魔女の恋人篇 1話 『祭りの後の 後の祭り』
気がついたとき、僕は冷たい地面の上に横たわっていた。辺りはとても暗い。脳を鷲掴みにされて揺さぶられたような感覚に、僕は吐き気をもよおした。
吐瀉を我慢しつつ、半身を起こした僕は、せめてもの現状確認をしようと、闇の中で周囲を探った。
地面は固い土だ。夏の濃い木々が辺りに生えている。コノハズク、あるいはホトトギスだろうか、木々の内から夜の鳥の鳴き声がする。
暗がりの中に、ひっそりと一人の少女の姿が浮かび上がった。視界が悪くてもわかる。この着物の少女は、間違いなく僕が先ほど助けようとした少女だ。
少女は起き上がった僕に気がついたのか、こちらに向かってきた。少女が僕の手前まで来たとき、ぼんやりとだが彼女の顔を認識できた。やはり端正な顔立ちだ。
「大丈夫?来津くん」
少女は心配そうな顔をしつつ、こちらに手を伸ばしてきた。僕はその手をつかみ、いまだ痺れる頭をもう片方の手で押さえながら、のっそりと起き上がった。
「なんで僕の名前を?」
「なんでって、君、隣のクラスの来津くんでしょ?私だよ私、英蘭伊里栖。もしかして、まだ気が動転しちゃってるかんじ?」
たしかに気は動転しているが、それでも同学年の生徒の名前や容姿を、それもこんな美人のことを僕が忘れるだろうか。否、それはありえない。僕は全校生徒の名前と容姿をすべて把握している。
「まあ、強く頭を殴られたみたいだし、もしかしたら記憶がとんじゃってるのかもね」
この発言に対し、僕はますます英蘭を訝しんだが、彼女は表情一つ変えないで、淡々とした口調で言葉を続ける。
「まあ、一応後で病院に行った方がいいと思うよ?」
「ちょっとまて英蘭。僕が頭を殴られた?誰にだよ」
「ほら、私を取り囲んでた不良グループのうちの一人にだよ。ああそれと、言うのが遅れたけど、ありがとね、助けてくれて」
殴られて、ねえ。僕が殴られたと仮定すれば、なるほどたしかに、視界が歪んだことも腑におちる。だが、
「それじゃあお前は、倒れた僕を担ぎながら、不良から逃げたのか?」
「不良たちは、来津くんが倒れたのを見ておじけついたのかな。逃げていったよ。それで、私が来津くんをここまで運んで来たの」
「そりゃどうも、醜態を晒した上に、とんだ迷惑をかけたな」
「うん大丈夫、気にしてないよ」
「が、英蘭。嘘をつくな」
僕は断言した。英蘭の眉根が僅かにひくついた。鳥が鳴きやんだこともあり、一瞬だが、夜は深い静寂に包まれた。そして僕は、その沈黙を破る。
「いいか英蘭。まず一つ、うちの学校に英蘭伊里栖という名の生徒はいない。そして二つ、仮に僕の記憶がとんだとして、記憶がとぶほどに殴られたやつが、こんなすぐに起き上がれるか?」
英蘭の表情はますます変わるかと思われたが、彼女は意図して平静を保った。
「記憶力に相当の自信があるのね」
「相当じゃない。絶対だ」
そう、僕の記憶力は絶対だ。嬉しいことも悲しいことも、すべてが等しく僕の海馬に、くっきりと残り続ける。
僕の断言に対し、英蘭は困ったような顔をしたが、そのあとすぐ諦めた様子になり、
「まあ、仕方ないか……」
と呟きつつ、彼女はふうと息をはいた。そして、何かを決心した顔でこちらを見た。
「どこから説明しようかな。まあとりあえず、学校のことから――」
彼女の言葉は遮られた。それは、一つの異変によるものだった。
英蘭の十メートルほど後ろの空間が、ぐにゃりと、僕がついさっき見たものと同じように歪んだ。彼女は歪みの方を向いた。口角が僅かに動いていた。
「ごめんね来津くん、後で全部を説明するから。今はちょっと緊急事態なの」
英蘭はそれを言うや否や、異変の方へと振り向いた。
「ここまで追って来たのね、魔女狩り」
英蘭は歪みへ向かってそう言った。僕はただ、彼女の後ろ姿を呆けて見ることしかできなかった。