見える世界の全て
相沢は所謂『見える』人だった。物心ついた時には人ではない、人ならざる者が『見えて』いた。見える世界が当たり前だった。
相沢が小学校に入学したあたりの頃。世間にとってはとても小さな、相沢にとってはとても大きな事件が起きた。
小学校低学年のうちは児童センターに親が迎えに来るのを待っていなくてはいけない。この学区では度々行方不明になる小学生がいるのだ。そのほとんどは数ヶ月後にふらりと姿を現すのだが。
相沢は一人で砂山を作っていた。小さな手で砂を集めて固める。少女の爪の間には砂が入っていた。
「一緒に作っていーい?」
黄色い帽子をかぶった女の子が相沢に声をかける。女の子の両手には子供用のシャベルが二つ握られていた。恐らく、一つは相沢のために持ってきてくれたのだろう。
「一緒に作らないし二度と話しかけないで」
相沢はハリのある凜とした声で女の子に言い放つ。幼稚園児とは思えない睨みをきかせ立ち上がり砂を払う。
女の子は目に涙を貯める。そんな女の子にトドメを刺すように相沢は「ジャマ」と一言言い、フンと鼻を鳴らし水道へと歩き出した。
とうとう堪え切れなくなり女の子は大きな声で泣き始める。ボロボロと大粒の涙が溢れている。気付いた先生が女の子を抱きかかえあやす。
小学校にも児童センターにも相沢の友達はいない。見えてはいけないのが見えるというのも理由の一つかもしれないが相沢の性格の問題だろう。先生にさえ懐かず、まさに一匹狼だった。
バカみたいに泣いて。
相沢は冷たい水で手を洗いながら泣いていた女の子を思い出す。茶色く濁った水が排水溝へと渦を描いて流れる。少女は水を止め、手をブラブラさせ水気を切る。ポケットから桜の刺繍が施されているハンカチで丁寧に手を拭いた。
「……誰?」
相沢の目の前にはいつの間にかヒトが立っていた。音も立てずに現れたヒトに少女は少しだけ肩を震わせ眉を寄せる。
腰元まで伸びている落ち着いた茶色の髪。日に当たる度にキラキラと輝いて見える。髪の色と同じ色をしている瞳には光を感じられなかった。
「誰でしょーね」
薄い唇から透き通るような声が紡がれる。目を細めフッと口元を緩め相沢に近づく。少女は逃げようとした。このヒトは見えちゃいけない側のヒトだ。しかし、足が動いてくれない。
「他人に名前を聞くときは自分から名乗るもんだよ、童」
怯えている相沢の頭をそっと撫で視線を合わせるようにしてしゃがむ。
「……相沢。相沢久実」
少女はゆっくりと自分の名前を口にする。そのヒトの顔色を伺うように上目で見る。
「あたしは景。よろしくな童」
景の手は酷く冷たかった。再度、こちら側の人間ではないと思い知らされる。手の冷たさに背筋がぞくりと震えた。
「名前、童じゃない」
相沢が言い返したのが意外だったのか、景は目を見開き、小さく笑う。漆器のように光沢のある髪が風に吹かれはらりと宙を舞う。少女はその髪に心を惹かれた。
夕暮れになり次々と迎えに来る親。相沢の迎えはまだ来ていなかった。子供の少なくなるこの時間が相沢は好きだ。騒がしいセンターは静かになり、やっと落ち着ける。
木製のブランコに腰掛ける。相沢の背では足が地面につかない。最初は頑張って足先を伸ばしていたがもうそんな事はしない。ブランコに乗り、遊具を見渡す。夕暮れに染まったセンターは昼間とは違う顔を見せていた。
ふと、背中を誰かに押される。トンとした軽い衝撃でブランコが前に動く。風をかき分けるようにして動く。
「これはこうやって遊ぶもんだ」
背中を押してくれたのは景だった。綺麗な髪は夕日に染まりどこか切ない。心なしか笑った顔も切なく見える。
「遊び方くらい知ってるわ」
少女は軽く頬を染め足元を見た。キュッと薄汚れた紐を握る。景は何も言わずに押してくれた。軽く、ゆっくりとだったが少女はそれが嬉しかった。
少女の親が迎えに来たのはうっすらと月が見え始めた頃だった。母と手をつなぎ、帰路に着く。
「ねえ、お母さん」
「ん、なぁに?」
母は柔らかく微笑み少女の事を見る。少女の顔はとても嬉しそうに頰を緩めていた。
「今日ね、ブランコに乗ったの」
