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夕日が赤く部屋を染めていた。
所々傷ついたフローリングと、手垢で汚れた壁紙。家具も何も一切無くなってしまった殺風景な部屋を、なおさら寂しく浮き上がらせていた。
西方浄土と言って、夕日が沈む方角には、極楽世界があるという。人間界から十万憶の仏土(仏土って何だろう?)を隔てたところにあると、昔、近所の寺の住職が言っていた。
残念ながら、現代科学では、地球は丸いことが証明されていて、いくら西に行っても地球をグルグル回るだけで、極楽には辿りつけないことが分かっている。
もっとも、この部屋は8階にあって、そこにあるガラスの嵌ったサッシを開き、ベランダを一跨ぎするだけで、ほぼ確実に極楽世界に行き着くことができるのだが…。
曽山誠は、夕日に背を向けて、部屋の真ん中にポツンと座っていた。太い眉の下にある切れ長の目が、宙を見据えている。影が、長く壁まで伸びていた。
気の毒な奴だ。ほんの二か月前までは一流商社の課長の座に着いていたのに、会社の経営不振でリストラされてしまった。おまけに、女房が十歳になる一人娘を連れて家を出て行った。泣きっ面に蜂というやつだ。
まぁ、正直、気に入らない。いや、曽山の嫁のことだ。
だが、曽山の嫁にも、言い分はある。
曽山は、昔から真面目すぎるところがある奴だったが、俺が奴と連絡をとらない十年ほどの間に、根っからの仕事人間になってしまっていた。深夜までの残業、休日出勤は当たり前。家にいることなどほとんどない曽山の家庭環境は、お世辞にも温かいとは言えなかった。
だから、失職は離婚のきっかけに過ぎなかったとも言える。
「まぁ、そう気を落とすなよ。クビになったからていうて、人生が終わったわけやない。それにほら、もう、こんな時間や。そろそろ出た方がええん違うか?」
曽山は時計を見上げた。時計のあった場所は日に焼けておらず、丸く跡が残っている。視線を戻すと、鼻でため息をついて、ポケットから携帯電話を取り出した。
時間を確認して、もう一度ため息をつき、曽山は立ち上がった。リビングから玄関に出ると、そこに置いてあった大型のスポーツバッグを肩にかけた。
部屋にあった家具や生活用品の多くは、別れた奥さんが持って行った。曽山の私物はほとんどなく、あっても、これから一人暮らしに使うのには不向きなものばかりで、たいていはリサイクルショップに売り払ってしまった。残ったのは、このスポーツバッグと、大き目のダンボール二つだけ。もちろん、引っ越し屋に依頼するまでもなく、ついさっき宅配便業者が引き取りに来ていた。
俺が先に廊下に出ていると、サムターンを回す音が二つ聞こえて、曽山が出て来た。手に持った鍵で、すぐにまた、鍵をかける。
エレベーターで一階まで降り、曽山の名前が剥がされた郵便受けのあるエントランスから、外に出た。
春だ。
街路樹に、新しい若葉が芽吹いている。今日の昼過ぎまでは、何日も雨が降り続いていて、三時頃になってようやく青空が拝めたと思ったら、こんな綺麗な夕焼けになった。
風が強い。暖かくなってきた春の風が、マンション前の通りを吹き抜けて行った。
暗くなり始めた道路は、下校途中の学生や夕食の買い物を済ませたおばさんたちでいっぱいだ。
長袖のラガーシャツにジーパンといった出で立ちの曽山は、人の多い道でも立ち止まることなく、背筋を伸ばして颯爽と歩き抜ける。その姿は、一級のビジネスマンであった頃を彷彿とさせた。
マンションを退去したからには、十年暮らしたこの界隈にやって来ることは、もう無いかもしれないが、そんな感傷は微塵も感じさせない。ペースが速いので、田舎者の俺は、ついて行くのがやっとだった。
そうして、地下鉄へ続く階段を降り、電車を使って数駅。乗り換えて、また数駅。目的地までやって来た。
地下に潜っていたのは、ほんの数十分の間だったが、地上に出ると辺りは既に暗く、町の灯が強いので、なおさら空は暗く、濁っていた。
マンションのあった所と違い、あまり感じの良い街ではない。パチンコ屋の角を曲がると、薄汚いコンクリートの雑居ビルに挟まれて、築三十年にはなるだろう、二階建ての木造アパートが顔を出した。塀などはなく、コンクリートの板で蓋をされた側溝の向こうがその敷地らしい。バラスが敷かれた地面はところどころ土が覗いていて、そこから雑草が生えている。二階へ続く外階段の上り口に、赤いタイルを加工した、やたら立派な看板が張り付けてあった。
『la fortuna Takahashi ラ・フォルトゥーナ高橋』
スペイン語だろうか。意味は分からないが、名前負けするにもほどがある。
俺は、腕を組んでアパートを眺め、なんだか運命的なものを感じた。大学時代、俺たちが溜まり場として使っていたアパートに、よく似ている気がしたのだ。
「なんとなく、昔を思い出すなぁ。曽山」
曽山は、アパートの手前で一度立ち止まったが、やがて、意を決したように歩を進めた。