第10話
「……い」
遠くから。
「…………い」
遠くから声がする。
「……がさ。……あまがさ」
天笠、と呼ばれているのだろうか。
しかし、自分のことをそう呼ぶ人間に心当たりがない。せいぜいタカさんくらいだろうか。
「天笠!」
「はい!?」
電流が走ったように、全身が大きく痙攣した。自分の振動に自分で驚いて、ひっくり返った声が出てしまう。
机の右側に人影。見上げるも寝ぼけているのが合わさって、ピントがボヤケる。
「休み時間とは言え学校で居眠りとは。随分と落ちぶれたな」
ようやく焦点が合って、俺に話しかけている当人の顔がはっきりと見えた。
「久しぶりだな、天笠」
「…………」
目の前の男が言葉とは裏腹に、少しも嬉しくなさそうな表情をしている。
「えっと……」
しかし――、
「……誰?」
――自分のことを知っているらしいこの男の顔に、俺は見覚えがなかった。
「……は?」
開いた口が塞がらないとは、まさにこういう時に使う言葉なのだろう。しばらくポカンと口を開けたまま、何も口を効かなくなっていた男が、挙げ句の果てに発した声はたった一文字。
そんな彼のショックを見るに、本当に向こうは俺のことを知っていて、俺も向こうのことを知っていて当然の話らしい。
知り合いに誰かいただろうか。
幅広く記憶を漁るも、脳内の検索エンジンが弾き出した結果は、ついさっきと寸分も変わらない。
「えーと……」
「……それは、本気で言っているのか?」
「も、申し訳な――」
言い終わるよりも先に胸元に強い衝撃。
その引力に吸い込まれるように、身体が宙に浮かんだような錯覚。
「天笠……!」
彼の目が険しく俺の目を睨んでいた。
胸ぐらを掴む拳はワナワナと細かく震え、抑えきれない感情が漏れ出ているように見える。
「か、風戸くん……」
視界の外から神野の困惑の声が、俺と風戸と呼ばれた男の間に入り込む。
「落ち着いてよ、どうしたの……?」
風戸は神野の言葉にハッとしたように目を見開き、俺の制服を掴む力を弱める。
「くそ……」
もう一度俺を睨むと、そのまま踵を返して風戸は教室を出て行こうとする。
しかし扉に手をかけた時、風戸の動きが止まった。
「天笠」
「なんだよ」
「どうして、逃げたんだ?」
「は?」
「どうして、今になってなんだ?」
風戸の言葉は俺に向けられているものだったのにも関わらず、その意味を一筋も理解することができない。
「お前は何を――」
「いや、いい。もう、いい」
風戸はそれだけ吐き捨てて、扉の向こうへと姿を消した。
「天笠くん、大丈夫?」
神野が心配そうに俺に問いかけてくる。
「あ、ああ……」
特にどこかケガをしたわけでもない。
強いて言うなら被害は制服の胸元がしわくちゃにされたことくらいだ。
「何だったんだ……?」
「うーん、あんなことするような人じゃないんだけどね」
「知ってるのか、あいつを?」
「え、結構有名だよ? 陸上部の風戸くん」
「風戸……」
その名前を口にしてみるも、どうも呼び慣れたような感じはなかった。
むしろ人生で初めてその名前を呼んだかもしれないくらい、彼の名前に覚えがない。
「風戸くんは中学が一緒でね。その時から同学年じゃ勝負にならないくらい足が速くて、ウチでは有名だったの」
「へぇ……」
正直、すごいと思ったが、口にする寸前でそれは留まった。
突然因縁をつけられた相手だから、素直にそれを認めるのが癪だった。
「高校に入ってからもずっと練習してて、この間は関東大会まで行ったって聞いた」
「へぇ、県のレベルじゃないってことか。でも、なんでそんなやつが、わざわざ俺に突っかかってきたんだろう?」
二人で首を傾げていると、また別の声が後ろから聞こえた。
「おー、何かすごいことになってたな」
見るとその声の主は九郎だ。
「起きたのか」
「そりゃ目の前であんだけドンパチされたらね。嫌でも起きるさ」
皮肉交じりの笑みを浮かべてから、九郎は一つ大きくあくびをした。
「ふぁーあ……。しかしなるほどね」
「何が?」
「お前、マジで忘れてるのか? それともそもそも眼中になかったのか。どっちにしても風戸、ショックだろうな……」
「だからなんだって――」
「これだけ言ってもわからないとは。それ相当な鈍感だぞ。そうじゃなかったら記憶喪失にでもなってる」
やれやれと言わんばかりに首を横に振りながらため息をつく。
「風戸はな、中学の頃、お前をライバル視してたんだよ。オレ、あいつと小学校から一緒だからさ。あいつのことは知ってるよ。たまに話すくらいの仲だったしな」
「鷺坂くんと風戸くん、小中高一緒なんだ」
「確かに、言われてみるとそうだな……。ただ一緒ってだけで遊んだりとかはほとんどねぇけど。風戸は死ぬほど足が速くてさ、ウチの中学の同学年の中じゃエースなんて言われてたんだ」
「有名だったよね、風戸くんは」
「ああ。だから部活で初めての大会。風戸は上級生には勝てなくとも、タメの中では一位を取る気満々だった。オレらもそうなるものだと思ってた」
「……あ、思い出した」
ハッとしたように神野が口元に手を当てる。
「神野も覚えてるか。あの時の風戸の落ち込みよう」
「うん……。普段明るい風戸くんが、クラスの誰とも口聞かなくなっちゃった時期があったのは、覚えてる」
「そう。その同学年の中で、あいつは『二位』だったんだ」
