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七話

 今のままの日常が幸せだというのに、なぜわざわざそれから抜け出そうとするのか。そんなことをするのは、よっぽどの変わり者だけだろう。そして、冬乃(ふゆの)はその変わり者には属していない。ついていく理由は、どこにもないのだ。


「幸せは与えられるものじゃない。自分でつかみ取るものだろう?」


 それには同感だ。実際俺もそうやって中学一年から今の今まで生きてきた。自分で選んで、自分でつかんだ幸せ。それは、他でもない自分で動かなければ手に入らないものだ。

 しかし、


「幸せをつかめるような環境は、そこらへんに転がってないんですよ。それは、周りが用意してあげなきゃ。僕は、あなたにはそれを用意することすらできないと言ってるんです」


 俺で言えば、幸せになれる環境を用意してくれたのは夏花や冬乃だ。二人がいたから、俺は幸せになれた。なろうと思えた。少なくとも、この二人がいなければ俺は幸せになれた自信がない。


「冬乃、行くぞ」


 グイッと冬乃の細い腕を引っ張る。阿吽の呼吸というのか、すでに冬乃は俺の言動から察して立ち上がる準備をしていたので、すんなりと立ち上がった。

 財布に入っていた一万円札を二枚取り出し、机の上に置く。コーヒーの代金と、濡れたスーツのクリーニング代だ。もしスーツを買いなおすのならこれでは足りないだろうが、そこは見逃してほしい。これは財布の中に入っていた全財産だ。

 早川(はやかわ)さんには一瞥もくれず、真っ直ぐと出入り口に向かっていく。店員さんに一礼してから、俺たちは並んで店を出た。

 人が多い。駅なのだから当たり前だが、今は邪魔なだけだ。走るにはあまりにも感覚が狭すぎる。このあたりには碌な観光スポットはないので、季節には少し早いが、電車で数駅の所にある海にでも行く人たちなのだろう。

 人混みとは反対方向に進み、家を目指す。後ろから冬乃の不安げな視線を感じたが、かまわず歩く。


「お兄ちゃん、痛い」

「悪い」


 どうやら、手に力が入りすぎてしまったようだ。急いで手を放すと、冬乃は俺の後ろから横へポジションを移動した。

 住宅街は、最近では珍しく天気いい日曜だというのに、不気味なくらいにだ誰もいなかった。しいて言うなら、布団を干す見知らぬおば様が一人、目線の上の方にいたくらいだ。

 久々の登場で張り切っているのか、日差しを強める太陽の光に、隣でなびく白髪が反射して、ちょっとまぶしい。


「お兄ちゃん、大丈夫なの?」


 なんのことなのかは考えるまでもない。社長という存在に、親という存在に、喧嘩を売って大丈夫なのかという意味だ。もしあれで早川さんが怒り狂って父さんに垂れこみでもしたら、何らかの制裁が加わるのではないか。そう冬乃は聞いているのだ

「大丈夫じゃなかったとしたら、その時はその時だ」


 しかし、そんなもの、全て父さんの気まぐれで決まるのだ。父のその日の機嫌なんて、何年もあっていない俺に分かるはずがなかろう。いくら考えたところで分かりやしないのだし、俺よりも不安なはずの冬乃に、俺が不安で悩んでいるところなんて、見せられるはずがない。故に、大丈夫だと言い切って、冬乃を安心させるのが先決だ。

 だから、頭をポンと叩いてそういった。叩いたといっても、軽く頭に触れるだけの、愛のこもったやつ。

 それに呼応して、冬乃は柔らかく微笑み、自然と手を繋いできた。先ほど俺がしたように一方的なものではなく、がっちりと、お互いがお互いを支え合うような、そんな温かさを持った恋人つなぎだ。今まで、一度もこんなつなぎ方はしたことがない。なぜなら、俺たちは兄妹だから。それ以上でも、それ以下でもなく、兄と妹でなければならないから。それが壊れないように、必ずそこには一本の線を引いてきた。だから、本来はこの手を振り払わなければならない。でも、今の冬乃のことを考えると、とてもそんなことはできなかった。だから、ぎゅっと手を握り締めて、


「家までだからな」


 と添えて、残りの道のりを、ゆっくりと歩いた。

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