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それはお前の求めたものではない、と彼女は何度も呟いていた。それはお前の求めたものではない。先程から果物をすり潰すように口の中をモグモグと動かしながら暖炉から階段にかけての特定のルートを覚束ない足取りで行ったり来たりしている。視線はずっと先の未来を見ていて、体中が空白に占拠されている。
初めて彼女のその姿を目にした人は、もしかしたら彼女が人間では無いもっと別の何か、例えば動く彫像とか、未来の永久機関とか、あるいは呪術師に操られたキョンシーのように見えるかもしれない。しかしながら彼女は呪術師などより熟達した正式な魔術師だし、死体でも機械でも像でもない、生きた命そのものだった。
「コーヒーありがとう」
どうやらやるべきことを完遂させたらしい彼女が少し荒くなった息を抑えながら僕の向かいの席に座り、予め用意しておいた白磁のカップを僕の手から受け取った。
魔女はそれぞれに自分専用の呪文を一つ持っている。その呪文は正式に魔法使いとなった際に体の深い部分に刻まれる、謂わば契約のようなもので、魔女達はその言葉を得てからは毎日細心の注意を払って言葉が自分の中から失われないように努める。あらゆる予防をするのだ。先程の反復作業もその一つだと、彼女は以前目を丸くして固まっていた僕に教えてくれた。
「あなたにもいつか必要になるのだから、今から文言を考えておいたらどうかしら」
「どういうものが適当なのかな」
「なるべく日常の会話の中で出てこないような文章が妥当だわ。生活から遠ければ遠い程良いの」
「『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ』とか?」
「そう。『ボトルネックでサボテンを育てる』とか」
「『夜はもう明けることは無い』」
「ふふ。『夜が朝と出会うのは当分先のことだ』の方がそれっぽい」
「『希望は刹那的モラトリアムである』」
「『狼も転べば羊』」
「『僕はただ一人に愛を誓う』」
「それ、とってもステキだと思う」
それにしましょう、と彼女は言った。確かにこの言葉の列をそっくりそのまま日常で使う場面はほとんど訪れないだろう。人によっては死ぬまでに一度も使わないような言葉だ。
僕はただ一人に愛を誓う。悪くない。