第12話
6キロ地点。
レースの半分を超えたが、順位は未だ変わらぬまま。
残り4キロ。
「はぁっ、はぁっ、ぐっ、はぁっ」
肺が酷く痛い。
手足が重い。
全身も鉛に縛られているようだ。
6キロ程度でこんなにも体力を消耗している計算ではなかった。それほどまでに、目の前の風戸という男の走る速さは尋常でなかった。
風戸もまた、生じたフォームの崩れが秒毎に増している。
しかしそれでもなお、聞こえてくる呼吸のリズムは崩れというものを知らない。
本当に、中学の頃に勝てていたのか。自分のブランクを考えても不自然と感じるくらい、風戸と俺の差は天と地ほどのものがあった。
今はもう、ただ追いつくだけで精一杯だ。たとえここがゴール直前としても、こいつを追い越して一位になれる未来が見えなかった。
「はっ…………、はっ…………」
今日は風がそれなりに吹いていて、向かい風も当然風戸の足枷となるはずだ。
だが、それを物ともせずかき消し、突き進む背中が遠く見える。
「はっ…………」
風戸がペースを落とさず首だけ軽く横を向いて、横目で俺の様子をうかがう。
何かしらの虚勢を張るにも、そんな余裕は俺にはもう残されていない。
その目に映るのはギリギリの体力で、無様に食らいつこうとする俺の姿。
それがどれだけ滑稽で笑える光景なのかわからない。
きっと、彼は笑うだろう。かつてのライバルが、これほどまでに堕落した姿を見られるのだから。
「……っ!」
しかし、その予想は外れ、代わりに見せたのは悲しげな表情だった。
どこまでも静かな目。
そんな冷たく尖った視線が、俺を射抜く。そこには勝ち誇るような自尊心も、弱者を見下すような軽侮も、なかった。
ただ、悲哀だけだった。
その意味を噛み砕こうとした瞬間、また風戸の目は前に戻り、勢いが急加速した。
わずか一秒にも満たない間に、俺と風戸の距離は一気に数メートル広がる。
「くそっ……」
それを追いかけようと自分もペースを上げたが、思うように足が持ち上がらず、差はその間にもみるみる広がっていく。
気づけば、風戸の背中は遠く、小さくなっていた。
「まだ……っ、まだ……」
上手く上がらない足を強引に引きずるように、勢いづけようとした次の瞬間――、
「うわっ!?」
足が地面を擦り、急速に止まる。
上体だけが勢いに乗って前に進む。
「ぐっ!!」
視界が激しく点滅した。
遅れて腕や胸、膝に強い衝撃。
打撃的な痛みが走り、その後にジワジワと鋭い痛みが打ったところに滲んでいく。
「いつつ……」
コンクリートで舗装された地面がすぐ目の前にあった。
反射的についた手から、体温が流れていくのを感じる。
立ち上がろうと手足に力を入れても、ここまでの疲労が爆発したようで屈むこともできない。
「くそっ……」
一位になれなくとも、せめて二位には……。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
身体に酸素が行き渡っていないのか、どこの箇所もほとんど動かず、また、頭も回らない。
早く起きないと、勝たないと……。
風が吹き抜ける。
足音が流れてくる。
風戸のじゃない。
あいつはもう俺よりもずっと先、遙か彼方に行ってしまった。
アスファルトを踏みしめ、風を切る音が、すぐ隣を過ぎ去っていった。
三位の人間に抜かれたと理解した。
その時にはまた次の足音に抜き去られていた。
なんて無様なのだろう。
なんて惨めなのだろう。
勝算が低いのはわかっていた。
こうなった時のことも考えていなかったわけじゃなかった。
なのに、いざそうなると、こんなにも自分の惨めさが如実になる。
「……もう、いいかもな」
ふいに漏らしてしまった声の弱々しさが情けない。
これだけ帰宅部の俺が頑張ったんだ。一位のやつと少なくとも半分以上は競っていたんだ。
だから、もう……。
『孔人くん!』
声が聞こえた。
「はっ!?」
遠くから残響のように聞こえてきた声。
それは、どこか懐かしさすら感じる。
聞こえた声はその一言だけで、それから先はまた空気の音だけが耳をとらえた。
「……何やってんだか」
さっきまでの自分を自嘲し、両手で頬を一回強く叩く。バチンッという音が響き渡り、それまでの弱気が一斉に吹き飛んだ。
自分がこれまで、一体何のために頑張ってきたのか。その初期衝動すら、俺は忘れていた。
頭の中に一人の女の子の顔を思い浮かべる。
俺の想像の中の彼女は、いつも笑っている。
その笑顔が自分に向けられたら。
そんな想像をしている自分に身の毛がよだつが、しかしそれでやる気が戻ってくるのだ。仕方ない。
「よし……」
