第六夜 夢の最果てで
「……まず理解してもらいたいことがある」
私達は旧校舎の一室に集い、音緒の話に耳を傾けていた。
霞ヶ原高校旧校舎。木造三階建ての年季の入った建物で、現在では一部の特別教室以外は使用されていなかった。そのため、旧校舎の教室の半分以上は埃をかぶっていた。
本来ならいつ取り壊しになってもおかしくないオンボロ具合なのだが、何分と霞ヶ原高校はマンモス校であるため、重要な備品の幾つかがまだ旧校舎に仕舞われていた。また旧校舎以外に仕舞う場所もなかった。半ば倉庫のような扱いで使われていた。
しかし、近衛君が派手に暴れたせいで新校舎が使い物にならなくなっていたので、元の世界に戻れたら旧校舎も本来の用途として使われるようになるかもしれない。いや、それ以前にほとんどの生徒が死んでしまったので、学校自体がなくなるかもしれなかった。
私達はこの白夜の世界を抜け出して、元の世界に戻れるのだろうか。
元の世界に戻ったら……。
…………ッ!?
ま、また変なノイズが……?
身体を自由に動かすことさえ出来ないほどの狭い場所、辺りを確認することさえ出来ないほど暗い場所。そして、濃厚な血の臭いと、……よくわからない刺激臭のする場所。
これはどこの光景? こんなものが私の記憶だと言うのか?
このノイズが走ると頭が割れるように痛んだ。一体、私の身体に何が起きたというのだろうか。
「……夜子!! おい、小夜子ッ!!」
「ふえっ……? な、何……?」
気がつくと、礼夢が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。辺りを見渡すと、近衛君も心配そうにしていた。音緒とレオノーラ先輩は関心なさそうな感じだったけど。
「お前、大丈夫か?」
「う、うん……。ちょっと頭痛がしただけ」
「そうか、よかった……」
礼夢が少し乱暴に私の頭を撫で、珍しく優しそうな笑顔を浮かべた。
「…………無理に思い出そうとするな」
「えっ……?」
思い出そうとするな、ってどういう意味……?
もしかして、礼夢は知っているの、あの狭く暗い光景のことを……?
私はそのことを問い質そうとしたが、その前に音緒に割り込まれてしまった。
「小夜子、私の話は聞いてた?」
「えっ……? あぁ……、ごめん……。聞いてなかった」
「むぅ、もしかして最初から?」
記憶を辿って音緒の話を思い出そうとするが、何も思い出せなかった。最初に音緒が何かを宣言していたような気がするが、その続きは完全に記憶の端から途切れていた。
どうやら私の表情から全てを察した音緒は呆れた様子で溜め息を吐いた。
「……みたいです。すみません……」
「じゃあ、もう一度言うの。私達が本来いた世界にもいわゆる『魔法』は存在していたの。そして、この世界はその『魔法』を生み出す原初の場所」
……魔法?
私達が本来いた世界にも……?
えっと、理解が追い付かないんだけど……、つまり……?
「じゃあ……、えっと……、この世界の覚醒者達みたいな力を使える奴が、現実の方にもいるってこと……?」
「端的に言えばそう」
音緒はあっさりと頷いていた。
周囲を見渡すと、近衛君とレオノーラ先輩はどこか信じられないといった顔だった。しかし、礼夢はまるで当然のことを聞くように憮然としていた。
礼夢は霞ヶ原高校の関係者ではないにもかかわらず、白夜の世界に現れた謎の存在だ。もしかして彼はそういう魔法の関係者なのだろうか。そう考えると、いろいろ納得できる部分があった。
「信じられないのはわかる。だけど、事実。ただ、貴方達が知らなかっただけのこと。悪魔の証明なの。『ない』ということを証明することは出来ない」
「で、『ある』ということの証明ってのが貴方って訳?」
レオノーラ先輩が少し苛立った様子で言い放った。
「むぅ。私もそうだし、彼もそう」
音緒の視線の先にいたのは、礼夢だった。
礼夢は机の上に足を組んだ状態のまま踏ん反り返っていた。私達の視線に気付くと、彼は軽く鼻を鳴らして睨み返してきた。
やはり、礼夢はそういう存在だったのか……。
「俺の話はひとまずいいだろう。時間がねぇんじゃねぇのか?」
窓の向こうを眺めながら、礼夢はそう言い放った。
音緒も一度窓の向こうを見つめ、小さく頷いた。そういえば、先程も時間がないと言っていたが、どういう意味なのだろうか。
