第13話
「……ん」
「……天笠くーん」
呆けてどこかへ飛んでいってしまっていた意識が、ふっと身体に戻る。
身体がダルくて少し横になって休むつもりが、本格的に眠りかけていたようだ。
薄く目を開くと、俺が寝ているベッドのそばで、神野が辺りを見渡していた。
「あれ……どこかな。……あ」
俺を見つけた神野は口元を慌てて手で抑えた。
薄目の俺と目が合うも、眠っていると思われたらしい。
「寝ちゃってる……。またあとでの方がいいかな」
「お、起きてるよ」
神野が背中を向けようとしたので、慌ててそう答えて身体を起こす。
「ひゃっ!?」
ビクッと大袈裟なくらいに身体を大きく跳ねさせ、そして体勢が崩れた。
「うぉ!?」
反射的に腕を彼女の頭へ伸ばすと、やわらかい髪に触れた感触。そして甘い香りがぶわっと顔の前で広がった。
しかし俺もベッドから身を乗り出した体になったせいで、踏ん張ることができずそのまま床に落ちていった。
ドスン、と落下音が響くと同時に、伸ばした右手に鈍く痛みが走った。
「いつつ……」
衝撃で閉じていた目を開く。
「いたたぁ……、あれ……?」
「え?」
自分の状態が目に入った瞬間、俺は言葉を失った。
すぐ目の前に神野の顔があった。
こんなに近くで顔を見たことなんてなかったせいで、それが神野だとすぐに理解できなかった。
俺の右手の上には神野の頭が乗っていて、そのおかげで彼女に大きな怪我はないのだろう。
右手の甲と左の手のひらで自分の体重を支えていて、その間に神野がいる。
二重まぶたの向こうにある黒い瞳。
そこから目を逸らすことができず、ともすれば吸い込まれてしまいそうな錯覚すら覚えた。
こういうのをなんて言うんだっけか。
ああ、『押し倒した』って言うんだ。
いや、俺は押し倒してない。決して罪に問われるようなことなんて一つもしていない。
「…………」
「…………」
保健室の中は、物音一つない。自分がここに来た時には先生がいたはずだが、眠っている間に外出してしまったようだ。
衣擦れの音すらはっきりと聞き取れ、自分の心臓が脈打つ音は、ライブハウスでのバスドラムのようだった。
かなり無理な体勢をとっているせいで、少しでも身動きをとれば神野に倒れ込んでしまいそうだった。
それだけは避けたいし、何かしら手を打たなければいけないのに……。
「……っ」
目を逸らせないのは神野の方も同じようで、ほのかに頬を紅潮させ口を半開きになっていた。
不規則に床に広がる髪が、窓から入り込む陽の光を反射する。
どれくらい時間が経っただろうか。
右手の痺れが発生し始めたと感覚するのと、神野の口に一旦ギュッと力が入れられたのはほぼ同時だった。
「……あ、あの」
「……はっ!?」
神野の声が聞こえた瞬間、すぐに自分の理性が戻ってきて、思いっきり左手に力を込めた。
「あ……」
激痛が走るのも気にせず、そのままの勢いで身体を反転させる。
右手が神野の頭で固定されているせいで、立ち上がることはできないが故の、せめてものこの状態からの脱出だった。
「なんか……、ご、ごめん……!」
ついさっきまで見つめ合っていたのは何だったのかとツッコみたくなるくらい、急に気恥ずかしくなってしまう。
「う、ううん! わたしの方こそ……その……」
そう言いながら神野が身体を起こすと、右手にかかっていた力が消えた。
「いや、俺の方こそ……」
そしてまた言葉が消え、沈黙。
あんなに近くで顔を見てしまった反動のせいか、今は神野の方を見ることすらできない。
ひどく顔が熱い。文字通り火が点きそうなくらいに。
きっと、この部屋の暖房が効きすぎているだけだと、そう自分に言い聞かせる。
「ご、ごめんね……」
「い、いや、全然」
口がうまく回らない。
心臓の鼓動がバクバクと激しくなり、鎮めようにも少しも治まる気配がない。
