二話
その日の夜、俺はいつも通り風呂を済ませると自分の机の上に栞を挟んだままにしてあった本を手に取り開く。一日最低でも一時間、決まって読書するのが俺の日課だ。いつもなら通学途中の電車でも読むのだが本を机に置いていたのを忘れていて読めなかった。なので今日は多めに時間を割いて読もうと思う。本の内容はいつも冷めた目で生活している少年の心を開くために少女が奮闘する青春小説のようなものだ。なんど突き放されても関わりを断ち切ろうとされても、そのたびに会って尽くそうとする少女の姿に少年はどんどん惹かれていき、やがて恋の感情が芽生える。最初は喜怒哀楽も見せなかった少年が少女のおかげでそれを表現することができるようになったのだ。若干のこじつけはあるがそれを抜いてもよくできた内容だとは思う。ストーリーに出てくる少女の母親なんて、少年のことを「無愛想で心のない子供」なんて言ってるがこの母親が第三者視点で言える少年の評価なんだろう。
なんだか俺にはこの少年の考え方と通じる点がいくつかあって、まるで自分が物語の中にいるような気さえしてしまう。ただ、それもまた読書の醍醐味の一つだ。感情移入することによって自分がまだ体験したことのない経験を本は教えてくれる。想像力を働かせ、情景描写、心理描写全てに着目する。もちろん表現技法も見逃さないように一字一句を頭に叩き込んで文章を読む。すると作者がどういう意図でこれを書いたのか、何を伝えたくて作ったのかが読み取れる。きっとこの作者は自分の過去の経験を織り交ぜて、生い立ちを本にして紹介しているんだ。なぜかその時は断定できる自信があった。
――会いたい、この本の作者に。
心の底からそう思った。この人なら俺の気持ちや考えを理解してくれる。必要としてくれる。でもどうやって? 分かっていることは作者の名前「明石 フミヤ」と出版社だけだ。電話で問い合わせたところでまともに相手してくれるはずがない。ましてや会いたいなんて言ったらただの不審者だ。なら、せめてこの人の出演するイベントはないのかと探してみたが都合良く見つかることはなかった。おまけにホームページすら表示されなかった。この世とは違う世界で生きているかのように「明石 フミヤ」に関する情報は一切見つからなかった。この人はいったい、何者なのか。出版社自体はかなりの大手だ。本屋で見つけた時も新進気鋭作家の第二弾! なんてラベルが貼ってあった。それも分かりやすい入り口付近に置いて。調べるほど謎が増すこの作者、情報がないなら手当たり次第で探すほかはないな。この時俺の中で、諦めるということはまだ浮かんではこなかった。
翌日、俺は授業終了のチャイムが鳴ると同時に学校を出た。そのまま電車には乗らず市内に住むおばあさんの家に向かった。
「珍しいねぇ、凛が一人で来るなんて」
おばあさんは俺をはるかに超える読書家だ。一日の大半を本を読むことに費やしこれまでの人生と本の中での経験で培った知識を基に本を書く。読書家であり作家でもあるのだ。年齢的にも不自由の多い生活が続いているが本を書くその瞬間だけは誰にも負けない集中力がある。慣れない手つきで触るキーボードの手を止めて、おばあさんはにっこりしながら振り返る。初めて原稿用紙に書くことができなくなった時もこんな笑顔だった。思えば、今までできて当たり前だったことができなくなった時おばあさんはいつも笑っていた。お箸を持つことができなくなった時、歌うことができなくなった時、杖をつかないと歩けなくなった時、その度に「また一つできなくなった」と言いながら笑う。
「仕事中にごめん、どうしても聞きたいことがあって」
「教えられることなら教えるよ」
俺はカバンの中から少年と少女の物語を取り出した。
「この本の作者について知ってることない?」
そう言っておばあさんに渡すとふむふむだとかうーんだとか呟いて記憶から「明石 フミヤ」について引っ張り出しているようだった。希望は薄いが無類の本好きのおばあさんなら何か情報を知っているかもしれない。同じ出版社から本を出しているなら顔を合わせることもあったりしないのだろうか。
「この人は名前だけ紹介された程度でねぇ、あんまり詳しくは知らないよ」
期待していた当てが外れた。おばあさんでさえこの人物について知らないのなら一筋縄じゃいかなさそうだ。おばあさんはペラペラと数ページめくったあと栞が挟んであることに気づき、本を閉じて俺に返す。
