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彼女はニコニコと笑いながら僕の目の前に立ち、これから行うべき手順を検討していた。“一人で生きていたら出来ないことが出来る”ということはとても幸せなこと、という彼女の台詞は、そのまま受け手である僕にも当て嵌まるものだった。
「じゃあ始めるね」
そう言って彼女は充分に濡れた僕の髪に鋏を入れ始めた。僕は時折頬や鼻に当たる切られた髪をこそばゆく感じながら、隙を見て細く目を開いては自分の足元を確認した。足元には大きな穴が掘られていた。髪を埋めるためのものだそうだ。なんだか象徴性を秘めた穴だ、と僕は思った。穴はその静かな息遣いを、多義的なシンボルという形で密やかに僕に提示していた。
髪を切るという行為には、少なくとも日本においては、昔から俗世との縁を断つための風習という一種儀式的な側面が存在していた。その血脈は僕の生きている時代にも断髪式という形で受け継がれている。個人的な話になるが、五年前に付き合っていた背の低い女の子は自身の現状に一区切りをつけるために髪を切るという不思議な習慣を持っていた。だから彼女は失業した際にも髪を切ったし、僕と別れた時にも髪を切った。当時はそのような考え方は馬鹿げているように思えたが、今なら少しは彼女の心情を慮れるように思える。今まさに僕は髪を切り、髪を切られることによって自身の内部にあった何かが昇華されていくのを感じていた。その滓のような何かは段々と僕の中で薄らいでいき、僕はその空白を埋めるように目を閉じて言葉に出来ない神聖な異物を新たに手に入れようとしていた。それは不安感のようなものだったのかもしれない。人ひとりが生きることで必然的に抱えざるを得ない行き場の無い生の不安が、彼女の手を通してもたらされた一瞬の充足感につられて立ち退き、体をあけ渡すその瞬間を、僕は一人密かに体感していたのだった。
僕は新たに手に入れ、体に馴染みつつある安心感を架空の掌の上で弄んだ。しかし人は生きている限り完全に安心することなど出来ない。完全な安息は死によってのみ得られる。ならば死こそが最大の幸福ということになるのだろうか。僕は死を生の終りと設定しそれを恐れながらも、生の中で安息であればある程死に近づいていることになるという不可思議な現象について思いを馳せた。しかし、幾ら考えてみても死ぬことが安らぎかどうかなんて実際に死んでみないことには分からなかった。結局のところ僕は、最後に「完全な安心」を得られることを信じて、これからも生きていくほかないのだ。いつの間にか僕の思考は儀式の外側にいた。彼女も髪を切り終えたようだった。
「ありがとう」と僕は言った。
「どういたしまして」と彼女は言った。
「それで、次はこの穴に髪を埋めるということで良いのかな。君の言う“死んだ髪たち”を」
「うん」
「完全な安心を与えるわけだね」
彼女は少しの間の後で笑いながら言った。
「そうだね。完全な安心を与えるために」
「不思議な話だよね。星から分離した僕らは星に帰ることでしか完全な安心を得られないなんて。はじめからずっと星と一緒くたでいれば不安なんて感じなかったのに、なんでわざわざ自ら不安を体感するようなことをしたんだろう」
「不安を知らないと安心も分からないじゃない」と彼女は言った。「そのために私たちは旅に出ないと駄目だったのよ」




