六話
早川さんは胸ポケットから小型の黒いケースを取り出して、その中から長方形の紙を一枚、机の上を滑らせて俺と冬乃の真ん中あたりに置いた。名刺だ。その中心に、黒のインクで「早川雪也」と書かれている。左上には小さな文字で株式会社の代表取締役と記載されている。つまるところ、社長だ。
「不満の無い生活は保障できるよ」
これでなびくだろうという、大人の汚い心を感じる。そりゃあお金の面では苦労しないだろう。しかし、それは我が家でも同じことだ。だが、俺の期待を裏切るように、冬乃はその言葉にピクリと反応を示した。それを見て、早川さんはしたり顔だ。もっとも、冬乃は金に食らいついたわけではない。俺にはわかる。この冬乃の表情は、お金に、社長という肩書きに負けた顔じゃない。反抗を示すときの顔だ。それも、かなり強烈に。
「私にとって、不満の無い生活というのは、兄がいて、姉がいて、友達がいて……。そんな、今の日常です」
よほど先ほどの言葉が気に食わなかったのか、いつの間にか体の震えは止まっていて、口調には怒りが混じっていた。
「しかし、君の本当の家族は僕だろう?聞くところによると、今の家では、君だけ血がつながっていないそうじゃないか。血のつながったもの同士で暮らすのが……」
パシャン。水の跳ねる音がした。
気が付けば、、俺はコップを握っていた。その淵からは、水滴が垂れている。
「……」
俺は、早川さんに水をかけたようだった。その証拠に、早川さんの顔から下と机が、透明な液体で濡れていた。
それほどまでに許せなかったのだ。「君だけ血がつながっていない」なんて、冬乃にとっての禁句が。そんなもの、冬乃が一番気にしているの決まっている。なのに、なんでわざわざ他人の口から聞かなければならない?冬乃はずっと怖かったはずだ。本来、なんのつながりも持たない「自分」という異分子が。親同士が結婚したからと言っても、子供にそんなもの関係ないのだ。兄妹の前に「義」が付いてしまう自分を、一体冬乃が何度呪ったと思っているのだ。冬乃がほしくてほしくて仕方がない、けれども絶対に手に入らないものを突き付けられるなんて、そんな残酷なこと、許せるはずがない。
「お客様」
気づいて近寄ってきた店員を、早川さんは追い払うように手をひらひらさせた。
「続けようか」
水をかけられても、早川さんは何一つ動じていなかった。びちゃびちゃに濡れてまでも、大人の余裕を感じる。しかし、その瞳には先ほどまでとは違う光が宿っているように見える。
「これではっきりしましたね」
今俺が水をぶっかけたのは、他でもなく冬乃のことを思っての行為だ。つまり、早川さんは冬乃を傷つけるようなことをしたということになる。それは、この場において、大きなアドバンテージとなる。
「あなたに、冬乃は幸せにできない」




