第17話
そして今日は昼になっても九郎が起きることはなく、昼食は俺一人でとることとなった。
よし、では向かうとしよう。マイプレイスへと。
この学校において唯一自分の、自分だけの場所。その足取りは普段よりも軽いものだった。
病み上がりで久しぶりに人がたくさんいる場所に来たから、一人になりたいという考えもあったのかもしれない。
弁当箱を片手に教室を出ると、見覚えのある顔がその前で立ち塞がっていた。
風戸だ。
「…………」
俺の顔を見るなり何かを言ってくるのかと思いきや、風戸は押し黙ったまま気まずそうに視線を外してくる。
もしかしたら用があるのは俺じゃないのかもしれない。そう思って脇を通り過ぎようとすると、肩を力強く掴まれた。
「おい」
「やっぱ俺に用なのか」
「逆に他にあるか?」
「目が合ってもだんまりだし、果てには目を逸らされるんだ。そう思うのが普通だろ」
「そんなわけ……、いや、あるな……」
「……で、一体何の用?」
俺が問いかけると、風戸は苦虫を噛み潰したような顔になった。しかし、それもすぐにやめて口を開く。
「……一つ、聞きたい。前にも聞いたが」
「?」
「どうして二年の時、陸上をやめたんだ?」
こうして聞いてくる以上、内容は想像ついていたが、その質問の解に値する内容はいっさい頭に浮かんでこなかった。
今まで何度も考える機会があった。当の本人である自分ですら、不思議に思ったくらいだ。
あれだけ夢中になっていた走ることをやめてしまった理由が、本当にわからない。
「……わからない」
だから、俺が口にできる答えはそれしかない。
「わからないって……!」
また胸ぐらを掴んできそうな勢いで風戸が踏み出すが、その手は制服の襟に触れる寸前で止まった。
「わからないって……、何だよ、それ……」
代わりに、自分の感情を噛み殺すように呟く声。
「……よく、覚えてない」
「そんな言い訳が通用するわけ――」
と、言いかけた風戸の声がふっと消えた。
「……あ」
そして一瞬黙ったあとに、そんな気の抜けた声を漏らした。興奮して赤くなっていた顔が、どんどん青ざめていく。それに合わせるように、風戸の目が大きく見開かれていく。
「風戸?」
「……っか」
「はっ?」
「そういう……こと……か……?」
「な、何なんだよ。どうしたんだよ突然」
まるで別人になったかのような豹変を見せた風戸の様子に、何故だか身の毛がよだつ。
「あ、天笠……」
俺の呼びかけに対しても、ただ震えた声で俺の名前を呟くだけで他は何も返さない。
「だから何だって」
「本当に……、覚えて……ないのか?」
「だからさっきから何回もそう言ってるだろ」
「そうか……。そんなことが、あるのか……っ」
「お、おい、風戸――」
「……悪い」
俺の声は風戸のに遮られた。ずっと俺をにらみ続けていた風戸の目が、ふいに逸らされる。
「俺は……、いや、俺には、何も言えない」
「……?」
何を言っているのかわからない。
ついさっきまでの、何が何でも言及してやろうという勢いはどこに行ってしまったのか。
「……すまない」
風戸が俺に背を向け離れて行く。
「お――」
もう一度問いかけようとしたその時――、
「――っ!」
鋭い稲光のような衝撃が脳天を突いた。
一瞬、何か見覚えのある光景が映ったような気がするが、まばたきよりも速いその刹那が何だったのか、わからない。
目が眩むような閃光が通り過ぎて、ようやく辺りをまた見渡せるようになったが、ついさっきまで目の前にいた風戸の姿はなくなっていた。
「……何なんだよ」
無意識のうちに漏れてしまった独り言。
思わず他の誰にも聞かれていないか辺りを見渡すも、俺に向けられた視線は皆無だ。
ほっと、胸を撫で下ろす。
…………。
……あれ、俺、何をするんだっけ?。
そのまま突っ立ったままなのも野暮なので、とりあえず歩き出した。
「……あ」
ふと、右手にかかっている重量の存在を思い出した。
屋上で弁当食うんじゃん。なんで忘れてんだ俺。
――――
「……あれ?」
素っ頓狂な声が、無意識のうちに漏れ出ていた。
いつものように屋上への窓を出そうとするも、それは既に姿を露わにしていた。
この秘密の出入り口を覆い隠す本棚はその役目を果たしておらず、外からの光がリノリウムの床をぼんやりと照らしている。
誰か、いるのか?
