魔女の恋人篇 6話 『リア充爆発しろ 妹はそう言った』
僕が帰宅したとき、すでに十時を回っていた。
寝具に着替えることもせず、自室に戻った僕はベッドに身を投げ出した。
実感のない、得体の知れないものが、体の内奥から込み上げてくるのを感じる。
具体的にそれは、丹田の辺り(へその少し下)から込み上げてきた。期待というには冷めた、慄きというには熱を持った、そんな未知に対し、僕はまたしても当惑した。
今日の夜を通して、僕が当惑しなかった瞬間なんて、あるのかと思われた。
当惑の渦中にいる僕に、下の階でまだテレビを見ている妹が呼びかけてきた。
「おかえり兄ちゃん。綿あめ買ってきてくれた?」
綿あめ、綿あめとは何のことか……。あっ。
僕は妹から頼まれていたお使いをてっきり忘れていた。出店を見ただけで、僕は祭りで何も買い物をしていないのだ。
どう妹に弁解しようか。きっとあいつのことだ。ただ謝るだけでは許してくれないだろう。
理由を説明するか?いや、それもおかしい。魔女の瞬間移動に巻き込まれて買い物が出来ませんでした、なんて説明、口が耳まで裂けても言えない。
ならば、妹に嘘をの言い訳をするか。それもまた、嘘が妹によって看破されるか、あるいは僕が矛盾した言動をするなどの過ちを犯した場合、非常に面倒くさい事態に陥ると考えられる。
あいつは、嘘をつかれるのが嫌いで、もし仮に僕があいつに嘘をついたのがバレたら、一週間はへそを曲げて口を利いてくれないだろう。普段は適当な人間なのに、変なところで強情な奴なのだ。
僕がベッドの上で頭を抱えていると、どさりいう音と共に、何かが僕の頭上に落ちてきた。それは、幾つかの物が入ったビニール袋だった。僕は中の物を確認した。
綿あめにりんご飴(どちらも包装されていた)、ビー玉入りのビンラムネに、水風船まで。なぜこんなものが頭上に降ってきたのか?その答えは、袋の中に入っていたメッセージが書かれた一枚の紙に記されていた。
「今日は助けてくれてありがと。お礼と言っては何だけど、来津くんが出店で買えなかったであろう物を、私の独断と偏見によって選び、ワンセットとして袋に詰め込んで、来津くんの元へ転送しました。喜んでくれると幸いです。あなたの彼女より」
最後の一文があざといのは置いておこう。
その贈り物は、素直に嬉しかった。付き合って早々僕の方が奢られてしまった。今度は僕の方が彼女に何かごちそうしないと。この辺にお洒落なカフェとかは合ったかな。
僕は綿あめを妹の所まで持っていった。
「サンキュー兄ちゃん」
『怪奇!!秘境にて蠢く巨大カタツムリの影』というタイトルの、三文にもならな
さそうな番組を、ソファーに寝転がって見ている妹は、僕に軽い礼を言った。
「そりゃどうも」
僕も適当な言葉を返した。
妹は寝転がったまま、首だけをこちらに向けて、僕の顔を見た。妹の口にはチュッパチャップスが咥えられていた。
「兄ちゃん、何か今日いいことでもあった?」と妹は僕に訊いた。
「え?なんで?」
僕の声は裏返った。なにこの子の洞察力、怖いんだけど。
「いやなんか、凄いニヤけてるから」
「え、マジで?」
僕は自分の顔をぺたぺたと触ったが、それだけで表情までは伺えない。洗面所の鏡で僕は自分の表情を確かめた。
おお、これは……。砂糖水の中を潜水した後の水泳選手のように、僕の顔は甘ったるく疲れており、表情筋が弛緩しているせいか、全体的に顔のパーツがだらしなくなっている。
僕は両手で頬を持ち上げた。
シェイプアップ。シェイプアップ。
「兄ちゃん、私は知ってるぜ」
僕がシェイプアップに勤しんでいると、リビングから妹の声がした。
「その顔は、恋をしている顔だ!」
何この妹。全盛期の川端康成先生もびっくりするほどの観察眼なのだけど。きっと妹の将来は、優秀な耽美派作家になるに違いない。
「なあ兄ちゃん、そうだろ?ほれほれ、恋のお悩みは可愛い妹に相談してみ?」
「自分で可愛いとか言うなよ。それに、僕は悩んでいない」
片思いの恋では無く付き合っているから、悩んではいないのだ。
僕は鏡で再度自分の顔を見た。そして、さっきより少しは引き締まったその顔を、僕が思いつく限りの
最高のどや顔へと変えた。その表情のまま、僕は妹の方へと向かった。
「なあ可愛い妹よ、聞いて驚くなよ」
「兄ちゃん、何だよそのどや顔は……」
妹は少し戦慄した。
ああ、どやるさ。どこまでもどやってやろうじゃないか。だって兄ちゃんは、
「彼女が出来ました」
僕は大声で言った。リビングに声が響いた。近所迷惑なほどにだ。
「まじ……で?」
妹の口からチュッパチャップスがこぼれて、ソファーにべとりと落ちた。これ後で母さんに怒られるやつだ。
「まじ、大まじです」
「写真見せてよ」
妹は怪訝そうな様子だ。
「いや、今日出会ったばかりだから、写真はまだ撮ってない。だが安心しろ、明日にはラブラブのツー
ショットを撮影し、写真立てに入れて、お前の部屋に飾ってやるよ!」
「いや、人のカップル写真とか飾られても。てか、今日出会ったの!?てことは、祭りで出会ったかん
じ?」
「まあ、そうなるな」
僕がそう言うと、妹はソファの上で、駄々(だだ)をこねるカナブンのように、四肢をどたばたとさせた。
「あーもう、兄ちゃんだけ先にリア充になりやがって羨ましい。リア充爆発しろー。どかーん。てか、今日出会って即付き合うとか兄ちゃんチャラいよー。まさか、告白とかよりも先に、既成事実の方を……」
「いや、それはない」
即答した。
「だよねー。さすがに兄ちゃんに限って、それはないか。でも兄ちゃん、そういう行為は早めに済ませた方がいいと思うぜ。だって兄ちゃん、今の彼女と別れたら一生彼女出来なさそうだし、兄ちゃんの生殖機能が一生無駄になりそうだし」
いや確かに、英蘭と別れたら僕の生殖機能は死滅するがな!まさか妹、そこまで看破して!はさすがにないか。
「安心しろ、三日後には脱チェリーボーイをして、一皮剥けた僕の姿を見せてやるよ」
「いや、見せていらんです」
「それもそうだな」
兄妹の貞操事情とかよく考えなくとも、どうだっていいわ。
「じゃあ、僕はもう寝るから。綿あめ食って、ちゃんと歯磨いて、それからソファーの上も拭いとけよ」
「はいはいはーい。わかったよ」
ああこの返事、絶対わかっていないやつだ。
シャワーは明日の朝浴びることにして、とりあえず寝具に着替えた僕は、ベッドの上に寝転がった。そして、今日のことを振り返った。
僕と英蘭の関係はやはり偽者で、英蘭は僕に恋心を抱いてないだろうし、僕も彼女にまだ深い愛情をそそげない。なのに何故、僕は英蘭と付き合ったことを、あれほど誇らしげに妹に報告したのか。さっきからずっと胸に蟠っている、しこりのようなこの感情は何だろうか。わからない。が、これだけは言える。
これもまた思春期なのだ。そしてこの思いを抱えつつ他者と交友する。
それがきっと、付き合うということなのだろう。
体が疲れていたのか、そんなことを考えているうちにいつしか、僕は深い眠りに落ちていた。