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あいをささげよ

作者: 楠楊つばき

地図にも載らない山奥に、小さな集落がありました。

集落は豊かな森に囲まれており、家畜を狙う野獣を除けば、穏やかな生活を送られていました。

ゆったりと流れる時間。住民誰もが顔見知りである生活。

まさか終わりを告げられるとは、誰もが思ってもいませんでした。



ゴロゴロ、ゴロゴロ。山のどこかで雷鳴がとどろきます。

ゴロゴロ、ゴロゴロ。人々は素早く家に戻り、身を寄せ合います。


突如割れんばかりの激しい音が大地を揺らしました。子どもたちのわめき声が斉唱する中、大人たちは息を潜ませます。

勢いを増した雨が家にぶつかり、風が家ごと押しつぶそうと暴れまわります。


長い夜をこえ、静寂が戻りました。

人々は苦笑しながら崩れた畑の手入れに向かいます。

こんなこと、彼らにとってはめずらしいことではありません。なんたって空の神様は気まぐれなのですから。


雨風がやむ頃には陽も昇っていました。朝露とともに虹が広がり、空を彩ります。


一番に躍り出た子どもの足がとまりました。

次に水くみに行こうとしていた女衆も立ちつくします。

最後に農具を背負った男衆が唖然とした表情で見つめます。


彼らの視線の先では巨大な化物が羽ばたいていました。

翼を地面に打ち付けるだけで、人々はたたらを踏みます。

子どもたちは女衆にかばわれ、クワを手にした男衆は切っ先を空中へ向けます。


――あい を ささげよ――


嵐の翌日、集落に脅威が降り立ちました。


人とは違う体つきであるのに、耳に届く声は明瞭でした。

安寧を脅かす侵略者の出現に、一刻も早く排除しなければならないと住民の心は一つになりました。


すさまじい咆哮は衝撃となり他を寄せつけませんでした。

投石を放とうも、土台が風にあおられてしまいます。

やっとのことで届いた矢も翼に叩き落とされました。

知能が高いのか罠にはまってもくれません。畑を踏みあらし、小屋をばらばらにし、この地はわがものであると言いたげです。


この暮らしを守りたい人々にとって、残された道はそう多くありません。

とはいえ、思い描いた奥の手も不思議なことに一致しておりました。




やがておんぼろな小屋の奥から一人の少女が連れ出されました。

少女は大人の後ろをとぼとぼ歩き、不自然な風を受けて顔を上げます。


少女と怪鳥の視線が交わりました。

耳をつんざく雄たけびにひるむことなく、少女はぼうっと未知なる存在を眺めます。


誰かが少女の背中を乱暴に押しました。とっさにのことに足がもつれ、少女は倒れこみます。

鳥獣は少女から視線をはずしませんでした。少女も口もとをぬぐい、土を吐き出すと、再び見つめ返しました。

こうして一人と一匹は出会いました。



年長者らは生贄が気に入られたことに安堵しました。

供物をささげれば、あの怪異はこの土地から興味をなくすと考えたからです。

それから人々は運命の日まで生贄をかわいがることにしました。

おさがりでない衣類を与え、色とりどりの食事を用意し、湯浴みを毎日行わせました。

同時に少女から自由を奪いました。常に護衛が立つことになったのです。

日中ならばまだしも、夜の睡眠でさえ扉の向こうに腕自慢が立ちます。


誰も少女を逃がすつもりはありませんでした。彼らにとって少女は生贄以外の意味はありませんでした。

そうして少女はアイと名付けられました。



一人と一匹の会話はいつも少女から始まります。

獣は聞き手にまわり、一言も話しません。他の動物よりも何倍も大きいですが、じっとしていれば他のものと変わりありません。息を吸い、吐いているだけです。

話し疲れた少女はふわふわの毛とたわむれ、天気の良い日は翼にくるまってお昼寝します。雨の日は傘の代わりです。とても温かく、雨風の冷たさを忘れさせてくれました。


ある日、少女の瞳から涙がこぼれました。滑らかな毛並みに頬を擦り付けると、この上ない気持ちになりました。少女は多く語りませんでした。巨獣も微動だにしませんでした。

少女の涙がとまる頃には美しい毛並みもしっとりとぬれていました。

謝罪と感謝で涙がぶり返しそうになってしまい、少女は翼の付け根にぴたりと張り付きます。そこは少女のお気に入りの場所でした。安らかに眠れる唯一の場所でした。翼に隠されている間はこの世のあらゆることから切り離されるようでした。



