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「例えば今私の前にはウィスキーの入ったグラスが置かれているよね。ウィスキー・オン・ザ・ロックだ。同じように君の前にはレモンがほのかに香るマルガリータが置かれている。まだ口をつけていないからジャン・デュレッサーが施した天使の輪が残っている。そしてそのグラスの向こう、カウンターを越えたところにはちょっとしたスペースがあって、その奥に棚があるよね」
「あるね」
「棚には瓶だったり小物だったりといったものが、シャンパン色の照明に照らされて、各々が最も個性を発揮できる姿勢で静かに整列している。美術品みたいにね。棚の二段目を見てみよう。私のちょうど前の棚には林檎の刻印のラベルが目を引く緑の瓶がある」
僕の前の棚には年季の入ったマトリョーシカが飾られていた。海を渡ってきた時に現出する独特の風味を宿した品だった。
「我々はこれを三次元の世界として、立体的に捉えているよね。でももしかしたらそれは大きな勘違いかもしれないんだよ。実は目の前に広がる光景はちょっとした錯視を利用した平面で、私は目を凝らさなくてもラベルの字を読めるかもしれないし、君は立ち上がらなくてもマトリョーシカの頭を取り外せるかもしれない。確かに見えるものが確かでは無い。それが夢の世界なんだよ。いや、この世界に限らず物事は必ずそういった側面を持っているものだけど、この世界ではそういった秩序の弱さが特に顕著に浮き上がるんだ。ある意味で混沌こそが秩序なんだね」
「三人目」の言っていることは簡単には首肯し難い内容だったけれど、実際僕はこの夢の世界を何度か渡り歩いてきた過程で、彼の言う通りの世界像を身を持って体感していたため、その言葉に納得せざるを得なかった。先程だって、高級ホテルを匂わせた外観の、そのドアを開けたら中は蝙蝠の巣穴だったのだ。
常識という基盤が無く、各々が別々の秩序の規格に則って形作られている。この世界は鳥のようだった。常に開放的で自由でありながら、常に空に縛られている。
「こういう言い方の方が分かり易いかもしれないな。私は大きな声を出す人間は全く信用出来ないと思っているのだけど、それは私が“小さな声を出す”側の人間だからであって、“大きな声を出す”人間からすれば逆に“小さな声を出す”人間を信用出来ないと思っているかもしれない。つまりそういうことさ」
「余計ややこしくなった気がするけど、世界の性質は当人の見方によってガラリと変化するということだよね」
「そういうこと」