6
道に迷ったことに気づいてからは、僕は何故か失ったもののことばかり考え続けていた。ヘッドホンとかヘアスプレーとかそういったもののことだ。
お気に入りの眼鏡についても思いを馳せた。僕の眼鏡はさして新しいモデルでも瀟洒なデザインでも無かったが、身につけると僕そのものに吸いつくようにフィットする不思議な眼鏡だった。まさに魔法のような眼鏡だ。普段あまりかけることは無かったけれども、例えば映画館や美術館に行ったりする時には、そこにある何もかもを見逃すことの無いようにいつも忘れずにかけて出かけた。
ある冬の夜にふと空を見上げたことがある。その日はあたかも雲という概念そのものが初めから存在しなかったかのような快晴が一日中続き、夜は冬の空気の締まりも相まって都会でも欠けた月がよく見えた。その光景に思わず嘆息すると、暖められた吐息が僕の進む方向と逆に流れ、ショーの終りを告げるかのように眼鏡を白く曇らせたのだった。
今夜、何故か普段は決して足を踏み入れない森に立ち入ってしまったのは、そんな晴れやかな夜の空と、今夜の空が瓜二つだったからかもしれない。なんとかなる、漠然とそんな気持ちになったのだ。
「散歩かしら?」
それが僕への問いかけだと気付くのに少しの時間を要した。何故なら僕は散歩をしているわけでは無いからだ。知らない森に入り、迷子になり、冷や汗を浮かべ、挙句の果てに現実逃避をしている最中だからだ。声のした方に顔を向けると、見知らぬ女性がひと際太い幹の針葉樹に体を預けて微笑んでいた。
「実は家に帰れなくなってしまって」
もしもう一つ声への反応が遅れた理由があるとすれば、それはその声が聴いたことの無い声だったためだろう。
これは平生から人波にもまれて生活していると想像し難い話になるが、僕は今、人の声を人の声として認識出来ていなかった。
この世界に来てからすぐに彼女に拾われ、以来他の人の気配を感じることは無かったものだから、てっきりこの世界に存在する人間は僕と彼女だけなのでは無いかと思い始めていた。だから僕の脳は、初めて聴く声音に些か戸惑ってしまったようである。
「そんな気がしたわ。まだ夜は寒いもの」
そう言うと彼女は夜に埋もれた木から体を剥がし、僕のいる月明かりの下へと歩み出した。全身を黒い服でかため、頭のサイズと比べると不釣り合いな大きな帽子を被っている。まさに魔女といった感じの服装だ。二人目の魔女と僕は対面していた。
「あなた、最近あの子のところに来た人よね」
あの子というのは彼女のことを指すのだろう。僕はとりあえず頷いておくことにした。
「やっぱり。だってあの子の言ってた通り」
「彼女の知り合いなんですか?」
「一応お隣さんだもの。まぁ、この界隈は狭い世界だから、大体の顔ぶれは知ってるわけだけれど」
「僕はまだ二人にしか会っていない」
これからよ、と彼女は笑った。
帽子飾りは何かの生物の皮で出来たベルトと、釣り針型の細工、継ぎ接ぎを繋ぐホチキスのような厚みと硬さを感じる糸、それに沢山の金のリングを主軸にして成り立っていた。僕の見慣れた魔女の帽子飾りとはまた違ったタイプの纏められ方だったが、嫌味の無い洗練されたアイデアを感じる装飾だった。
「ねえ。あの子の家まで送っていってあげましょうか」
「それはとても有り難いです」
「その代わり、今後不用心の無いようにね。今度日を改めてそちらに挨拶に伺うわ。おいしいクッキーとドーナッツを持って行くわね」