非現実的な現実
少しずつ更新していきたいと思います。
物心ついたころから、夢はよくみた。
『早く産まれておいで……』
見たのではなく覚えているだけだ、ともっともな説を諭される事もあったが、兎にも角にも紅葉楓は物心ついたときからよく夢を見ていた。
(大体は同じ夢……)
産まれておいで、と腹を撫でる女は自分だ。
自分だから顔は見えないが、簡素な着物をきた腹を懸命に撫でている、ただその手は不自然なまでに細く、妊婦だとしてもあまりに不健康で目の端々で捉えるその場所は、今にも崩れそうな小屋でおおよそ幸せな母には見えない。
幼い頃はぼんやりとした輪郭の切れ切れな、シーンの継ぎ接ぎと言った表現が良く似合う夢だった。
声もない音もない、何をしているのかもよく分からなかったその夢は、年を重ねるごとにそれは輪郭からやがて幾つかのまとまりになって、13の誕生日を迎えた頃にはその胸糞悪い夢の内容を大体理解してしまった。
『っふ、っふー、っぅ!』
苦しい陣痛の果てに、小屋からぶら下がった紐を握り締め、一人産み落とした赤子を抱く。
リアルになって行く夢で楓は男なのに陣痛にのたうち待って目を覚ます、という稀有な体験を何度も何度もした。
例え名前が女性じみていようが、己の性別はしっかり男である。
楓の心中は思春期や中学生活でのクラスメイト達との不和、家庭事情に加えやってくる受験のストレスで大いに荒れ果てた。
『坊や、私の坊や……』
人間慣れてしまうものなのか、それ程まで苦しくとも眠りを欲するものなのか、女は産まれたばかりの血まみれの赤ん坊を抱きしめ、己のしなびた乳に添えようとする。
最後の夢の塊は暴力だ、急に開いた扉から光を背に誰かがやってくる、出産で動けない自分は抵抗もできず赤子を取られ、縋ろうとする手も、根元から蹴りつけられ細い体はあえなく吹き飛び、我が子は乳を含む事もなく連れ去られた。
夢の中で痛いのか痛くないのか分からない、ただそれはもう日常になってしまっている。
広い和室で目を覚ました楓は、ぼんやり中学生時代の事を思い出しながら、まだ日の昇りきらない薄い明りだけの障子を眺める。
「またか……」
言うのも飽きた、起きればそこには楓と言う名の15歳の男が布団に横たわり、ぐっしょり寝汗をかいて不快感を共にしながら今日と言う日の朝を迎えるのである。
紅葉家は旧家である、名ばかりではなく今も事業と武術でその筋では名を馳せているらしい。
らしいというのは四男の楓にはそんな事はほぼ関係ないし、早々に隠居を決め込んだ父も、後を継いだ長兄も碌すっぽそんな話題を出すことはないからだ。
紅葉の『家』は楓自身、学業を終えた後の就職でそれなりのコネがあるのだろうという事と、今の高校1年生男子としては平均よりも多い小遣いをもらえているという位の利点しかない。
その利点も、朝5時に起きて始まる鍛錬や広い道場の掃除を考えると、ぎりぎりまで眠っていられるクラスメイトの方が小遣い少なかろうが大分羨ましいのだが……。
そんな大きな『家』としては自分の様な息子は例え末の四男と言えど恥ずかしかったであろうが、精神科医にもかかった14の頃、父親とも散々泣いて心を抉られながら、自分が恥だと思っていた色々な話もした。
しかし結論はストレスは認められたが、心や脳の病気ではなかった……それも全て受け入れてくれた父や兄には一生頭が上がらないだろうし、命を賭して自分をそんな父や兄の所に産んでくれた母のために、死ぬという選択だけは絶対にしないと決めた。
だから楓は家の名前はどうでもいいが、家族は好きだ。
どんな胸糞悪い夢がどんどんディティールを細かにして、吐き気を催すようなものになろうと、朝の5時にきちんと起きるし、兄弟4人で順繰りになっている掃除も身を切るような寒さに震える真冬だろうと、遊びたい盛りの夏休みだろうとさぼった事はない。
「起きるか……」
夢のせいで人生が変わったと思う事は多々ある、のそのそと寝間着の浴衣からジャージに着替える楓の爪は、おおよそ男子高校生とは思えないほど、びっちり塗りたくられ、美しい模様が描かれていた。
