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第15話

「……ん」


 目を開く。

 目覚めの朝陽は――


「あれ?」


 ――どこにもなかった。

 時間がわからない。

 暗闇の中で手をぶらぶらと泳がせると、硬い何かが指先に当たった。手に取ると持ち慣れた感触。物体の上部にある電源ボタンを押す。

 パッと明るくなった画面に少し目がくらむも、すぐに慣れて表示されている文字を視認することができた。

 えっ? なんかおかしくない?

 自分の目を疑うも、寝起きでの見間違いなんてことはなく、愕然とした。


『1:03』


「うわぁ……」


 また中途半端な時間に起きてしまった。

 カチッ。

 無意識的に手が電灯のスイッチに伸びていたらしく、一気に人工的な白い光が部屋の中を照らす。

 身体を起こすと、随分と軽くなったことに気づく。頭痛もダルさもほとんどない。


「これなら明日は学校行けそうだな」


 と、呟きながら背筋を上に伸ばしていると、ふいに我に返る。

 ……いや、ちょっと待て。これマズくないか。

 時刻は深夜の一時。

 日付が変わってから既に一時間もの時間が経過しているのにも関わらず、全くないのだ。

 眠気が。

 ずっと眠って睡眠欲を完全に満たしてしまったせいで、全然眠くない。


「どうしよう……」


 願わくは、明日の授業中に居眠りしませんように。

 そんな祈りを捧げる深夜なのであった。

 

――――


 日本の夜明けを見る羽目になった天笠孔人、無事HR前に登校。

 代償に得たのは目の下の隈と、強烈な眠気。完全に負の遺産である。病み上がりにはキツい仕打ちだ。


 なぜだ、神よ。なぜあなたはここまで過酷な運命に俺を陥れるのだ?