――日が沈むまでに、おわかれをすませておきなさい。

その言葉の意味がわからないほど、少女は子どもではありませんでした。




夜が訪れると少女は宴会に参加させられました。

人々は真っ赤な顔で語り合い、地面は水や酒や空のたるでごちゃごちゃとしています。

たき火の光が夜空にすうっと舞い上がります。

この日は皆が護衛という名の監視を嫌がり、酔っていました。

そのことに気付いた少女は素早く抜け出し、ひとりぼっちであろう友人のもとに向かいました。


来てみれば予想通り。宴の日だというのにひとりぼっち仲間はひとりでした。おそろいです。

少女はいつも通りに懐に入り込みました。ただ寝る前につぶいてしまった言葉が、野獣を目覚めさせるきっかけになるとは知らずに。






とぐろを巻く暗雲がどことなく不安を感じさせる朝でした。夜明け烏も隠れているのか森は異様なほど静まり返っていました。


足音が少女を夢の世界から引き離します。腕の中、正確には翼にくるまれて、目が覚めてもそのまま体を預けていました。


儀式の段取りはおおまかに決められていましたが、少女がすでにあちらの手中に落ちていたため、さあ大変です。

寝不足の者も頭が痛い者も全身土まみれの者も残らず集められました。


――あい を ささげよ――


冷ややかな一声を皮切りに、人々は花や酒や肉を差し出しました。当初の予定ではこれらに少女もつきましたが、少々早まっただけのことです。




怪獣の咆哮が空気を震わせました。羽ばたきは暴風になり、足踏みは地響きになり、立っていられる者は誰もいません。嵐の目にいた少女でさえも尻もちをつきました。

うなりは続きます。供物である花は踏みつけられ、酒だるは壊され、肉は引きちぎられました。

ここまで荒れ狂った友の姿を見るのは少女にとって初めてでした。なだめようと無意識に体が動きます。

土と草まみれになった腕を伸ばし、怒りを少しでも抑えようとするも届きません。立ち上がろうとしても膝が笑ってしまいます。


無様だとせせら笑うような声が背後から聞こえて、少女は目を見開きます。

後ろには誰もいないというのに声が頭から離れません。

心ない言葉がよみがえり、少女の心がきしみました。まやかしを振り払おうとすればするほど小さな傷が積もっていき、耐えきれずに瞳から滴がこぼれ落ちました。


――あい を ささげよ――


優しげな声とともに滴が消えました。


――あい を ささげよ――


周りの人々が突然もがき苦しみました。顔を手で押さえ、のたうちまわります。非難の声が悲痛な叫びに塗り替えられていきました。もう誰も他人を気にする余裕はありません。いつの間にかに風がやんでいようと、それどころではありません。


――あい を ささげよ――


少女の瞳に宿っていた陰りが失われました。

ほどなくして皆も起き上がり始めます。互いの無事を確認しながら、あれに関わってはいけなかったと後悔しました。

大人の一人が少女の腕を引っ張りました。以前のようにけがをさせるためではありません。一緒に逃げるためです。


けれども少女は大人の腕を振り払い、一歩下がりました。

少女のにらみつけるような鋭いまなざしに浮かぶ心情は拒絶です。


――あい を ささげよ!――


アイという名を授かった少女は自ら集落の敵に近寄り、その大きな背中にしがみつきました。

危険を知らせる声があちこちから上がるも、少女は離れようとしません。むしろ触り心地を楽しむかのように頬を擦り付けました。

ざわめきはさらに大きくなり、子どもから大人まで大勢が少女の名を必死になって叫びます。

周囲の声が大きくなればなるほど少女のまなざしは険しくなります。


「誰? あなたたちは誰? ねぇ、アイってだあれ?」


――ここに あい は ささげられた――


少女を連れて、化物は飛び去りました。




太陽が何度か昇り、沈んだ後、山火事によって森の大半が失われてしまいました。

山奥に集落があったかどうか。それさえも知る者は今や誰もおりません。




おしまい



ささげられた『あい』に報いるものを――。


お付き合いいただき、ありがとうございました。

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