160cmを少し超えるだけの身長はそれなりの筋肉はついているものの細身で、兄達と並んで歩くととても同じ血が流れているとも思えないが、これは仕方がない、長兄の梓も、双子の次兄・三兄の榊も椿も大学に入る頃に伸びたという。
兄達の高校の卒業アルバムには、今の楓と同じくらい、ちんまりとした高校生が同じような顔で映っている。
決定的に違うのは、兄達の姿はかわいらしく真面目な少年、という印象を与えるのに対して、楓はと言えば。
両方の耳のピアスは計3個、肩口まで伸ばしている髪は手入れされているが、男子高校生としては手入れされすぎているし、眉も綺麗に整えられている。
いまどきの美少年……と言うにしてもそれは少々特殊で、オカマと陰口でも叩かれるのではないかと、高校入学当時、兄達は心配していたようだ。
しかし楓にしてみればオカマだ男女だと言われるのは、子供のころからずっと変らない事でうじうじとそれを悩めば余計に、オカマだとからかわれ……それで済めばいいが体育の時間が間違いなく憂鬱だった。
「わう!」
ジャージに着替え終わると、待ってましたとばかりにコロコロ丸い雑種の犬が、楓の部屋の前、中庭からキラキラとつぶらな瞳で駆け寄ってくる。
そのジャージも中学時代のものや部活動で着る様なもっさりしたもではなく、体にフィットするデザイン性を重視した、もう一歩で女物と言われても仕方のないもので、楓はそれでいい事にした。
爪は趣味ではないのだが、こうでもしておかないとすぐボロボロになるまで噛んでしまうし、せっかく家から遠く中学時代の知り合いのいない、かつ、外見をうるさく言われない高校を選んだのだ、理解を示してくれた家族に感謝し、ストレスなく好きなように外見を飾る。
「おおヨシヨシ八太郎、いくか」
「わう!」
しかし……何故に、毎朝1時間以上一緒に走っているのにこんなにもでぶんっとしてるのか、幼い頃から散歩係だった楓は疑問で仕方なかったが、どうも兄がこっそりおやつをやっているらしい。
そりゃあ運動以上のカロリーをやっていれば太ってしまうものだ、注意しても痩せない所を見ると兄達も止める気はないのだろう。
八太郎自慢の赤い首輪に、かちゃんとリードをはめ込むと、嬉しそうにぶんぶんと全力で尻尾を振って早く早くと急かしてくる、どちらに主導があるのか分かりはしない。
若干、いやーな感じで眉を寄せた楓は、そのまま中庭から細い隙間をとおって、裏口に向かった。
「ったく……」
犬は上下関係をしっかり見極めるというし、どれだけ着飾ろうとも四男で散歩係なんて八太郎の中ではヒルエラキー最下層だ。
エチケット袋片手に毎朝のため息をつきながら楓は、毎朝のコースを走りだした。
ゆっくり眠れる事など、年に何度もないがそれでも朝になれば起きる様にインプットされている体は、風を切ってアスファルトを踏みしめ走る。
たったったったと響く自分の靴音、続いてカチャカチャと爪がアスファルトをかく音、ほぼ毎朝繰り返されるそれに、同じように何度も繰り返し見る夢は現実になりえるか……こうまで続くと不思議な縁を感じなくはないが、それは否だと楓は言える。
「流石になぁ……」
息を切らさないペースを保ち走る楓は、自分の下腹部を軽く撫でた。
なにせ夢はいつも女が大きな腹を撫でながら、中の赤子に語りかけることから始まるのだ、そしてそれを外から見るのではなく、夢の中の自分はその腹を撫でている女である。
流石にどうまかり間違っても、それは現実にはならないだろう。
しかし朝はいい、深く吸い込む空気は澄んでいる。
神経に来る夢から覚めて、おまけに奇怪な魑魅魍魎達も形を潜め、平穏に煌めいて少しばかり心を癒す。
幼い頃から夢以外の非現実にも慣れている、そう言う家らしいから……。
らしいらしい、この血筋の人間たちが当たり前のように見て来た奇怪なもの達は、当たり前のように自分にも見えた。
だからこそ楓の夢の異常性の発覚が遅れた、と父に謝られたのは苦い記憶だ。
非現実に慣れ親しみ過ぎた結果は、あまりよろしいものはもたらさない、いや、自分たちにとっては限りなく現実だが、世間一般の現実とあまりにかけ離れた世界は非現実的だと言った方が良い。
かくして今日も楓は、1時間の走り込みを兼ねた散歩が終わると、軽くストレッチ、着替えて朝食をかきこみ7時になる少し前に駅に着いたら電車で30分、降りたら同じ制服の男子達がバスに乗りこむ生徒達の間をすり抜け、また走って20分。