 あと眠気も今来るなら、あの時に来いよ……。なんで朝になってから来るんだよ。

 心の中で運命と睡魔に対して毒づくも、奴は無情にもその猛威を俺に対して振るってくる。

 まぶたが重く、何度もまばたきしたまま開かなくなりかけた。

 おかげで普段よりもだいぶ早めにリビングに降りて、母親からは「あら、今日は起きるの早いのね」なんて言われる始末。そもそも寝てない。

 六時くらいには眠くなり始めたものの、そこでベッドに入ってしまっては気温が低いのも相まって二度と出られなくなる気がしたから、結局あれから一睡もしていない。


 そして今、その判断を死ぬほど後悔している。一時間でも眠っておけばよかった。

 いつもより三十分も早い校内はまだ静かだ。窓の向こう、校庭では野球部が朝練をしているのが見える。


 キィンッ。

 金属バットが硬球を叩くかん高い音。

 その音から夏の風物詩である甲子園を連想した。ウチの高校はそんなところに行けるような実力ではないらしいが。

 こんな寒い中でもあんなに練習しているのだから、少しくらい報われてもいいと思うが、現実はそう甘くないようだ。


 しかし何かにのめり込み、打ち込んでいる姿は輝かしい。

 自分がそうでないだけに、余計にそう思う。中学の俺も、端から見たらあんなだったのだろうか。

 かつて陸上部だった頃を思い出す。

 あの時は自分も彼らと同じように、毎朝早起きして朝練に行っていたものだ。今では見る影もないが。

 あれだけマラソン大会のために走り込んでいたものの、終わってしまってからは、また走ろうなんて気は起きない。

 走ることは嫌いじゃないが、何かしらの理由なしにそうするだけの気力が自分にはない。そんなことを考えていたら、現在の自分が堕落しているようにも思えた。


 下駄箱を通り抜けて教室へ向かうと、その扉は既に開いていた。

 チラリと腕時計を見る。

 まだHRまで一時間弱ある。こんな早くから人がいるわけ――


「……は?」


 ――いた。

 たった一人だけ。


 他に誰もいない教室の中でその人物は、机に突っ伏して眠っている。

 言葉を失う。

 何故こんな早くに、それに似つかわしくない人物がここにいるのか。

 そして似つかわしくないはずなのに、どこかそれが当たり前のことであるようにも見えた。

 まるでこの教室の主であるかのような姿。


「九郎……?」


 ピクリと背中が痙攣する。

 それからゆっくりと顔が上がって、それはやはり九郎なのだと確信する。


「ありゃ……、孔人か……」


 眠そうに目をこすってあくびをした九郎は、首だけ動かして辺りを見渡してから最後に時計に視線を向け、それからまた俺に向き直る。


「風邪治ったんだな、よかった」

「ああ、おかげさまで」

「……まさか、もうあれ使ったのか?」

「違う。おかげさまってそっちの方じゃない」

「なーんだ。つまらん」

「つまらんってお前な……」


 拗ねたように窓の外を見つめる九郎。頬杖をついてぼんやりとしている様子は、普段のやたらハイテンションで、突拍子もないことを繰り出す人物と同じと思えない。

 そして眠たそうな目を擦り、一つ大きなあくびをした。

 一連の所作はいつもと寸分も変わらず、それが逆に俺に違和感を与える結果となった。

 九郎にとって、こんな時間にここにいることは、『いつも通り』なのではないだろうか。


「いつもこの時間に?」

「まさかね。たぶんお前と同じような……」


 そんなわけがない。さっきの佇まいは最早住人と言ってもいいほどに、この光景に馴染んでいた。

 それに、さっき俺に対して早いなと言うのは、九郎が普段から朝早くに学校に来ていることと同義なように感じられる。

 だとしたら、一体何の理由があるんだろう。

 九郎のことだ。またろくでもない狙いがあるに違いないし、言わないなら意地でも吐かしてやりたかった。


 ジーっと九郎の目を見つめる。

 本当か?

 という意志を全力で目に込めて。


「……わかったよ。いつもこのくらいだ」


 九郎は観念したようにため息をついた。


「ふぅ……」


 一方の俺もため息をつく。

 まばたきも我慢していてすっかり乾いてしまった目を、パチクリして潤わせる。


「……孔人にならいいか。言いふらす相手もいねぇし」


 さりげなく俺へのディスを入れてくる九郎の声は、言葉の内容とは裏腹に若干の闇をはらんでいるような気がした。


「まぁ、ちょっと家の方がな。あんまりウチにいたくないんだよ」

「家?」

「親がねぇ。夫婦仲がギスってるといいますか」


 ニヒルさを滲ませた笑みを浮かべて、独り言のように溢れてくる物言い。


「そのうち元に戻ればいいのになーって思うけど、ダメなんかなーとも思う。よくわかんね」

「それは……」

「そういう話はたまに聞いてたけど、まさかウチで起こるとはねぇ。一過性であることを願いながら、親が起きる前に早起きして登校する息子だよ」

「…………」


 ニヒルを飛び越えて自嘲的とすら思える九郎の笑い方が、痛々しかった。

 同時に無理に聞いたことを後悔もした。本人だってできることなら、言いたくなかったに違いない。


「……あ」


 黙り込んでしまった俺を見て声を上げる。

 その顔はしまったと、声に出さずとも言っていた。


「別に孔人が想像するほどオオゴトじゃねぇよ? 人間誰しもあるちょっとした悩み事ってやつだ」

「……なんか、ごめん」

「いや、まぁ、誰かに言えたから少し楽になったような気がする。ありがとな」


 そう言って九郎は笑った。俺もどうにか安心したように笑ってみせる。


「てなわけで、寝るわ! おやすみ」

「結局寝るのか……」

「ZZZ…」


――――


 それから授業が始まるまでの間、俺も九郎に倣って机に突っ伏して一眠りすることにした。

 できることならまた保健室のベッドでぐっすりいきたいところだったが、生憎この時間はまだ開いていなかった。本当に家で寝てこなかったのが悔やまれる。

 時間の経過に応じて、少しずつ教室内の人口密度は高まっていき、何人かの囁きは増え、やがて喧騒となる。

 それに起こされて顔を上げると、いつの間にか俺と九郎だけだったはずの教室には、ほとんど全員が揃っていた。

 

