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 佳織は、布団の上で体を起こしていた。掌を使って、しきりに涙を拭っている。

 午前四時。オレンジ色の常夜灯だけが、部屋の中を薄暗く浮かび上がらせていた。

「純平さん…」。ボソリと呟いた。

 俺は内心、しめたと思った。終に、夢の記憶を残すことができた。

 どうにか、思いを伝えることができたぞ。これで、佳織は、少しは悲しみから解放されるはずだと、そう思った。

 しかし彼女は、両手で顔を覆ってシクシク泣き始めたと思ったら、やがて、枕に顔を埋めて、ワーッと声を上げた。ここ最近で、最も激しい悲しみ様だった。


 それを最後に、俺は回数券を使うのをやめた。初めて使ったときには、まったく足りないと思っていた券は、結局二枚も余ってしまった。最初に使った日から、一週間しか経っていなかった。

 それから二週間の間、俺は夢枕に立つことも、誰かに取り憑くこともなく、ほとんどの時間を書斎の中で、抜け殻のように過ごした。

 こうして、この世に絶望してしまえば、成仏するのも気が楽というものだ。そんな哲学の出来損ないみたいなことを、延々考えていたような気がする。

 そしてある日、二枚目のハガキが来た。連絡が来るとしたら、同じようにハガキで来るだろうと予想していたから、俺は毎日注意深く、郵便受けをチェックしていたのだ。

『お迎えの日時が決定いたしましたので、ご連絡申し上げます。

 4 月 15 日、午後 3 時頃お迎えに上がりますので、自宅にてお待ちください』

 日時の部分が、ボールペンの手書きになっていた。

 とうとう来たか。

 指定の日まで、もう二日しかなかった。

 考えてみれば、幸せな三ケ月間であったように思えた。もし、あのテレビのコメンテーターの言うことが正しかったとしたら、俺は橋から落ちた日に、存在自体が消えてしまっていたのだ。

 僅かな期間でも、こうして心の準備をするために使えたのは、なんと恵まれたことか。

 惜しむらくは、家族の悲しみを取り除いてやれなかったこと。そして、長男、春人の行く末が心配なことだ。

 だが、死者として生活したこの三か月で、自分には、もう、それらを解決する術のないことが、身にしみて分かっていた。この世のことは、生きている者たちに任せよう。俺はやはり、死んでしまったのだ。死んだ者はジタバタせず、ただ去るのだ。

 去る。絶望と共に。

 ……。

 いいのか?それで。

 この世の最後が、絶望であっても良いのか?!

 四十三年生きて来た、俺の人生の集大成が絶望であって良いはずがない!

家族のことは、もう、どうにもならないかもしれない。だが、時間さえかければ、俺はこの人生の最後に、幸福を導き出すことができるかもしれないのだ。

 ならば、成仏している場合ではない。

『原則として、成仏の拒否は認められへん。応じへん場合は、強制送致になることも、あるんやで』

 市役所のおばちゃんが言った台詞が、思い出された。確か、警察が動くとも言っていた。

 上等やないか。

 だったら、捕まるまで逃げてやる。どうせ死んだ身だ。この上、死刑にされることもなかろう。

 そして、俺は家を出た。

 最後に、夕食を作る妻の背中を見た。一人ぼっちの台所で料理する彼女は、すごく頼りなさげに見えた。

 一家の大黒柱(自分で言うのも恥ずかしいが)を無くした家族を、このまま残して行くのは、心配だったが、いたところで、どうにもならない。悔やむならば死んだことを悔やむべきであるが、悔やんだところで、どうにもならない。

 生きている者のために何もできないのなら、自分のために何かしよう。それが、俺の出した結論だった。

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