一話
いくら冬乃が生まれた時から失踪していたと言っても、冬乃だって、両性のまぐわいによって生まれたのだ。ならば、今までいなかったとはいえ、この世にはまだ、冬乃の父親がいる可能性は十二分にあったのだ。
「冬乃の父親が、冬乃を引き取りたがっている」
だから、実父のその言葉を聞いても、俺はさほど驚かなかった。それどころか、父が俺に電話をかけてきたことの方が、驚いたくらいだ。今まで、なんの音沙汰もなかったのだから。
「来週の日曜、駅前の喫茶店に行け。冬乃父親が待っているから」
数年ぶりの父との電話は、わずか数十秒で途切れてしまった。
「……悪い、今日は帰る」
今の電話で、俺は言葉を発していないが、それでも俺の表情から何があったのかを読み取ったようで、誰も引き止めやしない。
カバンを持って、俺は壊れたのちに修理して、それでもまた壊れかけている扉に体当たりに近い形で飛び込んで、昇降口まで全速力で走る。すでに息が荒い。それでも、足は止めなかった。学校を出ると、駅まで猛ダッシュ。タイミングよく止まった電車に、誰よりも早く飛び乗った。
電車が走り出しても、心のざわめきが止まらない。ドクドクと脈打って、落ち着くことを許してくれない。電車の外は雨が降り出していた。濡れていく街を見ると、まるで心を鏡写しにされたようで、気が休まらない。今すぐにでも走り出したいくらいだ。
日曜日まで、あと4日。スマホで天気を調べると、その日も雨の予報だった。
何か、嫌な予感がする。16年と数ヶ月生きてきた中で身につけた勘が、そう叫んでいる。
「どうしろってんだよ……」
おそらく、冬乃が実の父に引き取られることは、親の間ではすでに決まっているのだと思う。そうでなければ、俺に連絡なんてよこさないだろう。わざわざ電話をかけてきたのは、きっとお別れの準備をしておけという、指輪に付けられたダイヤモンよりも小さな、、わずかな親心なのだと思う。
泣きそうになるのを、必死に抑えて、電車が駅に着くのをじっと待った。
「おはよう、お兄ちゃん」
目が覚めると、横からそんな声が聞こえてきた。どうやら、いつの間にか眠ってしまったらしい。家についた後の記憶がない。
「時間的には、もうお休みの時間みたいだけどな」
ベッドの脇の目覚まし時計は午後11時を指していた。
それよりも、今は確認しなければならない事柄がある。
「冬乃、父さんから何か連絡はあったか?」
冬乃は、小首を傾げて、何を言っとるんだこいつはという目で、俺をのぞき込むように見えた。
「なかったけど?」
身振り手振りだけで十分に伝わったのだが、冬乃は言葉にしてくれた。本当に、俺にはもったいないくらいにできた妹だ。
「そっか」
とりあえず、冬乃はまだ知らないという事実に、胸をなでおろす。
「何かあったの?」
言ってしまおうかとも思ったが、今は言うべきじゃないのではないかという考えが頭をよぎる。冬乃に関係する問題だ。だから、なるべく早く伝えなければいけないのはわかっているが、心がそれを拒否している。
「いや、なんでもない」
なので、ここはごまかすことにした。実に分かりやすいごまかしだ。しかし、冬乃はそれ以上追及してこなかった。
「ごはん、食べる?」
自分の父親の事など、何も知らない冬乃は笑顔で聞いてくる。この微笑みを見ると、悩みなんてどこ吹く風だ。
「可愛い妹が作ってくれたんだし、勿論いただくよ」
なんとなく頭を撫でると、くすぐったそうな表情を見せる。
何があっても、この笑顔だけは、失っちゃだめだと、強く自分に、言い聞かせた。あの日のように。