――文体に比喩が多めだね。まだ書き始めて間もない頃のワタシとそっくり。
そういえばおばあさんの本は出版されるたびに必ず買っているが俺が生まれる以前の本は読んだことがない。今のおばあさんの文章を一言で表すなら完璧。年と共に磨き上げられた言葉選び、伏線の回収、締めくくり方、どれをとっても一流だ。ならもっと昔の文章はどうなのだろう。おばあさんは立ち上がり本棚から年季の入ったボロボロの本を何冊か取り出してにっこり笑いながら俺に渡した。そうしてまた椅子に座り目の前のパソコンに向かうと真剣な表情で作家をしていた。
俺は一瞥だけして、おばあさんの家を出た。
長かった少年と少女の物語もついに最後を迎えようとしていた。少女が病気のせいで残りわずかな命と知った少年が自暴自棄になりかけている彼女に今度は自分がと思い切り、相手に尽くしていた。この手の小説は人が死ぬことによって感動を生もうとしているのが透けて見えてあまり好まないが今回はわりとスラスラと読むことができた。電車が最寄駅に着いたので本をしまう。続きは学校で読もう、どうせあと十ページ弱しかない。
――読み終わったら次はおばあさんに借りた本でも読むか。
などと考えていたら後ろから声をかけられた。だれかと思って振り返ったら藤宮だった、朝から元気だなこの子は。周りに人はいないし、今日は一人で登校してるんだろう。
「葉暮くんっていつもこの時間?」
「まぁ、たいていは」
「そうなんだ!、けっこうゆっくりなんだねー」
適当に頷いて話を終わらせた。このままだと学校に着くまで延々と長話に付き合わされる気がしたので止めておいた。世の男子高生ならここで話に花を咲かせて女子に好かれようとするんだろうなと斜に構えた考えがよぎる。話すことは嫌いじゃない、ただ距離感が大事だと俺は思っている。無理に面白味を出そうとして失敗したらそれこそ笑いものだ。俺は自分に向かないことは絶対にしない。男気がない? 意気地なし? それでも結構、誰になんと言われてもそれはその人の主観的意見であって必ずしもそうだとは限らないのだから。
暑いー、だとか今日も物理あるんだねー、だとか独り言で喋り続けるが俺は何も反応しない。むしろ距離を空けて歩くようにしている。そもそもなんでこの子が俺についてきてるのか理由がわからんが。それだけ聞くか。
「なんでついてきてんだ」
「いやー、いつもはもっと遅く行くんだけど家から駅についたらちょっと早く着いてて、電車もちょうど来てて……」
質問の返答になってないが、そのせいでおそらくこの時間に一緒に乗っていた友達がいなかったんだろう。そこでたまたま乗り合わせていた俺に声をかけたのか。
「葉暮くんが乗ってきた時に声かけようとしたんだけど、本読んでたから邪魔しちゃ悪いなと思って降りてからかけようってなったの!」
昨日今日の仲でもこんなにたくさん接してくれるこの子はきっと周りからも好かれた存在なんだろう。それに少し気が利くところもあるからグループに必要不可欠な中心人物の一人になりえる。もし、客観的にこの子を言うなら「明るくて、友好的で、気配りのできる優しい人」だろうか。
それからは一度も会話もなく、学校に着いて席に座ると隣に神崎がいた。神崎は俺の中学からの友達で容姿端麗で文武両道、非の打ち所がなく天才と呼ぶに相応しいカリスマ性と名声がある。高校に入ってもそれは衰えることなく、休み時間になるたびに神崎は教室から消えて女子と共に校庭やら廊下やらをほっつき歩いている。俺にはもったいないくらいの友人だが、こいつは俺にかなり信頼を寄せている。今でも「一番信頼している人物はだれですか?」と聞かれたなら、こいつは親でも兄弟でも恋人(いるのか知らないが)とも答えず、真っ先に俺だと答えるだろう。どことなく同性愛者のような匂いが漂うが、今時珍しいことでもないしこいつに好かれることに悪い気はしない。そんな神崎がたまに俺を見て羨ましがるような顔をする時がある。
「なんだ? 俺の顔になんかついてるのか?」
「べつになにも、人生山あり谷ありだなって」
なにやら意味ありげに言うので探ってみたがはぐらかされた。その後すぐに神崎はどこからか現れた女子に連れられて出て行った、朝から大変だな。
――ホームルームまであと少し……読むほどの時間じゃないな
カバンから取り出しかけた本から手を離し、俺は机に突っ伏した。