一瞬の躊躇が足を階段へと向けようとしたが、それ以上の好奇心が窓に手をかけさせた。
一旦逆方向に力を入れて、金具のようなものを外してそれを開き、屈んでそこを通り抜ける。
薄暗い場所から打って変わって明るい空が眩しくて、思わず手で顔を覆う。
一見普段通りに思えた屋上だが、そこには小さなイレギュラーが居座っていた。
「……あら」
夢野彩織が金網を背に座っていた。
「夢野……?」
「見ればわかるでしょう?」
「いや、まぁ、確かに」
夢野は俺の登場に少しも意に介さずに、パックのコーヒー牛乳を口にする。
「……やっぱり甘いわね」
ストローから口を離すと、夢野はそう言って顔をしかめた。
そりゃコーヒー牛乳だからな、甘いに決まってる。
「どうやってここに?」
夢野の態度は少しも変化せず、無感情のまま答えを返す。
「きっと同じだと思うけど」
それもそうだ。ここに来るなら方法は一つしかない。そもそもの質問が意味を成しておらず、我ながら恥ずかしい。
「飯食っても?」
「どうぞ」
こっちの方を一瞥すらせずに即答。
彼女にとって俺はいてもいなくてもどっちでもいい存在なのだろう。
適当に夢野からある程度離れた金網を背に座り、弁当を広げる。
……参ったな。一人になれると思ってここに来たのに。これじゃ教室と変わらないじゃないか。
それどころか二人きりになっている分、こっちの方が居心地が悪い。
でもまぁ、夢野は俺のことを大して気にしてはいないようだし、俺も頑張れば無視くらいはできる。
では今日も、弁当を作ってくれる母親に圧倒的な感謝を捧げ――、」
「いただきます」
これだけはどんな状況でも言うと決めている。作ってくれた人や食べ物そのものに感謝。
小さな頃からよく言われてきたことではあるが、最早身に染み込んでいてそうしないと落ち着かない程だ。
――うん、今日も唐揚げうめぇ。
「……変わった人ね」
「ん?」
「隣に私しかいないのに」
いただきます、と口にしたことに対して言及しているのだろうか。
確かに屋上でほとんど話したことのない女子と二人きり、という状況に少し躊躇いがあったのは否めない。
が、それも些細な話だ。
「そんなの関係ないし」
「そう」
夢野の方を向くと彼女は空をぼんやりと見上げている。もう俺への関心は消えているように見えた。
「…………」
その姿に見惚れていたのかもしれない。
夢野彩織はかなりの美人だ。女子に対しての執着が薄れている自分ですらそう思うのだからよっぽどだろう。
そんな彼女は寒空の下、虚ろげな瞳で高い空を見つめる。まるで美術館に飾られている一枚の絵画の中の、可憐な少女のように。
弁当箱の中身がほぼ空っぽになりかけた時、夢野はまた俺に話しかけてきた。
「あなた、天笠くん……で合っていたかしら?」
「ああ、そうだけど」
驚いた。心底。
この『スーパージミーくん』こと天笠孔人を、この前行われた校内美人ランキングにて、見事2位にランクインした(九郎情報)ほどの美少女、夢野彩織が知っていたとは。
この前のマラソン大会で多少知名度が上がったのかもしれないが、夢野がそれで俺のことを知るようなミーハーだとも思えない。
「私は――」
「夢野彩織だろ」
「知っているのね」
「そりゃな。この学校で知らないやつはいないだろ」
てかさっき名前呼んだじゃん。
「……そう」
夢野は小さくため息をつく。有名人であることが嫌なのだろうか。確かに目立つのを好むタイプではなさそうだ。
「もう一つ質問、いいかしら?」
「どうぞ」
「あなたは、第二中?」
「だいにちゅう……?」
第二中……。ああ、第二中学校のことか。
「そうだよ。でもなんで?」
「……そう。いえ、少し気になっただけ」
それだけ言って夢野は立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待てよ」
流石の他人に対して無関心な俺でも今のは見過ごせない。
今までのは見逃せても、今度ばかりは本当に意味不明。俺の母校が夢野と一体何の関係がある?
