蝉時雨
きれいでお上品で無邪気なだけの沖田総司は嫌いです。私の「沖田総司」を書けるよう頑張りました。
己の、荒い息遣いが妙に耳につく。
骨と皮だけの躰がひどく重くて、寝返りをうつことでさえ億劫だ。
京中をを震えあがらせた新選組の沖田総司と今の己が同一人物だとは、彼自身、信じられないような気がした。
今はもう、刀も握れない。
この躰で出来ることといえば眠ることくらいだが、目が覚めたばかりでは眠気のかけらもない。
子供の頃、風邪をひいては治ったあとにやりたいことを思い描いては薬や熱に堪えていた。
が、今は何を慰めにすればいいのだろう。
未来には、死しかないというのに。
何を、思い描けばいいというのだ。
涙が零れた。
死にたくない、と心が叫ぶ。
ここで死んで、一体何が残るというのだ。
何のために、生まれてきたのだ。
悔しい。死しか残されていない己の未来が憎い。死にたくない。
毎日が生きるか死ぬかの瀬戸際だった、あの頃は死ぬことに何の恐怖も感じなかった。
なのに、今になって何故。
わかっている。
こんな躰になって、いろんなことが見えてきたから。
哀しくて残酷なことだが、振り返ってこそ見えるものもあるのだと、知った。
* * *
沖田は、幼い頃に近藤家へと養子に出された。
口減らしのためだった。
まだ家族に甘えたいのに、まわりの人間はみな他人になった。
寂しいなどと言えない。
わがままなど許されない。
辛いとか苦しいとか、そんな感情を少しでも表そうものなら、養母のふでに容赦なく引っ叩かれた。
愛情の感じられない、暴力であった。
だから沖田は、いつでも笑っていることにした。
そうすれば、誰にも己の心は見えない。
感情を隠していても、悪い印象を与えることもない。
嫌われるよりは、愛される方が好都合だ。
いつしか、沖田の心には他人に対する分厚い壁が出来ていた。
その壁は誰にも踏み込ませないし、自身が壁の外に出ることもない。
笑顔のお陰で、壁に気付く者はいなかった。
無邪気で愛想の良い、明るい〈沖田総司〉の出来あがりだ。
しかし、その顔が楽しそうに歪めば歪むほど、彼の心は冷めていった。
己の作りあげた〈沖田総司〉を本物と信じる人々の姿を、嘲笑いながら眺めていた。
* * *
今は、そんな己が哀しい。
可笑しいだとか滑稽だとかではなく、可哀想でもなく、どうしてだか、ただ哀しいと思った。そして、残りの人生くらいは、ありのままの己でいようと決めた。
すると、今まで歪んで見えていたものが、すぅっとまっすぐになった。
素直な視線で見てみると、今までの人生は泣きたくなるくらい、暖かいもので埋め尽されていた。
だが。
もしも、己を偽らずにここまできていたら、どうだっただろう。
誰か、愛してくれただろうか。
答えは、でない。
だから。
だから、決めたのだ。
誰からも愛されず、それどころか誰からも気付かれないまま死んでしまうのは、やりきれないから。
ずっと隠し続けてきた本当の沖田総司を、他の誰でもない、自身で愛そう、と。
* * *
眠くない、と思っていたものの、横になっているうちに眠ってしまったらしい。
とはいえ、やはり躰も睡眠を欲していないのだろう、老婆のさして大きくもない声で目が覚めた。
「沖田さん」「なんだよ、婆ァ」
沖田は世話をしてくれているこの老婆のことを、婆ァ、もしくは婆さんと呼ぶ。
最初は礼を持って接していたのだが、
「気持ち悪い」
と言われたのでやめた。
失礼な、と思ったが、不思議と気分はからりとしていた。
「沖田さん、茶が余ったから、飲め」
「また?」
苦笑した。老婆は、いつもこうだ。
飯を炊きすぎたと言っては食わせ、茶を煎れすぎたと言っては飲ませる。
沖田の労咳は、もうすでに末期だ。
今更なにをしても手遅れである。
しかし、それでも諦めきれずに、あがいてしまう。
もしかしたら、もしかしたらと僅かな希望にすがる。
どうせ死しか残っていないのだから、と自由にさせるのも愛ならば、奇跡を信じてあがくのも愛である。
(俺を、愛してくれる人がいる)