そう言って、九郎は俺の方を向く。
「まさかだけど、それって……」
「そうだよ。本人からそれが誰かなんて聞いたことはもちろんねーけど、さっきのあいつを見て確信した」
九郎の言葉からさっきの風戸の言動を思い出す。
『休み時間とは言え学校で居眠りとは。随分と落ちぶれたな』
最初は単なる皮肉のつもりなのだと思ったが、もしかしたら違うのかもしれない。
ただ、それを鑑みてもなお、俺は風戸という男を中学時代の記憶の中で見つけることができない。九郎の言う通り、記憶喪失か何かじゃないのかと不安になるほどに。
しかし、考えてみれば当然の話だ。
当時の俺は周りがどうとか、そういうことを気にしない質だった。
ただ、走るのが楽しかった。練習を重ねてタイムが上がるのが楽しかった。
そこに他人の入る余地なんてなく、誰に勝つか負けるかは考えてなかった。
これが上級生になれば話も違かったのかも知れないが、風戸の言っている頃は中学一年生。負けて当然の世界だったから、余計にそうだったのだろう。
「でも、どうして今になって風戸くんは、天笠くんに話しかけてきたんだろうね?」
神野の自然な疑問。
だが、それに俺は何となく察しがついていた。恐らく九郎も同じだろう。
タイミング的に考えて、俺と九郎が次のマラソン大会のための練習をしていたのを、風戸に見られたのだ。
それならば、あの憤りも納得がいく。この数年間、俺よりもずっと努力してきた風戸は、今から一位を取ろうとしている俺の根性が気に食わないのだろう。
「……待てよ?」
ふと、あることが頭に過ぎった。
「なぁ、神野」
「なに?」
「確か風戸のやつ、関東大会って言ってたっけ?」
「え? そうだけど……。それが、どうかしたの?」
「……いや、何でもない」
――――
「九郎、お前何を考えてんだ?」
放課後の練習前、固い身体をストレッチで必死に伸ばしながら、苦悶の声を漏らす九郎に問いかけた。
「ぐっ、ぬぅ……。どうしたいきなり」
「どうしたもクソもない。一位を取るには、あの風戸って奴に勝たなきゃいけないんだぞ」
「そりゃ、全員に勝たなきゃいけないんだからな……くっ」
前屈姿勢でさらに足の裏を伸ばす。俺はその後ろで九郎の背中を押して、ストレッチの補助をしていた。
「いたたたたた!! 切れる!! 膝の裏が! 切れるぅっ!!」
「このくらいで音を上げてどうする」
「無理無理! ちぎれるっ!!」
本当に泣き出しそうになったのを察して、背中を押す力を弱めると、九郎の叫びはすぐに小さくなった。
「つーか俺の方が無理だろ。風戸のことを知ってて、どうして俺が勝てるって思ったんだ?」
「まぁ、ちょっとした暇つぶし兼……」
「暇つぶしって……。次は?」
「青春さ」
予想外の返答に言葉を失う。
そんな俺の反応を面白がるように、九郎はこっちを向きながらニヤニヤと薄気味悪く笑った。
「九郎、自分で言ってて恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしいことがあるかよ。いいか、オレたちは高校生だ。花の男子高校生。なら、何かしら青春ドラマのようなことをしたくないのか?」
「いや、別に――」
「オレはしたい!」
九郎が拳を固めて歯を食いしばる。
「マラソン大会のために放課後練習を重ね、その結果一位をもぎ取る……、こんなにドラマティックな話、他にあるか!?」
「そりゃ――」
「いや、ない!」
あ、こいつ人の話聞く気ない。
「それこそが――」
「ちょっと待て。論点がズレている」
「えっ?」
「俺はどうして俺が勝てると、九郎が思ったのか、それを聞いたんだが」
「あー。元陸上部だから」
「……それだけ?」
「それだけ」
悪びれもせずあっけらかんと言われてしまっては、こちらからも返す言葉がなかった。
「それに、お前が風戸のライバルだったって聞いて、さらに行けるって思ったし」
「何年前の話だと思ってるんだよ……」
「何年前でも、事実だろ? それに……」
「それに?」
同じ言葉を反芻して続きを促す。
「今、ここにいるだろ。つまり、まだ諦めてないってことだ」
図星を突かれて言葉に詰まる。
何だかんだ言ってこいつの鋭さというものは、バカにできない。
「無駄なことだと思ってたら、孔人はこんなことに付き合わないさ。何かしら策があるんだろ? ならそれを信じるさ」
その声に一切の不安も疑心も含んでいない。
あっけにとられている俺を置いて、公園の出口へと向かっていった。
「意外だな。聞こうとしないなんて」
九郎だったらてっきり俺の考えている策を知りたがると思っていただけに、この反応に驚いている自分がいた。
「走ることなんてわからねーからな。聞いたってどうこうできやしねー。ほら、んなことより走るぞ」
まだぎこちないフォームで九郎が走っていった。
姿も見えなくなっても走る足音は聞こえていたが、それも次第に小さくなっていく。
「……変にカッコつけやがって」
九郎を追うように俺も走り始める。
この方法ではたして風戸に勝てるかどうか。正直、ほとんど勝率はないと言ってもいい。
ただ、ゼロじゃない。もしかしたらの可能性が残っている。
だから、それを選んだだけだ。
近似したらゼロになりそうな勝算を少しでも現実的にするためには、俺の体力を少しでも向上させる以外にない。