景に押してもらったブランコを思い出し少女はまた、頬を緩めた。
児童センターはいつもと変わらずうるさかった。相沢は目をしょぼしょぼさせ小さなあくびをかみ殺す。外では遊ばず、部屋の中で積み木をしていた。色とりどりのパーツを使って作っていく。大きなお城を作ろう。
「こういう日は外で遊ぶもんだぞ童」
澄んだ声が聞こえる。少女はハッとして後ろを振り向く。そこには昨日と変わらぬ姿の景がいた。
「……室内は土足ダメだけど」
景が来てくれたことが少女は純粋に嬉しかった。頰は緩み、自然と声が弾む。景も嬉しそうに笑っていた。
無言のまま積み木を組み合わせていく。二人の間にはチグハグとした積み木の山。恐らく、これが少女の言っていたお城なのだろう。思い描いたのとは違うのか少し不満気だった。
相沢は景を見つめる。景は不思議そうに少女を見て笑う。彼女の口から控えめな八重歯がのぞいた。獣のように鋭い八重歯だった。
相沢は積み上げた積み木を崩す。派手な音をたてて落下し、跡形もなくなった。崩れた積み木をじっと見つめる。その表情からは何を考えているのか読み取れなかった。
景はそんな相沢を見つめる。彼女も何を考えているのかわからない。酷く思いつめた顔をしていた。
景はいつも児童センターにいた。帰る時になると悲しそうに笑い、少女を見送る。決して、付いてくることはなかった。少女はそれが不思議だった。
今まで見てきた妖怪や幽霊は見える相沢が珍しいのかついてこようとしてきた。
危ない目にもたくさんあった。その度に年老いた猫が視界に映る。猫に気を取られていると妖怪たちは消えていた。そして猫を探すといつの間にかいなくなっていた。
相沢はその猫にお礼を言いたかったがどこの家の猫なのか、それとも野良なのかは一切わからなかった。
「景は幽霊なの?」
相沢は思い切って彼女に聞く。景は驚いたように目を丸くし、曖昧に笑った。
「……死んではないよ」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ景は空を見上げる。鉛の空は今にも雨が降ってきそうだ。少女も景のように空を見上げる。
「童、知ってはいけない」
小さな呟きは風にかき消される。相沢に、その呟きは届かなかった。
景は髪を抑え、耳にかけた。左耳についているピアスを見つけ、相沢は感嘆の声を上げる。不思議な輝きを放つ赤い石に少女は魅了された。
小さく笑い景は相沢によく見えるようにしゃがむ。近くで見るとキラリと石は鈍く光る。
「触ってもいい?」
少女の問いに小さく景は頷いた。相沢はゆっくりと赤い石に手を伸ばす。ひんやりとしている石はとても不思議な感じがした。初めて触る質感に少女は更に感嘆の声を上げる。
「そんなに気に入ったか?」
柔らかく微笑み景は立ち上がる。自身のピアスを撫でるようにして触った。少女は控えめに小さく頷く。
いつもの大人びた少女はどこにもいなく、どこにでもいるような少女がピアスを見つめていた。
「もう少し大きくなったらあげるよ」
景がそう言うと相沢は目を輝かせ、嬉しそうに頰を緩める。年相応の笑顔に景の頰も自然と緩んだ。
猫は夕暮れの中大人しく体を丸めている。黒に近い茶色の毛並みはとても綺麗だ。しかし白毛が混じっているところからかなりの年寄りだと考えられた。
重そうなまぶたをゆっくりと開く。猫の前には誰もいない校庭が広がっていた。午後の喧騒はどこにもなく妙な寂しさを感じる。
猫は一声、小さく鳴く。そして静かに目を閉じた。猫の尻尾が揺れる。不思議なことに尻尾は二つに別れていた。
その日はまさに晴天だった。夕焼けの空には雲一つない。
相沢はいつも通り児童センターで景と過ごしていた。もうすぐ親が迎えに来る。何を話すでもなく二人は砂場にいた。砂場で湿った土を使い、小さな泥だんごを作る。表面のでこぼこを無くすように優しく撫でながら形を整える。景は真剣な表情で泥だんごを作る少女を優しげな眼差しで見つめていた。
「童、楽しいか?」
柔らかく、切ない声色で問う。とても苦しそうに笑っていた。
「まあ、最近は楽しいかな」