「とにかく前提として、現実には元々魔法と呼ばれる力があるということを理解してほしいの。貴方達が知らなかっただけで、その特性や目的等によって様々に呼ばれる異能な力が存在している。そして、それら全ての力は、この世界を元にして生まれた」
「この白夜の世界で……?」
「正確に言うと、もっと広い世界。貴方達が白夜の世界と呼ぶこの場所は、隔離された結界の中。武曽はその結界の中に学校ごと、みんなを引き摺りこんで更に小規模な結界を張っていた。つまり二重結界の中なの。まぁ、その辺は詳しく理解する必要はない。
仮にレオノーラが……「ちょっと!? 貴方、後輩のくせに呼び捨てで……」あの黒い月を通り抜けたとしても、すぐに現実には戻れなかった。むしろ、いきなり海のど真ん中に放り出されたみたいになって二度と現実には戻れなかった」
途中でレオノーラ先輩の抗議が聞こえた気がするが、まるで何事もなかったかのように話を続ける音緒。いい度胸をしている。
「……そう、海。この世界はよく海と表現がされるの……」
「ねぇ、音緒? 私達はもうそういう曖昧で訳のわからない話はウンザリなんだよ。もっとキッパリと事実だけを教えてくれない?」
「むぅ~。まぁ、いいの。この世界を表現するには日本語でも英語でも五文字だけ」
音緒は私達に五本の指を立てた手を見せ、そう言い切った。
たった五文字。それだけでこの狂った異常な世界を表現できるなんて……。
私達は固唾を呑んで音緒の言葉を待った。彼女独特の間が妙な緊張感を誘う。彼女がこれから言わんとするのが、この世界の真実だった。
「……夢の中、なの」
「ゆ、ゆめ……?」
その衝撃の真実を知った私達はあまりのことに茫然自失してしまった。
とても信じられない話であったが、音緒は厳然とした表情で事実であると語った。
それから語られることは夢みたいな夢物語だった。しかし、私達にはその驚きの真実を否定する根拠を何一つ持っていなかった。
『夢幻界』。
夢幻の民は、この広大な夢の世界をそう呼称していた。
無数の夢が繋がった広大な精神ネットワーク世界。個々人が見た夢が堆積していく幻想のみで構成された世界で、夢を見る全ての生物の夢が集う場所。しかも、時間の概念や物理的な限界が存在しないため、この夢幻界は延々と肥大化し続けているそうだ。
夢幻界は全ての幻想が生まれた場所であり、稀にこの世界から現実へと逆流することがある。それは魔法と呼ばれる特別な力であったり、神話に登場するような怪物達であったり。現在語り継がれている幻想的な存在は、全てこの夢幻界から生まれ出でた。
夢幻の民の祖先も元々はこの世界で生まれたそうだが、現存する夢幻の民のほとんどは現実世界で生まれ、祖先の力を受け継いだ者達だった。というより、現実世界にいる魔法使いは基本的に夢幻界から生まれた特別な存在の血を引く者しかいなかった。
夢幻界の幻想を現実化できる者は希少であり、そうした特別な存在は『幻想聖母』と呼ばれていた。
はっきり言って、夢幻界のことなど私達には無関係とも思える話かと思ったが、実はそうでもなかった。
私達もこれまで意識していなかっただけで、夢を見ると同時に必ず夢幻界に訪れるそうだ。しかし、それは浅瀬の海でプカプカと身を任せて浮かんでいるのと変わりないことだった。ほとんどの場合は夢の波に押し流されて、現実に戻ることが出来るらしい。
しかし、時として夢の海に溺れることもある。
その原因となるのが、悪夢の存在だった。
私達が白夜の世界で度々遭遇した黒い影の正体は悪夢の欠片、『ナイトウォーカー』だった。奴等は夢幻界の中で凝り固まった苦痛や悲哀が形を持った存在。そして、夢幻界の最深部『ナイトメア領域』と呼ばれる混沌の闇から生まれ出でた悪夢そのものだった。
ナイトウォーカーは悪夢を、ナイトメア領域を広げることを目的としていた。そのためには悪夢の元のなる人々の苦しみが必要だった。奴等が夢見る全ての存在を苦しめようとするのは、そうした目的があったからだ。また、ナイトウォーカー自身が成長するためにも人の苦痛と悲哀が必要だった。
夢幻の民の役割は、悪夢ナイトウォーカーから夢見る者達を救済することだった。
彼等には『夢渡り』と呼ばれると特別な力があり、普通の人間と違って、自らの意思を維持したまま夢幻界に訪れることが出来る。夢幻の民はその能力を用いて夢幻界に入り、夢見る全て者に仇なす悪夢達の脅威を退けていた。