 軽く寝ぼけたまま隣を向くと、そこにはもう神野が座っていて、可愛らしい布のブックカバーを着けた文庫本に僅かに垂れた目を注いでいる。

 ただそれだけの行為。何の変哲もない、読書という二文字で言い表せるシンプルさが、神野という一人の人間の魅力を一層際立たせているように見えた。

 何日か会ってなかっただけなのに、ひどく久しぶりのことのように感じて、思わずそこから目を離せなくなってしまう。

 たった数秒が、途方もないくらい長い時間に引き伸ばされたようで、呼吸することも忘れていた。


 ここまで俺はわかりやすく感情に溺れていただろうか。

 いいや、少なくともあのマラソン大会までは、そこまでじゃなかったはずだ。

 全部あの十分間のせいだ。

 あの保健室でのたった十分間。

 それが俺にとっての神野という存在を、大きく変えてしまった。


「……あ」


 彼女が小さく揺らした視線が、俺のとぶつかる。

 チリン、と音がしたような気がした。いよいよ末期症状かもしれない。


「おはよう、天笠くん」


 神野はそう言ってニコリと微笑むと、俺の心臓が大きく飛び跳ねる。顔に熱が集まる。

 何も変わっていないはずだ。髪型も服装も今までとほとんど変わっていない。

 なのに、いつものような言葉が頭に浮かんでこない。自分がこういう時にどうやって受け答えていたのか、わからなくなっていた。


「風邪、治ったんだね。……天笠くん?」

「……あ」


 名前を呼ばれてようやく我に返る。

 まだ熱が残っているのかもしれない。今のはそう思うことにする。


「ごめん。ちょっとボーッとしてた」

「まだ病み上がりだからかも」

「かもね」


 どうにか笑い返してみせる。ぎこちなくなってないか、少し不安が胸の中に生じた。


「何読んでるの?」


 彼女の手の中に収まるそれを指差すと、何も言わずに最初の一ページを開いた。


『澄み切った青空の下で 西野景吾』


 真っ白なページの真ん中に、書いてある文字列はどこか見覚えがある。


「西野景吾の……何これ?」

「最近出た本だよ。ハードカバーのはもう少し前からあったけど」

「西野景吾、好きだよね」

「うん、文章読みやすいし、何よりも面白いから。天笠くんも好きなんだっけ?」

「九つ坂と、他に何冊か読んだことあるくらいかなぁ」

「そう言えばそうだったね」


 前にも話したことのあることだ。今思えば、あの時に初めて神野と話したんだ。


「どう? 面白い?」

「んー、まだ最初の方だからわからないなぁ」

「そっか」


 と、口にしたのと、教室の扉がバンッと開く音が轟いたのはほとんど同時だった。


「セーフ!!」


 反射的にその音のする方を見ると、息切れしながら扉にもたれかかっている沢上の姿があった。

 キーンコーンカーンコーン。


「危なかったぁ……」


 そしてそのままへたり込む。


「もー、エリってばー」

「だって寝坊しちゃったんだもん」

「それ理由になってないよー」


 もうチャイムが鳴り終わったのに、沢上がなかなか立ち上がらないのを見かねたのか、神野が扉まで歩いていき手を差し伸べた。


「ほら、大丈夫?」

「ありがとー。遥やさしー大好きー!」


 小さな手で引っ張り上げてもらって立ち上がる一連の動作が、何だかすごく青春的な友情と呼ぶにふさわしい気がした。

 友達ってああいうことを言うんだよな……。

 そう思いながら後ろを振り向くと、無様に机に額を押し付けている一人の男の姿があった。もしも俺が沢上のようなことになったら――。


『はぁ……はぁ……。ギリセーフ……』

『おやおやー? 一体どうしたのかなー? 普段オレのことを不真面目となじる孔人くんは寝坊でもしたのかなぁー?』


 ――どうやっても煽られる未来しか見えない。


 何ならその時に見せるであろう腹立たしい表情まで、まぶたの裏に浮かんでくるようだ。

 友情とは一体なんぞや。

 いや、そもそも俺と九郎との間に友情なんてものは存在しないのかもしれない。知り合い以上、友人未満と言うのが一番近い気がする。うわ、元ネタに比べてすごくときめきが薄れた。

 そうとも。こいつは人が体調を崩している時にエロ本を持ってくるような男なのだ。そんなやつが友人であることの方が、よっぽど問題であろう。


 てか、あれ置き場に困るんだけど。もし親に見つかったらどうしよう……。

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