「怪我とか、してない? 大丈夫……?」
「あ、ううん! 全然、天笠くんの手のおかげで――」
言い切らないうちに、神野の顔がまるでリンゴのように真っ赤になる。
きっと、つい一分前の出来事を思い出してしまったからだろう。
自分も思い出してしまって、熱い顔がさらに熱を帯びていくのを感じた。。
「なら、よかった、のかな……? そうだ、どうしてここに?」
妙な雰囲気を払拭するために、わざと明るい声でそう質問した。もちろん気になっていたのもあるが。
もしかしたら、今日のマラソン大会のことで何かあるのかもしれない。
あんな結果で終わってしまったから、あまり聞きたくないが。
最初だけ飛ばして、あとから後続の走者に抜かされまくったという醜態。
そのことも恥ずかしくて、恥ずかしさの二乗で顔から火が出るを通り越して、爆発四散しそうだ。と言うかもう、して欲しい。
「え? あ、えーと……」
一瞬神野の声が裏返った。狼狽は治まらないものの、俺と同じように普段よりも少し高い声でうーんと考えている素振りを見せる。
「天笠くん、お昼になってからずっと具合悪そうだったから……」
執行を待つ死刑囚ような気分でいたが、俺の予想は僅かに外れた。
「そんなに悪そうだったのか……」
言われてみれば自分がどう見られているか、ということを全く気にしていなかった。それくらい酷かったということだろう。
「うん……だから心配で。でも……」
神野の声が不自然に止まる。
逸らしていた視線をまた神野に戻すと、今度は彼女の方がうつむき自分のつま先の辺りを見つめている。
「でも……。……ううん、やっぱり、何でもない」
「なんだよ、それ。そこまで言われたら気になるよ」
「ううん、本当に大したことじゃないの。それに、ちゃんと言いたいことがあって」
ドキッと心臓が止まるような思いだった。
一瞬、本当に止まってしまったのかもしれない。
この流れは、もしかして――、いやいやでもでも。いや、ひょっとしたら、ひょっとして――
「……なんだか、ちょっと申し訳なくて」
「えっ?」
完全に妄想で侵されていた俺が今度は、素っ頓狂な声を吐き出してしまう。
「…………」
しかし、そんな俺には気づかないのか、彼女の視線は未だに下を向いたままだ。
浮かない表情のままの神野に対して、何を口にすればいいのかわからない。
そもそも、何に対して申し訳ないと言っているのかすら、それには見当もつかない。
酷く楽観的で煩悩に満ちた発想をしていた自分が、さらに恥ずかしく思えて、再び神野から目を逸らす。
何か神野が負い目を感じるような出来事があっただろうか。
今日彼女と接触があったのは、せいぜいスタート前に少し話したくらいだ。
「……風戸くんのこと。話したの、わたしだから」
「風戸?」
どうして風戸の話になるのだろう。
それを聞いてなお、神野が申し訳なくなる理由が想像できなかった。
「だって、それ聞いてからずっと頑張ってたでしょ? 鷺坂くんと」
「……はっ?」
ゾクリと産毛が逆立つ。
「毎日放課後、鷺坂くんと走ってたの、わたし見てたの」
校内の誰にも知られないように、少し離れた普段生徒が歩いていないような場所で練習していたのに。
風戸といい、隠し事とはバレてしまうものなのだろうか。
「なんでそれを?」
「だって、いつからなのかは忘れちゃったけど、途端に天笠くん、元気になって活き活きしてたから」
「元気……、活き活き……、してたっけ?」
「そうだよ。何だか毎日すごく楽しそうだった。だから、何か鷺坂くんとしてるのかなって思ってたら、たまたま公園の近くで見かけて」
「マジか……!」
今になって明かされる衝撃の事実。
マラソン大会のためだけに練習していたところを見られたなんて、さらに無様極まりない。