熱い茶をすすりながら、思った。
(嬉しい)
自然と、笑みが零れる。
最期は、今と同じ表情で逝ける、そんな気がした。
いつの間にか、外には夜の帳がおりていた。
* * *
朝、沖田は不思議なほど気分よく目覚めた。
もちろん躰はだるく、食欲もなかったが、どういうわけか、気持ちがはずんでいた。
天気も良く、絶えず子供たちの声が聞こえる。
無理をするなという老婆の制止に笑顔を返して、沖田は縁側に腰掛けた。
外の空気を吸うのは、久方ぶりだ。
思いきり、深呼吸をする。
「気持ちいいや」
湿気を含んだ、べとついた風ですら爽やかに感じる。
「鬼ごっこしてぇ」
京にいた頃は、近所の子供たちとよくやったものだ。
そしてそのたびに、みっともないと怒られた。
非番の日に何をしようが勝手だと思うが、口煩いその男に言わせれば、〈いつ、いかなるときも新選組隊士であることを忘れるな〉ということらしい。
大嫌いだった、男。
当時の沖田にとって、彼は美しすぎた。
男は、たくさんのものを持っていた。
妬ましいほどに。
誰からも愛されるために生まれてきたかのような、美しい容姿。
優しい家族。末っ子だというその男は、両親を早くに失ったことを不憫に思う気持ちも手伝ってか、家族に溺愛されていた。
その愛を表現するに充分な、恵まれた家。
そして、夢を追いかける権利。
沖田は夢をみる権利すら与えられていないのに、その男は当然のように夢を追っていた。
武士になる、という途方もなく大きな夢。
大嫌いだった理由は、もう一つ。
近藤先生と、仲が良いから。
愚かと笑いながらも、試衛館の食客たちは、好きだった。
近藤が剣を振る機会をくれたから、愛すべき男たちに出会えたのだ。
人としても、近藤には強く惹かれた。
だけど。
近藤の隣には、いつもあの男がいて。
入り込む隙間など、なかった。
近藤の役に立ちたくて、必死で稽古をした。
だが、いくら強くなっても、近藤の一番はあの男だった。
――俺の方が、強いのに。近藤先生の力になれるのに。
大事なことを決めるのは、いつも二人。
沖田は、望まれていなかった。
悔しかった。
仕方がないから、それしかないから、ただ一所懸命に剣を振るって。
これだけ、近藤先生の役に立っている。
言い聞かせるたび、二人の距離が余計に妬ましくなっていった。
あんなに眩しい人に、勝てるわけがない。
今は、そう思う。
悔しさも妬ましさも感じない。
何故かは、わからないけれど。
でも、ひどく爽やかな気分だから。
別に、その答えを欲しいとは思わなかった。
ただ、出来ることなら。
この気持ちで、あの頃へ帰りたい。
それが出来ないことは、悔しい。
* * *
縁側に座っているうちにうとうとしていたのだろうか。
ふときがつくと、肩に羽織が掛けられていた。
新選組にいた頃は気配に敏感だったのに、と寂しく苦笑する。
それほど長い間眠っていたわけではないようだが、汗ばんだ肌が気持ち悪い。
濡らした手ぬぐいを貰おうと、躰を動かした。
老婆が部屋を覗くのを、空気で感じる。
「大人しく布団で寝てろ」
しわがれた声で、言われると思った。
しかし。
「起きたのか」
凛と響いたその声は、老婆のものではない。
沖田は、慌てて振り返った。
そこには、漆黒の軍服に身を包んだ、断髪の男がいた。
姿こそ変わっているものの、声も表情も、沖田の記憶の中の彼と寸分も違わない。
「あんまり気持ち良さそうに寝てっから、おこせなくてよ」
男は、照れ臭そうにわらった。
そっと暖かな風が吹くような、その笑顔がひどく懐かしい。
「土方さん……」
「久しぶりだな」
羽織を掛けてくれたのは、土方だろう。
「本当に、久しぶりだなぁ」
驚くほど自然に笑えた。
大嫌いだった、あの男を目の前にして。
「皆は」
元気ですかい、と訊こうとして、やめた。
「……頑張ってますかい」
「ああ。相変わらず張りきってやってるよ」
「一番張りきってんのは、土方さんだろ」
二人で一緒に笑った。
それまではどことなく重かった空気が、軽くなる。
