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大家と中の住人の罵り合いは、パチンコ屋の角まで来て、ようやく聞こえなくなった。
「もう少し、ましなとこ無かったんかよ。この分じゃ、明日には火災現場か殺人現場になってるぞ?…今日は、この辺で泊まるところを探すか、元のマンションに帰って休むしかないな」
曽山は、パチンコ屋の角を、地下鉄の駅とは反対に曲がった。
「おいおい、何処行くんや!」。慌てて後を追った。
狭い道の両側は、寂れた商店街になっている。古いビルの一階にクリーニング屋やドラッグストアが入っているが、時間も時間なので、ほとんどがシャッターを下ろしてしまっていて、人通りもチラホラある程度だ。
曽山は、この辺りに土地勘があるのだろうか。何処へ向かっているのか。確かな足取りでその中を歩いて行く。
そうして、しばらく行くと、大きな道路に出た。橋を渡り、さらに一時間ほど歩く。時間と共に、人通りは、どんどん少なくなった。
「電車代を節約してんのか?」
曽山の経済状況は苦しい。
言われるまま離婚届にハンコを押した曽山だが、その後も財産分与や養育費のことなどで、元妻から、再三電話が来ていた。売りに出しているマンションには、まだローンも残っていることだろうし、買い手がつくまでは、当分、余分な支出は抑えなければならない。
「まさか、当てもなく歩いてるんと違うやろな?」
しかし、曽山は歩き続けた。肩にかけた大きなスポーツバッグは、かなり重いはずだ。俺は、ただ、後ろから奴を追う。
やがて周囲のビルが大きくなり、景色はオフィス街の様相を呈す。
街の中に、不自然にとってつけたような木立があり、そこから飛び出したポールの上の時計は、午後十時を指していた。
「それくらいにしとけよ。あんまり無茶をすると、体に響くぞ。俺もお前も、もう若くないんやさかいな」
俺と曽山は同い年。45歳だ。
「この辺りの安いビジネスホテルでもとって、ゆっくり休もう。今、この上風邪なんぞひいた日にゃ、死にたくなるぞ?」
ようやく、曽山が足を止めた。振り返ると、木立の方へ歩いて行く。
そこは、小さな公園になっていた。
公園と言っても遊具などがあるわけではなく、扇形をした敷地の頂点の部分に時計があり、それを囲むように、四分の一の円周上に4つのベンチが配置されている。二番目と三番目のベンチの間、時計の真正面には、水飲み場があった。公園の周囲は、入口を除いて木に囲まれ、ケヤキやイチョウが植えられていた。
この辺りで働くサラリーマンが、弁当などを食べるためにある公園だろう。時間にしばられるサラリーマンのために、昼休みにまで真正面に時計を置いてやるのは、有難いのか、余計なお世話なのか…。
曽山は公園に入ると、水飲み場の右にあるベンチに腰を下ろした。今日、何十回目かのため息をつく。
俺も、隣に座った。公園に、他に人気はない。
「こうなるとよ。何もかも、自分に都合の悪いように回っているような気になってくるよな。実際、新しいアパートに入ろうっていう日に、前の住人が立ち退かずに立てこもってるなんて、そうそうある話や無いけどな」
曽山は空を夜見上げた。高いビルと公園の木に切り取られた都会の空は、街の灯とスモッグのせいで、星はほとんど見えない。月が出ているのか、それすらも定かではない。
木立の向こうを、引っ切り無しに車が通り過ぎていく。ヘッドライトの光がチラチラと目を射て眩しい。どこかで、救急車のサイレンが鳴っていた。
公園の時計は、これでもかというくらい、ゆっくり時間を刻んだ。
暗くてよく分からないが、時計のポールの後ろに、何か大きなゴミのようなものが積んである。
曽山は、思い立ったようにバッグを開くと、そこから毛布を一枚取り出した。まさかと思っていると、そいつを体に被せ、バッグを枕にして、ベンチの上に横になった。
「アホォ!こんな所で寝る気か!」
俺は言ったが、曽山はそのまま毛布を頭まで被って包まってしまった。こんなところで眠るくらいなら、マンションに帰った方が、まだマシだ。フローリングの床は冷たいだろうが、ベンチよりも平らだし、何より、あそこには屋根がある。
そうか…。帰りたくないんだ。
思い出の詰まった、変わり果てたあの場所へは、帰りたくないのだ。幸せの死骸のような、あの場所へは、二度と戻るまいと心に決めて出て来たのだろう。
ホテルに泊まるくらいなら、マンションに帰る。だが、マンションには死んでも帰りたくない。だから、公園で寝る。
むちゃくちゃな理屈だが、人間は理屈ばかりで物を考えられるわけじゃない。気持ちは分からなくもなかった。
曽山は、じきに動かなくなった。眠ってしまったのか。眠ったふりをしているのか。何かに見つからないよう、用心深く隠れているのか。とにかく、毛布から顔を出さなかった。
仕方がないので俺は、水飲み場の向こう側のベンチへ行って、仰向けに寝転がった。ひどい寝心地だ。俺なら、こんなところで眠れるわけがない。