「おはよー」
一般的な現実に即した、男子校の高校生として派手な外見を引っ提げ、普通に過ごすのである。
「おはよー今日も派手だなー」
「おーっす、なあなあ宿題やったかー?」
校風自由、偏差値は控え目に言って高くはない、けれど開き直ってそう言う奴だと印象づけておけば、いじめ的なからかいなんてないと言ってもいい位だ。
たまに「よっすオカマ」なんて言われても、普通に「よっす」で返せる。
宿題やったか?と聞いてきたのは前の席に座る江川陽一、楓が席に着くと同時にひょいっと左手をとって、目の高さまで引き上げた。
「なんだ昨日と一緒じゃん」
「ジェルのは1ヶ月近くもつもん、まあ柄飽きたらかえるけど」
陽一はスキンシップに嫌悪感がないタイプだ、この学校の中の親しい友人たちの中では一番普通だと楓は思う。
一応整えているだけの真っ黒な髪に、日に焼けた肌、もうすぐ170と豪語する身長と痩せても太ってもいない体格、そのまま指を勝手にくっつけてーひらいてーと遊び始めるのは少しばかり子供っぽい気はするが……。
「飽きたらかえる、ね……楓はうちの姉より女っぽいな」
「亨のねーちゃん女らしくねえの?まじで?」
「そういうもんかねー?んでも服とか貸し借りできそうだし、兄貴だけじゃなくて姉もいいかも」
「姉も妹もうるさいだけだぞ、それにちょっと楓の前提はおかしい、姉や妹なんて皆が思うほど良いもんじゃない……弟なんて、兄なんて下僕にしか思ってない!」
体格の大きい田辺亨は少しお堅い、しかし姉妹に挟まれた真ん中の苦労は多そうだ。
この学校に入学してから2カ月少々、隣の席になった彼に言わせると楓の方がよっぽど女の子しているというのだが、それがどういう意味なのかあまり聞きたくない。
生真面目すぎる性格を見ているからか嫌みや当て擦りだとは思わないが、この性格のままでは今の楓よりも社会に出た生きにくいだろう。
「大体、パンツ一丁でうろつく女のなんて、嫁の貰い手があるのかあいつら米もまともにとげんのだぞ……それに」
「あ~はじまったぁー」
「えーパンツいっちょいいじゃんいいじゃん」
亨の愚痴に陽一の掛け合いが入るが、陽一の頭の中からは相手は身内だという前提がすっぽり抜け落ちている、こう言う馬鹿な話に花を咲かせる学園生活は非常に優しく幸せだ。
こんな日々が続いて、自分はただの悪夢と変なものを見るだけの高校生で、成人したらそれなりに一般市民に埋もれて過ごせますように、というのが楓の切なる願いである。
「数学のノート集めるんだけど亨、今いい?まだ続きそう?」
「お、おっはよー委員長」
「うんおはよう、楓と陽一も数学のノートちょうだい」
ニコニコと微笑みながら、学級委員長の日野原達弘が愚痴を続ける亨に声をかけて来た。
数学Ⅰは朝に宿題専用のノートを集めて、放課後に採点付きで却ってくるという面倒くさいルールである、眼鏡の奥でにっこり笑って毎朝のように集める委員長には頭が下がる。
兄達と同じくらいの見上げる先にある顔はいつだって笑っているし、他人を不快にさせないように努めているようにも見える、そんなに深く話をしたことなどないが、それでもなんとなくいい人だなと思わせた。
「朝集められたら写したりできないよなー、くっそー、あ!そうだ!朝早く来ればいいんじゃね!」
「お前だけ朝早く来てどうするよ」
「委員長としては、そんな努力より少し夜更かししても自力で宿題すべきだと言っておこうか」
「まあ……こう言う時だけ姉はありがたいと思える」
ぱたんぱたんとノートが音を立てて重なっていく、それでも陽一はきちんと宿題はやってきているのだ、あっているかどうかは別として……案外、自分が思うよりは真面目なのかもしれない。
チャイムが鳴る前にノートを持って職員室へ向かう委員長の背中を見ながら、続いて当たり前の日常が続けばいいのにと望む、それはさほどの贅沢だとは思えないのだけれど……。
予感でもないが、その前に自分自身が当たり前の感覚で社会的な生活を営んでいけるかという問題があった。
続きはでき次第あげていきたいです




