ナイフにご用心1
春の香りがさわやかに感じられるころ、今日から、私は中学校の教諭として働くことになった。けたたましい音の目覚まし時計を止めると、あくびをしながら体を起こした。
とうとう今日から、学校の先生なんだ。一体、どんな生徒たちが私を待ってくれているんだろう。不安もあるけれど、期待の方が大きかった。
朝食は、しっかりと食べなくては。腹が減っては戦はできぬ。生徒たちにしっかりと教えてやれなくなってしまう。ご飯を味噌汁で流し込みながらあわただしく朝食を食べる。
「生徒になめられたりしてね」
「まさか。私の生徒が私のことをなめたりするわけないでしょう。副担任の若い女の先生をなめたりするかしらね」
妹の彩香に変なことを朝から言われて、ちょっと熱くなってしまった。
「そうかなぁ。ま、頑張ってね」
お気楽極楽な感じの言い方だ。妹は、まだ学生だから、仕方がないのかもしれない。
「じゃ、いってきまーっす!」
私は、元気よく家を出た。夢と希望に満ち溢れた教員生活を満喫させるんだ!という気合に満ち溢れている。
今日から、新しい生活が始まる。中学生の時からの夢だった中学校の教員としての生活がいよいよ始まるんだ。教育実習のときは、すごく楽しかった。生徒たちと仲良く学校生活が送れたんだ。すごく短い間だけど。今日から、また、学校生活が始まるんだ。
学校に着き、私は自分が副担任をやるクラスの先生を紹介された。その先生は、お兄さんが教育委員会で働いていて、親は、文部省に勤めていたという筋金入りの教育一家の人間だった。名前は、小林健太郎。学校では、保健体育を教えている。
見た目は、頑固そうで強面と言ったところだ。青春ドラマの鬼教師がテレビから飛び出てきた感じだ。
これが、この学校のやり方なんだろうか?新人の教師には、こういう恐そうな先生とパートナーをわざと組んで、ビシバシと鍛えぬこうとでもしてるのか?それは、さすがに私の考えすぎかもしれない。
「先生、生徒になめられないでくださいよ!」
私が自分の席の前で、小林先生の顔をじっと見ていると、小林先生から発破をかけられた。
「はい、頑張ります!」
恐怖心も手伝って、私は大きな声で答えてしまった。
始業のチャイムが鳴ると、小林先生の後について職員室を出た。廊下を歩いている時も、小林先生は特に何も話してはくれなかった。新人の教師に対してアドバイスがあると思ったのだが、小林先生はずんずんと歩いて行ってしまう。私の心臓の鼓動は高鳴り、教室のドアの前で深呼吸をひとつした。
小林先生は、私の心臓など気にすることなく、教室のドアを開いた。私は、小林先生のあとについて、中に入った。中に入ったのはいいのだが…、私が教育実習のときに行った学校とは大違いだった。あの学校が良い学校だったのか。それともここの学校が野放し状態にされているのかはわからないけれども、とにもかくにもここの生徒は、あまりにもうるさすぎる。
男子も女子も先生が入ってきたことに気が付いていないのか、おしゃべりを続けている。教室を走り回る生徒も数人いる。これが、学級崩壊というものなのだろうか。私は、茫然と教室を見回してみた。
小林先生が教壇に立ち、生徒たちに向かって言った。
「コラ!静かにしろ!」
背筋がピンと伸びそうなおなかに響く声で小林先生は言った。このうるさい若葉台中学校の生徒たちだって、この強面の先生を前にしたら、一瞬でおとなしくなるはず。
「では、出席を取るぞ。」
小林先生は出席簿を開いたが、教室は全く静かにはなっていなかった。
「小林先生、まだ、教室内がざわついていますけど…。」
「俺に口出しするなっ!」
なぜか、生徒ではなく私の方が怒られてしまった。
「はい!」
恐ろしくて、またも私は小林先生の言いなりになってしまった。その勢いを生徒たちにぶつけるべきだと思うのだが、小林先生は生徒たちにはかなり甘いらしい。生徒の名前を呼ぶことなく、全員出席にしてしまったのだ。教室を見回してみると、全員がそろっているとは思えないのだが。
そんなことを考えていると、突然、後ろのドアが開いた。一人、遅刻してきた生徒が入ってきた。
きっと注意をするだろうと、小林先生を見ていたのだが、小林先生は後方のドアを気にすることなく、今入ってきた生徒に目もくれなかった。
「えー、今日からこのクラスの副担任をやることになった田辺陽子先生だ。」
淡々とした口調で、小林先生はこちらを全く見ていない生徒たちに向って私の紹介を始めた。
「では、田辺先生、挨拶をどうぞ。」
そう言って、小林先生は私を教壇に立たせてしまった。
挨拶も大事ではあるが、私はひとつ唾を飲み込み、言いたいことを言うことにした。
「えっと、挨拶の前に一つ言いたいことがあります。遅刻をしてきた人が一人いますねぇ?正直に言ってください。」
小林先生が、私の上着の袖を持って、小さな声で言った。
「先生、そんなことはどうでも良いじゃないですか。早く挨拶を済まして、授業に入りましょう。」
筋金入りの教育一家に育った人間とは思えぬ発言を小林先生はした。肩書だけを見て、私はどんなに素晴らしい先生だろうと一瞬でも思っていたというのに、その思いはすぐに崩れ去って行った。
「しかし、こういうことは、今からちゃんとしておかないとろくな大人になりませんよ!」
「し、しかし…。」
私は、小林先生の制止を振り切って続けた。
「遅刻をしてきた生徒は、あなたでしょう?」
そう言って、私は、その生徒の前に行った。さすがに、この時は教室も静かになってきた。
「あなた、遅刻してきたでしょう?さっき、後ろのドアから入ってくるのをちゃんと見たんだから。名前は?何ていうの?」
私は、生徒に向って強く言ってみた。今の子供は、注意をされてもすぐに反省するとは限らず、中途半端に注意するとかえって、向こうが強気に出てくることもあるからだ。
「そんなの、あんたには関係ないだろう。さっさと授業でもはじめれば良いじゃねーか。」
早川君――座席表で調べた――は、反省の色もなく、しかも、私と目を合わせないでそう言った。
なんて態度だろう。教師に向って、反抗している。早川君は、椅子に浅く腰をかけ、足を大きく開き、威圧的な態度を取っている。
「あんたじゃないでしょう!先生って言いなさい。私は、田辺。さっき、小林先生が言ってたのよ。その時には、早川君だって、この教室にいたでしょう?もう二度と遅刻なんてしちゃだめよ。ちゃんと、遅刻ってつけておくから。」
「少しくらいいいじゃんかよーっ!」
「よくないから、つけるの!つけて欲しくなかったら、遅刻しないことね。」
そう言って、私は教壇に戻り、出席簿の早川君のところに遅刻ってつけようとすると…。
「わーっ!」
突然、教室中がどよめいた。何事かと思い、声のほうを見ると、早川君が私に向かってサバイバルナイフを向けていた。私を刺そうとしている。早川君は、血相を変えて私に向かってきている。
「うわー!」
他の教室にも聞こえるくらい大きな声を上げながら、早川君が教団にいる私にサバイバルナイフを向けてきた。