気恥ずかしそうに目を逸らし頰をかく。泥だらけの手で触ったため少女の頬に泥がついた。くすくすと小さく笑い、景は少女の頬に手を伸ばす。ピクリと一瞬体が強張ったが優しい手つきに少女は受け入れた。ひんやりと冷たい手は生気を感じられない。こちら側の人間じゃないからかもしれないが。
「なら、良かった」
消え入りそうな声は相沢には届かなかった。少女は不思議そうに見つめ小さく笑う。そして立ち上がった。
「明日さ、一緒にお出かけしない?」
少女の提案に景は驚く。しかし、期待に満ちた瞳の前で「いや」とは言えない。
「……そうだな」
少女とは目を合わせない。彼女はどこか遠くの方を見ていた。
橙色の太陽が二人を照らす。少女の小さな影。彼女の細い影。その影からは二又の尻尾のようなものが映っていた。景の影は揺らぎ、二又の尻尾は消える。心なしか影が薄くなっているような気がした。
少女は張り切っていた。初めて一緒にお出かけできる友達ができたのだ。母に買ってもらった赤い花の飾りがついたピン。少女の黒い髪によく映えた。鏡の前でピンを誇らしげに眺める。真新しいピンは輝いているような気がした。
意気揚々と幼稚園に向かう。景との待ち合わせ場所は小学校の前。もう来ているかな。それともまだなのかな。ドキドキと胸がはやる。それを抑えつけ小学校まで急いだ。
小学校の前には景が既に立っていた。少女を見つけると小さく笑いゆっくりとした足取りで近づく。相沢も駆け寄り歯を見せて笑いかけた。
「おはよう」
景も微笑みながら少女と視線を合わせるべくしゃがむ。
「おはよう、童」
その優しげな瞳はどこかに消えてしまいそうな儚さがあった。少女は一瞬、考える。
景がどこかに行っちゃうんじゃ。
「ほら、どこかに行くんだろう?」
そんな考えを振り払うような明るい景の声。いつものように笑う景にホッとし頷く。先程の考えなど忘れていた。
少女達は住宅街を歩く。はたから見れば一人で歩いているように見えるだろう。
どこに行くんだ?
ふふ、秘密。
教えてくれてもいいじゃないか。
着いてからのお楽しみ。
それじゃあ楽しみにしていようか。
ここを右に曲がるんだよ。
左に行くと何があるんだ?
そっちに行くと大きな樹があるの。
機会があれば行ってみたいかもな。
少女が連れてきた場所は古びたお寺だった。表札の文字は薄れて読みにくいがかろうじて『伊井東寺』と読めた。
趣きの感じられる寺の中に入っていく。枯れて散った葉が下に落ちる。その上を踏みしめ歩く。
「これはまた随分古い寺だな……」
景はぐるりと辺りを見渡す。人の気配はない。ここには二人しかいないのかもしれない。
「静かで落ち着くでしょ?」
本堂へと続く階段に腰をかける。木造の階段に負荷がかかり、ミシッと音をたてる。景は階段には座らず柱に背中を預けた。
「ああ、静かだな」
ふわりと風が吹き抜け、艶のある髪をさらう。太陽にキラキラと反射し輝いて見えた。
「……何やってんの」
突如、後ろから聞こえた少年の声。ハッとして少女は振り返る。本堂の中から目の細い少年が出てきた。左手には黄ばんだ細長い紙を握っている。何やら書かれていたが解読できなかった。
「ああ、お客さん? 悪いけど見ての通りやってねーから来るだけムダだぜ」
おどけたように肩をすくめて目を伏せる。自嘲的に聞こえる声色に相沢は思わず眉をひそめた。
「そっちのおばさんは祓ってもらいに?」
ケラケラと笑いながら少年が言うと景はキッと睨みつける。「おお、怖い」とおどけてみせる。ほんの少し手に握られた紙が動いた。
「あんた、何の用なのよ」
立ち上がり少年を鋭く睨む。語気を強め言い放つ。少年は全く気にせず景との距離を詰めた。
「見た感じお前、ね──」
少年の言葉を遮るように景は少年に向かって指を指した。先の尖った爪は鼻先で止まる。
相沢はいつもと違う景に戸惑う。チラリと見ると瞳孔が開いている。敵意剥き出しだ。
「……童、行こう」
柔らかい声色とは裏腹に鋭い瞳。相沢は小さく頷き背を向け歩き出す。景もその後に続いて正門をくぐった。
