三者が見たら、青春的なフィルタを通した一風景に映るに違いない。

 でも、本人はそうはいかない。向かい合ったままの沈黙がどうにもこそばゆい。


 どうして神野は何も言わないのか。

 俺は何と言うべきなのか。


 ビュウッ!


 突然吹いた風が頬を殴る。


「ん……!」


 背後から吹かれた神野は、なびく髪を右手で押さえて目をつむる。

 視界の端で地べたに落ちていた枯れ葉が弾丸のように空へと舞っていくのを、目で追う内にいつの間にか視線の先は枯れ葉から外れて、オレンジ色の空へと移っていた。

 澄んだ空気に満ちているだろう空は、他の季節のよりもずっとずっと高くて、吸い込まれてしまいそうな錯覚すら覚える。

 

 ああ、そうか。

 ようやく心が落ち着いたのか、冷静になって自分の感情を省みることができる。

 神野がどうして言葉を押しとどめたのかはわからない。

 でも俺の方の理由はわかる。

 

 この先を進めば俺と神野の帰り道はどうしても違える。

 でも、いま黙っていれば、その分だけここに長く居続けられる。

 ただ、それだけのことじゃないか。

 

「……そろそろ帰ろう」


 そうして口を次いで出たセリフは、さっきまでの感情と矛盾するものだった。

 この時間がずっと続けば、と思った。

 

 でも、これ以上一緒にいたら、今自分の中で燻る感情が伝わってしまいそうな気がした。

 その時のことを想像すると、言い知れぬ恐怖が身を包む。

 

「あ、うん……!」


 先に歩き出した俺を、少し早い足音が追いかけてくる。

 それから別れの挨拶まで、俺は何も口にすることができず、神野も何も言わず、ただ沈黙だけが二人の間を羽根のように浮遊していた。


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