軍服の土方を前にして、無意識のうちに緊張していたのだろう。
なんとなく、己の知る土方ではないような気がしていた。
しかし、土方は土方のままである。
そのことに、安心した。
「それにしても」
まじまじと、土方を見た。
涼しげな顔立ちの土方には、断髪も軍服も良く似合っている。
素直にそう告げると、土方は彼の方がよほど肺病持ちのような白い肌をさっと朱に染めた。
「からかうんじゃねぇ」
「本当ですって」
土方は赤い顔のまま、嬉しそうに
「そうか」
と呟いた。
(面白い人だ)
この人を憎いと思っていたなど、我ながら信じられない。
「ねぇ、土方さん」
「なんだ」
足りなかった分を埋めるかのように、二人は話し続けた。
これが永の別れになることを、感じながら。
* * *
焼きつくような、陽射し。
土方がここを訪れたときにはまだ土の中にいた蝉たちも、今は力いっぱい鳴いている。
こんな日は外を駆けまわりたいが、もう縁側で夏の景色を楽しむことすら出来ない。
躰を起こすだけでも億劫だ。
「近藤、先生は……」
貼りつく喉からしぼりだした、かすれる声で老婆に尋ねた。
「近藤先生は……ご無事だろうか……」
「ご無事だ。ご無事だよ」
だから、早く良くなって行っておやり。
そう言う老婆の声は、震えていた。
沖田はそれ以上、何も言わなかった。
* * *
蝉が、鳴いている。
(羨ましい)
蝉は地上に出てきたら、精一杯鳴く。
声を、張り上げて。
命の、最後の一滴。それを使いきるまで、鳴き続ける。
そんな風に、生きたかった。
最期の最後まで、戦いたかった。
(でも)
こんな病気にかかってしまったけれど。
戦場では、死ねないけれど。
(楽しかった)
心の底から、そう思える。
(俺は、幸せだ)
幼いうちに、養子に出されて。
哀しかったけれど、皆に良くしてもらえた。
すれ違う男がいたけれど。
最後には、一緒に笑いあえた。
駆け足ですぎた、京の日々は。
過酷ながらも、楽しかった。
一つ一つ、愛しい思い出が浮かぶ。
* * *
幼い日。
寂しくて、密かに泣いたこともある。
近藤先生は、それをみつけて。
大きな掌で、頭を撫でてくれた。
初めて先生から一本取れたときは、俺よりも先生の方が喜んでくれて。
そんな先生をみて、俺は嬉しくなった。
どっちが多く饅頭を食うかで、平助と喧嘩したこともあった。
どさくさに紛れて、原田さんが全部食っちまって。
大騒ぎした。
原田には、随分驚かされた。何をするか、わからない人だったから。
平助が道場に来たときは、弟が出来たみたいで嬉しかったっけ。
山南さんには、いろんなことを教えてもらった。俺の知りたいことを。俺の知らなくちゃいけないことを。学のない俺にも、わかる言葉で。
斎藤さんは、何を考えてるかわかんなかったけど、いつも的確な答えをくれた。
永倉さんには、先生とは違う憧れを抱いた。大きくて、格好いい人だった。
源さんには、可愛がって貰った。怪我をしたとき、物をなくしたとき、いつも源さんが世話をしてくれた。
土方さんは――好きになるか嫌いになるかは別として、惹かれずにいられない人だった。
そして、近藤先生は。優しくて、厳しくて、大きくて。本当に、尊敬している。
(ああ)
幸せで埋め尽されているではないか、己の人生は。
それに――。
(俺は最後まで戦った)
病、と。
(何も、悔いはない)
わずかに開いた襖の間から、老婆の後ろ姿がみえた。
気持ちが、澄んでゆく。
「ありがとう」
震える声で小さく呟いて。
小さく、笑った。
「ありがとう……」
涙を流しながら、そっと目を閉じる。
少しずつ蝉の鳴く声が遠くなってゆき、やがて聞こえなくなった。
* * *
外では子供たちのはしゃぐ声と蝉時雨が、夏の空の下、絶えず響いている。
〜終〜
ここまで読んで下さってありがとうございました。
小説を参考にはしませんでしたが染まってはいるので、私の「沖田総司」を書くのは大変でした。
「沖田総司ってこんな人だったのかも」と思って頂けたら嬉しいです。