少年はその後ろ姿を見つめる。手に持っていた紙をくしゃりと握り潰す。しばらくその場で二人が去った正門を見ていた。
「童、すまんな」
寺を出てからしばらく無言で歩く。ポツリと景は呟く。少し元気のない様子に相沢は明るく振舞おうと首を横に振る。その様子を見て小さく笑った。
あたりが闇に包まれる。先程までの明るさはない。不安になるような闇に少女は景の袖を軽く引く。その手は微かに震えていた。
「美味そうだなァ……」
気味の悪い舌舐めずりの音が闇に響く。ヒタリ、ヒタリと足音が聞こえる。背筋が凍るような嫌な寒気。
闇の中からニュッと姿を現したのはボサボサの長い髪の女だった。その目は狂気に染まり闇の中で妖しく輝く。紅をつけているような真っ赤な唇はとても大きい。後頭部にも同じように真っ赤な唇がある。僅かに開いた口からは歯が覗いている。
「……『二口』何をしに来た」
景は少女を庇うようにして前に立ちはだかる。二口と呼ばれた女はぞくりとするような笑みを浮かべ一歩、また一歩と近づく。
「何ってお前馬鹿だねェ。食べるんだよ」
ケラケラと口元に手を当て笑う。その声はとても冷たく乾いていた。
「童、今から言う事をよく聞くんだ」
景は少女の方を向かずまくしたてるように言う。少女は小さく頷く。
「さっきの寺に行ってあの目付きの悪いガキに助けてもらってくれ」
少女が質問しようと口を開くが景にトン、と肩を押される。
「さあ、はやく!」
その声を合図に少女は走り出した。背後からは何やらおぞましい音が聞こえる。決して振り返らず寺へと急いだ。
少女が去ると景はフゥと息を吐き出す。人間の姿から毛並みの良い猫の姿へと変わっていく。尻尾は二つに別れていた。
「あァ。お前猫又か」
妙に納得した表情で猫に近づく。一声鳴くと二口の栄養の行き届いていない髪に火がついた。悲鳴をあげ、消そうとするが消える気配はない。
「私が何年生きたと思っている?」
ニヤリと笑いまた一声鳴く。すると今度は二口の着物の袖に火がついた。
「調子に乗って……!」
イライラとして二口は猫の首を掴み、燃えている部分に押し当てた。毛の焼ける匂いがあたりに漂う。鈍い声と共に火は徐々に消える。ぐったりとした猫を二口はそこらに放り投げた。
地面に叩きつけられる。骨が軋む音がした。
「猫風情が粋がってんじゃないよ」
ペッと唾を地面に吐き捨てる。猫はそれを眩む視界の中で見ていた。
つまらなそうだな。
尾が二つに別れた猫はそんな事を考えながら少女を見ていた。友達がいないのか少女はいつも一人。
そして少女はこちら側のモノが見えている。それを見るたびに怯えていた。
猫にはそれが面白くてたまらなかった。
他の妖怪や幽霊に襲われそうになった時には助けてあげていた。楽しみがなくなってしまうから。本当にそれだけだった。
強い妖怪に襲われて死にかけていた時だった。
少女は水色のスモックを着てチューリップの形をした名札をつけて心配そうに横たわる猫を見ていた。
はやく何処かに行ってくれ。
そんな事を思いながら精一杯の威嚇をする。既に力はなく、威嚇したもののふらりとよろけた。
「我慢してね」
少女は柔らかく微笑み猫を抱き抱える。少女の細い腕が傷に当たり猫は思わず毛を逆立たせる。そんな事に構わず少女は走り出す。どんなに暴れても話してくれなかった。
少女に連れてこられたのは小さな動物病院だった。控え目な看板に『犬猫病院』とありきたりな名前が書いてある。そこの扉を開け中に入る。
冷房の効いた部屋は傷に滲み、痛かった。
「すいません! 怪我した猫がいるんです!」
声を張り上げて少女は訴える。奥から看護師がきてすぐに猫を抱きかかえ、診察室に入る。少女も不安そうな顔をしてついてきた。
「もう、大丈夫……」
猫にそう言っていたが自分自身に言い聞かせているようだった。
その後、治療され猫は一命を取り留めた。院長がお金はいらないと言ってくれたが少女は自分のなけなしのお小遣いを渡し、お礼を言った。
「怪我しないようにね」
少女は猫の頭を撫で、そっと地面に下ろす。猫は一回振り返り少女の顔を見る。
ありがとう。