軽い絶望でブルーになっている俺に、さらに神野は続ける。
「それって、風戸くんともう一回ちゃんと勝負するため、じゃないの? ずっと、天笠くんに勝ちたかった風戸くんのために」
「な……っ!?」
そんなわけがない。
俺がどうしてあの日まで覚えてもいなかった人間のために、そんなことをするのか。
すぐさま否定しようと口を開くが――、」
「ち、違うよ。そんなわけ――」
「?」
ない、と言い切れない自分がいた。
風戸のためではない、というのは覆しようのない事実だ。あいつへの奉仕的な意味なんて、少しも含まれてはいない。
でも、本当に神野のためだけかと言われると、それもまた違う気がした。
ただ単に、俺は少し腹を立てた。
あの時、首根っこを掴んで怒鳴ってきた風戸という男が、気に入らなかった。
だから余計に見返してやろう。そう思って躍起になった。ただそれだけの話だ。
「前から九郎と話してたんだよ。帰宅部の二人で運動部を見返してやろうって」
「えっ?」
「それに合わせて風戸のこともあって、それだけ」
嘘ではない。嘘では。
二割くらいは本当だ。
「そ、そうだったの?」
「ああ」
驚きの色を隠せず、神野の目は至る所へ行ったり来たりする。こんなこと聞いたら誰だってこうなるに決まってる。
さっきの神野の言葉を肯定するという術もあったし、その方が彼女の心象も良かっただろう。
だが、どうにも自分の良心と呼ぶのだろうか。それに準ずるような何かが邪魔をして、首を縦に振る気にはなれなかった。
本当の理由を言っていない時点で、嘘をついているも同然なのだが。その意味ではさっきの言葉は、欺瞞極まりない。
「まー結果はあれだったけどな。現実は厳しい」
「でも、帰宅部であんな順位になれるなんてすごいよ! 他の人もそう言ってたし」
「え、そうなの?」
「結構話題になってたけど……」
真っ白に燃え尽きていた俺は、本当に周りの話なんて耳に入ってなかったらしい。
最初から風戸と張り合おうとしてなかったらもう少し上位に入れたであろうことを考えると、だいぶ損をしたような気分になる。
「すごいよ、本当に……」
「そんな大したことじゃ」
「ううん」
有無を言わさぬ勢いだった。そこまで強く言われると、こっちも何も言えない。
「それに――」
キーンコーンカーンコーン
古いスピーカーから割れた音が響くと、神野はハッとしたように立ち上がった。
「あ、もうこんな時間……」
そう言えば今は何時なのだろうか。辺りを見渡すも、この場所からでは立て掛けられている時計は見えなかった。
「昼休みが終わったのか?」
「そうだよ。これから授業だけど、まだ具合悪いならここで寝てて大丈夫だよ」
「ん、じゃあそうしようかな」
再びベッドに腰掛けると、経年劣化で弱くなったのであろうスプリングが、小さく俺を押し戻す。
「じゃあ、お大事にね」
そう言って神野は片手を小さく横に振る。
「ありがとう」
扉を開き廊下に出る直前、神野はもう一度振り向いた。
「そ、それと」
「うん?」
「今日の天笠くん、ちょっと、カッコよかったよ」
照れたようなはにかみを見せ、扉が閉まる。
そしてまた、俺一人になった保健室の中に静寂が訪れた。
しかし、それなのに俺の心は静まらない。むしろさっきまでよりもずっと、脈は速くなっていた。
嬉しいのと、戸惑いと、恥ずかしさと、様々な感情が入り混じり、全身の中で暴れまわる。
皮膚から大きな穴を空けて、一気に噴き出してしまいそうなほどに。
神野の最後に見せた表情と声が、耳について離れず、何度も何度も繰り返された。
クラクラ、する。
もしかしたら熱があるのかもしれない。
異常なまでの動揺と熱に耐えきれなくなり、そのまま俺はベッドに倒れ込んだ。
何かを考えようと思ったが、それを組み立てる前に意識が薄れ始めた。