夢幻の民の中にも幾つか役割があり、夢見る者が溺れないように介添えをする者もいれば、悪夢が表層に侵入できないように結界を張る者達もいる。そして、その中にはナイトウォーカーと直接戦う者達がいる。彼等は『悪夢狩り』の異名を持ち、音緒はその悪夢狩りの一人だった。
音緒は夢幻の民として私達を救出するため白夜の世界まで訪れた。
この白夜の世界は、ナイトメア領域にあった。悪夢の力がもっとも強くなる場所であり、更には武曽によって侵入を拒絶する結界まで張られていた。音緒も他の悪夢狩りの力を借り、なおかつ結界内部の損傷(礼夢が黒月に向かって攻撃した際に生じた)が出来たおかげで、何とか侵入できたらしい。
「ここが夢の中なんて信じられないな……」
音緒の話を聞いている途中、近衛君がそう漏らした。
その意見に関しては私も同意できた。ここが夢の中なんて正直信じられない気持ちでいっぱいだった。あの痛みや苦しみが全部、夢の中でのことだったなんて。
「むぅ、夢は深くなれば深くなるほど本来持つ感覚とリンクする。悪夢が実際に苦しみを伴うと同じ」
「なるほど、わかりやすいね……」
嫌な夢ほどリアルに感じる。内容がいかに現実離れしていたとしても、夢を見ている間はそれが夢とは思えずに苦しむ。そして、目を覚ましてようやく夢だったと気付くのだ。
「だけど、夢幻界はやっぱり夢。例えば夢幻界で死んだとしても、現実の肉体には大きな変化はない。これは近衛にとって朗報だと思う」
「そ、それってつまり、実乃里やこの世界で死んだ人達は、現実の方では無事ってことなの!?」
「むぅ……、肉体的には、なの」
音緒は私達の喜びに水を差すように深刻そうな面持ちで言った。
先程の夢幻界の話に戻るのだが、夢幻の海で溺れた者を健全な状態のまま助けられなければ、それは現実にも影響が出る。無論、精神だけの世界なので、夢幻界の死は現実の肉体に何ら影響を与えない。
しかし、傷を負った精神は、たとえ夢の中の記憶を失ったとしても消えはしない。最悪、永遠に目覚めないということも有り得る。
だからこそ、夢幻の民という救助者の存在が必要となるのだ。
「……つまり、もう実乃里は……」
「ううん。だとしたら、朗報なんて言わない。この武曽の結界、白夜の世界は少し他と事情が違う。詳しい説明は後回しにするけど、武曽の目論見を潰すことが出来れば、みんなを救うことが出来るはず」
「そ、それは本当かい!?」
「確実とは言えないけど、可能性は大いにある」
音緒の言葉を聞いて、近衛君は神に祈るように両手を組んで喜びの涙を零した。
実乃里の死がどれだけ彼の心を傷付けたかは言うまでもない。助けられなかった大好きな女の子をもう一度救うチャンスを得られて、近衛君はきっと歓喜しているのだろう。
私だって実乃里を助けられる可能性が出てきて喜んでいた。
しかし、そのためには……。
「武曽を倒さないといけないんだね……」
「……そうなる」
重苦しい表情で音緒は頷いた。
「上等だよ。実乃里を殺したあいつを許すつもりなんて初めからないさ」
近衛君らしからぬ不敵で不穏当な発言だったが、それも武曽相手なら仕方がないことだろう。好きな子を殺した相手に対して敵意を持つなというのは無理な話だし、彼が力に目覚めたのは武曽を殺すためだった。
……あれっ? そういえば、夢幻界がどういう場所かというのは把握できたのだが、一つわからないことある。
「ねぇ? 一つ解せないんだけど、覚醒者の力って何なの?」
私が疑問を声にするより前に、レオノーラ先輩が口を開いた。どうやらレオノーラ先輩も私と同じ疑問を持っていたようだった。
「それは簡単な理由。誰だって夢の中で空を飛んだり、自分の好きな力を持っていられるのと同じ。つまり、覚醒者の力ってのは、本人の強い願望が形になったもの。だから、その強さも想いの強さに比例する」
「……夢の中の更なる夢、ってのが覚醒者の力な訳ね。なら、覚醒者なんて言い方は結構皮肉ね。……ねぇ、それじゃあ、願いがあれば誰でも覚醒者になれるって訳?」
「そう。でも、それは心の底から願ったものでないと駄目。白夜の世界みたいに夢幻界の深層にあるような場所では、特に」
心の底からの願いが覚醒者となる条件……?