「……何かしら」
心底迷惑そうに俺を見る夢野。気だるく開いた細い目が、鋭く俺を貫く。その迫力に気圧されて思わず言葉を失った。
「何もないなら行くわ」
もう一度呼び止める勇気はなかった。そのまま夢野は小さな窓を通り屋上から姿を消した。
残された俺はただ呆然とそれを見ていることしかできなかった。
――――
「なんで起こしてくれなかったんだよーーーーーーーーー!」
教室に戻ってくるなり、胸ぐらを掴んで泣きついてくる九郎。なんか日常に戻ってきたような感じがして安心する。
今朝のことから少し話しかけるのを躊躇いがちでもあっただけに、こういうところに救われる。
九郎、お前がバカで本当に良かった。
「昼休みあと十分だぞ! どうすればいい!?」
「昼飯食えば?」
「そうだな……って違う! どうして起こしてくれないって話だ!」
「面倒だから」
「そうか、俺は面倒臭いか……」
「うん」
「せめて否定してくれ!」
そういうとこだぞ、九郎。
「文句言ってる暇あったら残った時間で食えよ」
「ぐぬぬ……」
苦々しい顔とともに去っていく九郎。
――そう言えば。
ふと、思い立って夢野の席を見る。
夢野は自分の席で本を読んでいた。ブックカバーをつけているせいで、何の本を読んでいるのかはわからない。
その佇まいは所謂深窓の令嬢という言葉がピッタリくるもので、どうにも話しかけられる雰囲気ではなかった。
「…………」
しかし万一話しかけるとしても何と声をかけるべきか。
それすらどうにも思いつけない俺はどちらにしろ声をかけることはないだろう。
「あれ、そう言えば遥さぁ」
「なに?」
教室の喧騒に紛れて聞こえる二人の女子の話し声。
俺は自分の席へ戻りながら自然にそっちへ耳を傾ける。
「カバンに付いてたキーホルダー、どうしたの?」
「えっ? あ、うん、あれね……。なんか失くしちゃったみたい……」
「うそ」
「本当。大事にしてたからショック……」
キーホルダー。
確かに神野のカバンには黄色の丸いキーホルダーが付いていた。
俺たちが小学生の頃に流行ったキャラ物で、ひよこみたいな造形をしていた気がする。お風呂にプカプカ浮かんでいそうな見た目のそれは、女子の間で人気があった。
……ってなんで男の俺が知ってるんだよ、気持ち悪い。
「今日?」
「うん。朝、電車降りるまではあったんだけどね……」
顔は見えないが、その声音はひどく落ち込んでいるように聞こえた。その悲痛な思いが、聞いているだけの自分にまで届いてくるようで、少し胸が痛い。
小学生の頃に自分がお気に入りのオモチャをなくしたことがある。それを思い出したせいで余計に。
あの時は――。
キーンコーンカーンコーン。
昼休みの終わりを告げるチャイムの音。屋上にいたせいでほとんど教室内にいなかったからあまり休めた気はしなかった。
ふと、九郎の方を見ると、空っぽの弁当箱の前で死んでいた。
本当に食い切ったよ、こいつ。
「おう……、孔人……。やったぜ……」
俺の視線に気づくと九郎は親指を立てた。そしてそのまま某映画のラストシーンのように、九郎は溶鉱炉に沈んでいった……。
つまりはまた眠りについたのだ。
そしてこの日、鷺坂九郎は一日の授業の全てを居眠りして過ごすという、伝説を残すことになった。