ギシギシと音を立てる身体をゆっくりと起こし、両足に思い切り力を入れ、立ち上がる。
このままで終わっていいはずがない。このままじゃ、少しもいいところなんて見せられないままだ。
前を向く。
強い風が俺の前髪を後ろにさらっていく。
いざ風に当てられると、その勢いの強さに驚いた。
風戸はこの中をずっと走り続けて、それでもなお、俺を一瞬で置いてけぼりにするだけの、走りをしてみせた。
それまでの圧倒的な差が、俺と風戸の間にはあった。
二年という月日。
その間に俺は陸上選手として堕落し、風戸は走り続けた。
一朝一夕の付け焼き刃で勝とうなんて思った俺が間違いだった。
「……すげぇな」
だから、悔しさはなかった。
ただ、同い年の人間への畏敬の念が、胸の中を占めていた。
「でも……」
俺にだって意地がある。
もうさっきまでのような走りはできない。体力は九割方、風戸に追いついていくので使い切ってしまった。
もう歩くような速度になってしまいかねないけど、それでも俺は最後まで……。
「行こう」
そしてまた、少しずつ走り始めた。
――――
「見事なまでにワンツーフィニッシュだったな」
「何がワンツーフィニッシュだったな、だよ。アホ」
マラソン大会が終わって昼休み。
俺と九郎の二人で昼食を食べる、いつも通りの昼下がりだ。
疲労が普段の比べ物にならないこともあってか、おかずの卵焼きの甘さが十倍引き立って感じられる。これはヤバい。美味すぎる。
「いやー、だってねぇ」
心底嬉しそうな笑みを浮かべながら、九郎の目が俺を見てくる。
「途中まではよかったんだよ、途中までは。何なら最後まで良かったくらいだ」
「最後の最後、その直前までは、だろぉ?」
「ぐぬ……」
脳裏につい数十分前の悪夢が甦る。
あれから、途中で何人にも抜かされたものの、それなりの順位を維持して俺はゴールテープを切る、はずだった。
いや、二位以下にゴールテープはないけど。
しかし、ここでまた一つの誤算。
風戸の件以上の、大誤算が起こってしまった。
ヘトヘトになりながらも最後の力を振り絞って、どうにかゴールしようとした瞬間、見覚えのある人影がすぐ横を通り抜けていった。
それは他でもない、九郎だった。
「あの時の孔人の顔……、今思い出しても笑いが止まらねえ……!」
そんなわけで結果は九郎と俺は21位、22位。
確かにワンツーフィニッシュではあった。
150人近くいる中でのそれは全然悪くない、むしろ帰宅部であることを考えれば良いくらいなのに、少しも喜べない俺なのだった。
ちなみに風戸はあの後も2位に二分以上の大差をつけて、1位となったらしい。
その話から察するに、俺を突き放したあの速度で残り4キロも走りきったということだろう。
本当にとんでもない男である。
「完全に予想外だあんなの。反則だろ」
「ゴール直前で抜いちゃいけないなんてルールはありませーん。残念でしたー」
「このやろ……!」
掴みかかってやろうと手を伸ばすも、その勢いは尻切れトンボで、机の上でだらんと腕が落ちた。
「燃え尽きたか……真っ白に」
「あー……」
今度のネタは理解はできたが、相手するのも面倒だから適当にスルーする。
「どうでもいいけど『矢』と『天』って、字が似てるな」
「そーだなー」
「燃え尽きた親友からの反応が冷たい」
「それは燃え尽きる前からな」
「ひでぇ、泣きそう。ゴール直前でそれまで見くびってたやつに抜かれるくらい悲しい」
「おう、喧嘩売ってんだな? そうなんだな?」
今度は一発殴ってやろうと思うも、またしても拳は机の上に不時着。
「おいおい、大丈夫かよ」
「正直、無理……」
やはりどれだけ付け焼き刃を装備しても、それが所詮その程度のものでしかない。
俺の肉体は既に限界に達しようとしていた。
「すげぇダルそうだもんな。やっぱ風戸は異次元だったか」
「同じ人間とは思えなかったな……」
「顔色も良くねぇし、保健室行ったら?」
「……そうさせてもらうよ」
――――
深く、深く潜っていく。
自分の意識が、自らその中へ。
記憶に刻まれた感覚が、類似性を有す別の記憶の元へ、惹かれ合うようにして接近する。
しかし、そこには何もなかった。
連続体はある場所を境にして、大きな断絶を見せた。
ない……、ない……。
何があったのかは覚えてない。しかし、そこには確かに何かがあったのだ。
触れようと手を伸ばした。
虚空の場所へ。
かつてあったものを求めて。
――!
触れた。
確かに触れた。
非物理的な触覚が感知し、自分に告げる。
声を漏らしてしまいそうになった。
それが自分にとって大切なものだとわかっていたからだ。
光。
光があふれ出す。
最初に得た感情は、『 』だった。