でも、それは少しおかしい気がする……。ううん、納得が出来なかった。
だって……、それなら、どうして……?
「あの、質問なんだけど……」
「何、近衛?」
「僕が覚醒した時のことなんだけど……」
近衛君はそこで言い淀み、苦渋の表情を浮かべた。
「実乃里を守るためには力に覚醒しなくて、武曽を殺そうとした時に力に覚醒した。これってどういうことなのかな……? 守りたいって想いより、殺したい気持ちの方が強いってことなのかい?」
悲壮な近衛君の言葉に、誰もが一瞬言葉を失った。
私達の視線は自ずと、彼の問いに唯一答えられる音緒の元へ向かった。重い沈黙はしばらく続き、熟考していた音緒がようやく口を開いた。
「……多分、貴方の不運は覚醒者なんてモノを知ってしまったこと」
「どういうこと……?」
近衛君は怪訝そうな表情で問い返した。
「貴方は彼女が殺されそうになった時、こう思ったんじゃない? 力が欲しいって」
「う、うん……」
「だから、駄目だった。貴方は不確かな覚醒者という存在に縋った。すぐ側に力があると思って手を伸ばしたから至らなかった。そして、常盤が殺された時に初めて心のタガが外れ、覚醒者などの存在を忘れて自らの手で武曽を殺そうとした。だから、至った。
もし、君が初めから覚醒者のことなんて知らなくて、ただ純粋に実乃里を守りたいと思っていれば、多分覚醒者となれたはずなの……」
「そう、だったのか……」
音緒の言葉を受けて、近衛君は歯痒そうに俯いてしまった。
覚醒者という存在を知ってしまったからこそ縋ってしまった。それは私自身にも身に覚えのあることだった。黒い影に殺されそうになった時、私はいつも誰かに助けを求めるか、あるかもわからない覚醒者の力を求めた。
確かに、心の底からの願いとは言えなかったかもしれない。音緒の話を聞いて、ようやく覚醒者のことを理解できた気がした。
「……僕は実乃里を守れなかった。だけど、武曽を倒せば実乃里を救うことにもなるんだよね?」
「倒すというのは正しくない。彼の目論見を破綻させればいい。言っておくけど、力に目覚めたばかりの覚醒者が武曽に勝つなんて夢の中でさえ叶わない」
「…………」
「目的を履き違えるなってことだな」
これまでほとんど発言してなかった礼夢が近衛君にそう声を掛けた。
「……目的?」
「お前は武曽を殺したいのか、あの女を救いたいのか、どっちが大事かってことだ。野郎が憎いって気持ちはわかるが、今は徹しろ。今度こそ守りたいなら。救いたいなら、てめぇのプライドなんて捨てちまえ」
「……そうだね。そうだった……。今度こそ僕は実乃里を……」
近衛君の決意に満足したのか、礼夢は微かに笑みを浮かべた。しかし、その笑みは一瞬にして消え去り、厳しい表情で音緒を見つめた。
「不破、俺も一つ聞きたいんだが、何故武曽はこんなことを仕出かした? 奴はお世辞にもいい奴とは言えなかったが、夢幻の民の矜持ってのを持っていたはずだ。それが……」
「えっ? ちょ、礼夢! 武曽が夢幻の民って……」
聞き捨てならない台詞を聞いて、私のみならず近衛君やレオノーラ先輩も席を乗り出した。
「事実なの。でなければ、夢幻界で結界なんて張れない」
「……どういうこと? あんたと敵の黒幕が仲間って……?」
「悪夢狩りは決して楽な仕事ではない。常に命懸け。特に夢幻界の深層に行けば行くほどに悪夢の力は強くなる。中には敗れ、悪夢に取り込まれる者だっている。悪夢に敗れ、悪夢に堕ちた者のことを『ナイトサーヴァント』と呼ぶ。武曽は新たな悪夢、ナイトサーヴァント……。まぁ、それに気付いたのはこんな事態になった後だったけど」
「つまり、武曽もまた犠牲者って訳ね」
