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「そういえば、前から訊きたかったんだけれど」
紅茶のカップを両手で包んで温度を確かめていた彼女に、僕は声をかけた。僕の椅子の近くを歩いていた小鳥が相槌を打つように二、三度鳴いた。
「話を聞く限りだと、君にも師匠がいたわけだよね。そして魔法使いにとっての最後の仕事は、師匠として弟子を育て上げることなわけだろう?じゃあその人は今どうしているのか、そのことに興味があるんだ。魔法使いは仕事を終えるとどう過ごすのかな」
ちょうどテーブルの上の大皿に一通りの焼き菓子を並べ終えたルが着席して、この質問にどう答えるのかを興味深く観察するかのように、彼女の顔を眺めて微笑んでいる。ルとは、数日前に夜の森で出会った黒いコーディネートの魔女のことだ。本名は別にあるらしいが、彼女がこの魔女のことを「ル」と呼ぶので、僕もそれに倣うことにした。ルは僕がそう呼ぶのを聞いて「あなたまでそう呼ぶの?別に私難しい名前を持っているわけじゃ無いのに」と苦笑していた。
今日はルが沢山の菓子を手土産に遊びにきたので、我が家からは自家製の紅茶を披露してお茶会を開くことになった。
妙に幸せそうな太陽の日差しに誘われて、僕たちは庭先にテーブルを用意し、そこで優雅な午後を演出することにした。今にも古典的なピアノの旋律が聴こえてきそうな昼のひと時である。
「いないわよ」と彼女がニッコリ笑って言った。
「どこにもいないわ。師は今は安らかに眠っているの」
「そうだったんだ。でも死ぬ前はどうしてたんだい?死ぬ前で、君の師を辞めた後は」
「うーん」
彼女はどう説明していいものか考えあぐねているようだった。
「それに関しては少しややこしい話になってしまうのだけど」
「魔法使いはね、師の役目を全うしたらその場で死ぬのよ。弟子に殺されるからね」
ベリージャムの乗った幾つかのクリスピーサンドを、それがアンティーク品であるかのように慎重に、慈悲深く自分の皿に並べながら、ルが言った。彼女は大の甘党で、砂糖が使われたものには目がない。勿論チョコレートやキャンディも大好きだし、クッキーにいたっては常にナプキンで包み、ポケットに潜ませている。甘いものの話をする時、彼女は宿命的な恋人との逸話を語るように目を輝かせ頬を上気させるのだ。
しかし甘いもの以外の話をする時、彼女の目は至って甘くなく淀みなく、顔の中で鋭利に揺れる。
僕は何も言わなかった。難しい話だと彼女も言っていた以上、途中で口を挿んで事態を複雑にするのは良くないと思ったからだ。皿に焼き菓子を盛り付け終わったルが再び口を開く。
「誤解しないで欲しいんだけど、これは一つのルールみたいなものなの。“魔女のルール”ね。魔法使いの世界では、その知恵は世襲では無く必ず無関係の人間に継承される。魔法とは縁の無い普通の人間を弟子にとって、その弟子ただ一人に自身の一切を教え込むのよ。そしてその課程が全て完了すると、弟子は師を殺すの」
「それは感情的な理由で?」
いいえ、とルは言った。
「感情的な理由で殺すことが無いわけじゃないけれど、多くは他の要因ね。ある日、何かの拍子に、何らかの形でそれは起こるわ。直接的か、あるいは間接的にかもしれない。怨恨かもしれないし、逆に愛しているかもしれない。それでもその時が来たら必ず、弟子が、師を、殺すことになるのよ」
「閃きのようなものね」と彼女が言った。
「師匠殺しが、閃き」
「そう。画期的なアイデアのように、突然やってくるのよ」
よくわからないな、と僕は言った。神代の呪術的な話として解釈するのが精一杯だった。
「でも、それがルールなのよ。今までこのルールの外に出た者はいないわ。私も、それにこの子も、確かに師を殺したの」
そして次は自分たちの番というわけだ。弟子は師を殺した時点で一人前になり、一人前になった魔法使いはやがて弟子をとる。
彼女の弟子は僕だった。
僕が彼女を殺す?考えられない。この先もそんな未来は万に一つもあり得ない気がした。いや、深い確信があった。僕が僕自身であることと同じぐらいの深い確信だ。僕が彼女を殺すことは、万に一つもあり得ない。
「大丈夫」
彼女は僕の考えを見透かしたかのようにそう言った。
「大丈夫よ」
「でも、殺されると分かっているなら、何故魔法使いは弟子をとるんだろう」
僕はひとまず話題を変えることにした。この問題は雨降りの夜にでも一人で、もっと長い時間をかけて考察すべきもののように思えたからだ。
「アイデンティティの問題かな。自身の培ってきたものを継承出来ないということは、自身の痕跡をこの世に残せないということだから、それが恐ろしいとか」
「んーん、違うと思うよ」と彼女は微笑んだ。太陽の光を充分に浴びた美しい笑顔だった。それは僕の以前知っていたお伽話の魔女のイメージとはまるで異なるものだ。新しい花のようだった。
「どうしようもないのよ。そうと分かっていても、とらずにはいられない。だって人間は一人では生きていけないから」