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少し、眠ったと思う。
起き上がった俺は、なんとか土手を這い上がり、そのまま歩いて家に向かった。持っていたセカンドバッグは何処かへ行ってしまったが、川に落ちたんだ、仕方がない。明るくなってから、改めて探すしかないだろう。
異変に気が付いたのは、家に帰り着いたときだった。
玄関の鍵を開けられない。ポケットの中に、鍵が無いのだ。
落とした鞄の中へ、入れてあったのだ。
だが、もっと問題なのは、玄関の引き戸にさえ、触れることができないことだった。いくら触ろうとしても、まるで幻のように、手の中をすり抜けていく。
しばらく、そうしているうちに、幻なのは引き戸ではなく、自分の方なのだということに気が付いた。
どうやら、川に落ちた拍子に、体がどうにかなったらしいぞと考え、幻ならばできるだろうと、引き戸を開けずに家の中へ侵入を試みた。
両手を突っ込み、片足を突っ込み、胴体と頭を突っ込んだ。頭が戸を通り抜ける瞬間、さすがに目を瞑ったが、再び目を開けたとき、俺は玄関の中にいた。
玄関では靴を脱いだ。玄関の扉には触れられなくても、身に着けている物には触れることができた。ブルゾンと、ジーパンと、セーターと、靴下と、スニーカー、ヒートテックの上下…。そういえば、酷く濡れていたはずの衣服は、見事に乾いている。ニット帽とネックウォーマーは、泳いでいる最中に何処かへ行ってしまったらしい。
築40年の、親父から受け継いだ我が家は、床板がかなり弱っていたはずだが、俺が歩いても、まったく軋むことがなかった。幻も、悪いことばかりじゃないなと思った。
六畳の居間に入ると、テレビがついていた。こたつがあって、妻の佳織が脚と尻だけそこに突っ込んで、重ねた両手を枕にし、うつ伏せで眠りこけていた。色気のない、グレーのスウェットを着ていた。肩と背中が、酷く寒そうだった。
大方、俺が帰って来るのを待つうちに、眠ってしまったのだろう。いつも、遅くなるから先に寝ておけと言っているのに。
「佳織!そんなかっこうで寝てたら、風邪ひくぞ。寝るんやったら、ちゃんと布団で寝ろ!」
声をかけたが、起きる気配がない。
「佳織!たいがいにせぇ!」
怒鳴っても、やはり、起きる気配がない。
仕方がないので、揺り起こそうと肩に手を伸ばすが、幻である俺の手は、妻の肩に触れることさえできない。
辺りを見回すと、俺の綿入れが畳んで置いてあったので、それをかけてやろうとするが、やはり、綿入れに触れない。
ここに来て、俺はようやく、事の重大さに気が付いた。そして、自分が死んでいることに、薄々気が付き始めた。
妻の肩は冷たかろう。妻の両手は冷たかろう。どうにかしてやりたくて、温めてやりたくて、俺は、何度も何度も、綿入れを掴もうとした。そのたび、手は綿入れをすり抜け、涙があとからあとから、頬を伝って零れ落ちた。そして、畳に落ちる前に、フッと姿を消した。
妻を叩き起こしたのは、早朝に鳴り響いた電話だった。
電話の主は警察だった。正月早々マラソンの練習をしていた物好きな青年が、川岸に引っかかっている俺の死体を見つけたという連絡だった。
佳織は青くなり、スウェットの上にコートだけ羽織って、家を飛び出した。俺も一緒に家を出た。妻が俺の遺体を確認しに行く車の中、俺は助手席に座っていた。
警察署の遺体安置室。佳織は、青白い顔で横たわる俺の体を見て、茫然と床に崩れ落ちた。血の気を失って、死んでいる俺より死人みたいな顔をして、しばらくは涙一つ零さず、そうしていた。