猫は一声鳴き走り出した。少女に抱えられていたと思うと思わず可笑しくなる。今まで守ってあげていた少女に助けられるなんて。遠目では見たことの無い優しい笑みだった。猫はその笑顔が忘れられないでいた。
月日が流れ少女が小学校に上がった。赤いランドセルがよく似合っている。そして少女は変わらず一人だ。
こんな姿じゃなければ話しかけられるのに。
猫は意識を集中させる。ゆっくりと目を閉じた。ふわりと体が浮く感覚。
再び目を開けると猫から女性の姿へと変わっていた。手のひらにはピンク色の肉球はない。
「あ、あー」
声を出すと凛とした女の声。
ああ、人間だ。
猫、いや彼女は走り出した。どうやら人には見えていない。しかし少女には見えるだろう。淡い期待を持ち、ゆっくりと少女に近づく。
「……誰?」
「た、助けてっ! 助けて!」
相沢は先程訪れた寺に駆け込む。騒ぎを聞きつけて目付きの悪い少年があくびをしながらのそのそと出てくる。先程の少女だとわかると眉をひそめて腕を組む。指先でトントンとリズムを刻む。
「なに。さっきのおばさんにやられた?」
苛立ちを隠そうともせず相沢を睨み小刻みに指をトントンと叩く。段々と速くなっていた。
「違うの! 景が、景が!」
少年を掴みかかる勢いで飛びつく。目に涙を溜めている。少年は「待って」と言い本堂の奥に行く。戻ってきた少年の手には何枚もの紙が握られている。
「はやく行かねーと」
ジャンプして階段を飛び降りる。思ったより高かったのか足がビリビリとしているらしい。うずくまり足先を抑えている。相沢ははぁ、とため息をつき走り出した。
少女は目を疑った。先程の場所には一匹の猫が横たわっている。その猫の前で満足げにニタニタと笑っている二口がいた。
「なんだ、わざわざ戻ってきてくれたのかい?」
二口は相沢に気がつくとゆらりと立ち上がり少女に向き直る。しかし、少年が立ちふさがる。
「悪りぃけど眠ってもらうぜ」
ハラリと少年の手から黄ばんだ紙が放たれる。地に落ちることなくぐるりと少年を囲んだ。思わず呆気に取られる。
「爆ぜろ」
短く言い放つ。少年を囲んでいた紙はふわりと舞い上がり二口に向かう。紙はぺたりと張り付き眩い閃光を放った。
目の前が真っ白になる。唸るような悲鳴が聞こえた。
視界がはっきりとしてくる。先程までいたおぞましい二口は何処にもいなかった。
少女はよろよろと立ち上がり尾が別れた猫に近づく。猫の意識は今にも飛びそうだ。ヒュー、ヒューと苦しそうな息遣いが聞こえる。
「景、聞こえる? 私よ」
どんなに呼びかけても返事はない。ポトリと何かが落ちた。赤く光る石がついたピアスだ。
「にゃあ……」
猫は笑った。そしてまぶたを閉じる。それきり猫は動かなかった。
すうっと猫の姿が薄くなる。少女は泣きもせずただ抱きしめていた。逃さないようにギュッと。
「……死んだよ、そいつ」
少年は静かに淡白に言う。細い目から悲しげな瞳が覗く。少女は聞こえていないのか返事をしない。そんな様子の少女に少年は指先で小刻みにリズムを刻んだ。
「なんで、こうなるの」
少女は腕の中から消えた温もりを抱きしめる。少年は静かに見つめた。
「それじゃ、俺は行くわ」
背を向け歩き出す。しはその後ろ姿を呼び止めた。気怠そうに振り向く。
「さっきの、爆発したやつって私にもできる?」
相沢の問いに間抜けな声をあげる。
こいつ、何言ってんだよ。
思わずマジマジと目を見る。その目には迷いはなかった。少年は小さく笑う。
「まあ、練習すれば」
少女は拳を握る。その手は震えていた。ゆっくりと立ち上がり少年を真っ直ぐと見据える。
「私にも教えて。……もう、こんな思いしたくないの」
力強い眼差しに少年はたじろぐ。そして、何も言えなかった。目は本気で例え断ったとしても引く気配はない。頭をガシガシと掻き毟り、大きなため息をつく。
「爺ちゃんには話を通してやる」
小さな声で呟き寺へと歩き出す。相沢はその後を追う。
「ねえ、名前は? 私は相沢」
「伊藤晃汰。小三」
チラリと目線だけ少女を見る。伊藤の顔は心なしか嬉しそうだった。
相沢は景がしていたピアスを握る。そしてそっとポケットの中にしまった。