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ブービートラック戦線

 翌朝、俺はいつもどおりに出社した。事務所に顔を出し、アルコール検査を済ませてから自分のトラックの日常点検を行う。昨日は気付かなかったが、男をはねた車体には損傷が一切なかった。知らぬ間に直ったのか、それとも最初から傷なんて付かなかったのか、いずれにしてもあの女神の仕業には違いなかった。

 俺は全国の荷物が集まるターミナルへと向けて発進した。明け方の星が消え始めた頃、助手席に昨日の女神が現れた。もはや驚く事ではなかった。


「おはようございます」

「おはよう。ずいぶん早い出勤なのね」

「激務ですからね」


 運送業は拘束時間が長い。通常の業務をこなしながら、さらに女神の要求に答えるというのは難しいように思える。俺は今更ながら不安になり、いくつか尋ねてみることにした。


「その……俺が轢くことになる、つまり、転生志望者というのはたくさんいるのでしょうか」

「大勢いるわよ」

「俺は元の仕事がありますし、このトラックも会社のものです。俺が自由に運転できるという時間はなかなか無いのですが、どのように手伝えばいいのでしょう?」


 懐から取り出した手帳のようなものを眺めながら女神は応えた。


「このあたりの転生志望者は把握しているわ。あなたにはいつも通りの仕事をしてもらって、誰かしらが近くにいたら教えるから、そのときに轢いて欲しいの」

「配達の時間が遅れるのは困ってしまうのですが」

「タイミングさえ合えば、一人の転生にかかる時間はたいしたことないわ。通りすがりに轢き逃げして、そのまま配達に戻れば問題ないでしょう」


 なるほど、それなら確かに問題なさそうだ。一瞬そう思ったのだが、人を轢いておいて問題無しとは如何なものかと自問する。そもそも、人の命より配達の時間を気にかけている時点で問題ありと言えるだろう。


 終わりの無い思考の泥沼に嵌まりそうだったので、俺はこの件について考えることをやめた。

 代わりに、女神に聞こうと思っていた最後の質問を口にする。


「目撃者はどうなるのでしょう。昨日女神様も言っていたように、周りに誰もいないという状況はなかなか無いと思うのですが」


 このとき女神は、さも面白いことを聞いたという様子で小さく笑って、それからこう言った。


「心配には及ばないわ。昨日も言ったけど、転生した人はこの世界にいなかったことになるのよ。いない人を目撃することはできないわ」


 いなかったことになる、とはどういうことなのか。気になることはあったが、とりあえず俺は黙ることにした。来るべき時に備えて、俺は心を動かさない準備をした。


 それは思っていたより早く来た。午前の配達中、俺達は営業所へ向かう国道を走っていた。


「二つ先の信号機、ぎりぎりで赤になるけど無視して突っ切って」


 助手席の女神がそう言った。いよいよ仕事で人を轢くということだった。


「どんな人ですか?」


 間違えて他の人を轢いてしまう愚は避けたかったので、俺としては転生志望者の特徴を知りたかった。だがその必要は無かった。


「私を轢くつもりで走ってきて。必ず止まらずに走り抜けて」


 そう言うと女神は助手席からいなくなった。そして件の信号機がある交差点の中、トラックがこのまま直進すればちょうど車体の左側が通る位置に、女神が佇んでいた。

 なるほど、あの女神を轢くように走れということか。

 俺は落ち着いていた。

 前方に車はいない。信号はまだ青だ。俺は交差点を渡りきるつもりで加速した。そして止まりきれない絶妙のタイミングで信号が赤に変わった。女神を目で捕捉し、突っ切る。

 突然右側から男が飛び出してきて、女神を突き飛ばした。

 鈍い音。鋭い衝撃。俺はそのまま走り抜けた。

 


「お疲れ様。すばらしい轢きっぷりだったわ」


 助手席に再び女神が現れたとき、俺は通常の配達業務に戻っていた。

 俺の脳内は人を殺したことに付随する様々な懸念事項で占められていたが、結果としてそれらは全て杞憂に終わった。救急車両のサイレンが聞こえてきたときは肝を冷やしたが、それも一時のことで、すぐに自分とは無関係なものだとわかった。


「首尾よく終わったようでなによりです」


 俺は心からそう言った。


「まだ一人送っただけよ。先は長いわ、がんがん轢いていかないと」


 相変わらず物騒なことを要求する女神だったが、俺は小さくうなずいた。

 信号を待ちながら、俺は疑問を口にした。


「さっきの男はどうして飛び出してきたのでしょう? 俺が突っ込むのはわかっているように見えたのですが」

「私を助けようとしたのよ。彼には私が、トラックに気付いていない小さな女の子に見えていたから」


 言われて助手席のほうを向くと、年端のいかない可愛らしい少女が座っていた。姿かたちは違っていたが、その少女は先ほどまでそこにいた女神と同じ類の美しさを持っていた。つまりあの転生志望者はこの少女を守ろうとして、そして彼はそれを信じたまま、暴走するトラックの前にその身を躍らせこの世との別れを告げたことになる。


「騙したような気分になりますね」


 動き出した道路の流れに乗りながら俺は言った。非難の意を込めたわけではないが、そう聞こえるかもしれないと気付いた。俺は慌てて取り繕おうとしたのだが、女神は気にするようでもなくこう言った。


「別にいいのよ。どうせ生前はなにもできなかった能無しばかりだからね。他人のために自らの危険を顧みず行動できた、ということに大抵の人は満足するわ。それにこっちとしても、人助けのために事故に遭って死んだ、と思わせておいたほうが仕事がしやすいのよ」


 女神曰く、転生を志望する連中というのは基本的にろくでもない人物であり、生きて成せる事も無ければ死んで困ることも無いのだという。随分な言い草だと思ったが、俺にとっては好都合だった。彼らが無価値であればあるほど、俺の人殺しに対するハードルは下がるのだ。

 人殺し、か。

 俺は轢いたときの感覚を思い出す。昨日初めて人を轢いたときのあの途方も無い絶望感に比べれば、今日の俺は幾分落ち着いていた。これは受け入れるべき順応なのだろうか。

 気付けば配達先の事務所に到着しており、俺は日常的思考に無理やり引き戻された。


 その後、俺はさらに二人を轢いた。

 一人は中年の男。もう一人は初老の男だった。当然、俺の胸中には倫理的葛藤があった。しかしそんな俺をあざ笑うかのように世の中は俺に無関心で、俺のことを人殺しだと誹る者は誰一人としていなかった。数をこなしていく度に、俺は人を轢くことに対する心理的抵抗が小さくなるのを感じた。一日の仕事が全て終了し、雲間に隠れがちな月明かりの中一人帰路に着いた頃には、俺は健常な心の安寧を取り戻していた。


 俺は自分に驚いていた。意図的に人を轢くという唾棄すべき行いにこれほど早く慣れてしまうとは思わなかった。昨日はあれほどまで恐ろしく感じていた人殺しという悪行も、いざ自分の身が保障されているとなるとなんとも些末なことに思われた。むしろ俺は、閉塞した現代社会の堅牢な価値観から解放されたことに快感すら覚えていた。昨日から今に至るまで俺の中に漫然と巣食っていた不安と焦燥が、次第に愉悦と興奮へと書き換えられていくのを感じた。


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