レオノーラ先輩の呟きを聞いて私と近衛君の心中は複雑だった。
いかに武曽が悪夢に呑まれた犠牲者であっても、私達の目の前で実乃里を殺した事実は変わらない。しかし、彼もまた犠牲者であったから惨劇は起きた。
無論、実乃里を殺した武曽に対しての憎しみが消えた訳ではなかったが、何とも言えないグチャグチャな気分になった。
「……かつての同胞として弁護するとそうなる。だけど、同胞だったからこそ始末を付けるのも同胞の役目。ナイトサーヴァントはもう救えない。私達の敵。だから、私は武曽を討ち、彼を取り込んだ悪夢を滅する。それが私の役目」
静かな口調ながらも音緒の声には確かな覚悟が宿っていた。
しかし、彼女の閉じかけた半分の瞳からは感情を読み取ることは出来なかった。
音緒が今何を想っているかわからなかったが、それでも武曽を討つという意志だけはしっかり感じられた。私の知っている不破音緒はいつも眠そうで何事に対してもやる気を示さない無気力な奴だったけど、今の彼女は強い責任感に溢れていた。
これが夢幻の民、悪夢狩りとしての不破音緒の姿なのだろう。
寝惚けてばかりの彼女に、こんな素顔があったなんて知らなかった。私は純粋に音緒を尊敬した。
「……それはわかったけど」
少し時間を開けて、レオノーラ先輩はそう切り出した。
「そこの赤頭はどうして武曽のことを知っていたの? そもそも何者? 貴方も夢幻の民って奴なの?」
レオノーラ先輩は疑わしげに……、いや、敵意さえ感じさせる鋭い眼差しで礼夢を睨み付けていた。
確かに礼夢には不審な点というより、不可思議なことが多かった。私は何故か礼夢のことを無条件で信じてしまっているが(この事実も不思議なのだが)、他の人からすれば彼に不審の目を向けるのは当然かもしれない。
礼夢が一体何者なのか、それは私だって気になっていた。だけど、レオノーラ先輩みたいに強い語調で聞くことは出来なかった。
「寝惚けたことをほざくな。俺をあんな慈善団体と一緒にするな」
「むぅ……、慈善団体って……」
「じゃあ、あんたは何者よ?」
「お前に聞かせる義務はねぇよ、トゲトゲ女」
「……そう? なら、力ずくで聞き出すとするわ」
「あァ? やってみろよ?」
少し考え事をしている間に一触即発の空気になっていた。
礼夢もそうだが、レオノーラ先輩も相当に気が短い。二人の間にはすでに火花が散っており、机が焦げる臭いや芳しい薔薇の香りがしている。彼等の背後を見るのがとても怖かった。
「むぅ……、喧嘩駄目。彼のことなら小夜子が知ってる」
「……えっ?」
レオノーラ先輩の敵意に満ちた視線が私の方へとシフトしてきた。ついでに近衛君も驚いた様子で私を見ていた。
「えっ? ちょ、ちょっと、音緒! 勝手なこと言わないでよ!」
「……むぅ? 知らないの?」
音緒はとても不思議そうな顔をした。まるで私が知っていて当然なのではないか、と責められているみたいで少し不快だった。
なので、私の返答も少し不機嫌さが滲み出た叫びになっていた。
「私が知る訳ないでしょ!」
「……それは変」
「あんたが変よ。……って、痛い! コラ、礼夢、耳を引っ張るな!」
「寝惚けたこと言ってんな、コラ?」
「だぁぁ~、もう離しなさい!」
不届きな礼夢の手を打ち払い、私は彼を睨み付けた。
しかし、逆に責めるような礼夢の眼光に怯まされてしまった。私は何も悪くないはずなのだが、何故か罪悪感が胸を突いた。私が礼夢に対して一体何をしたというのだ。
そもそも何故、私が礼夢のことを知っている、と音緒は言ったのだろうか。
確かに幼い頃に出会った間柄ではある。だけど、それ以外には何もない。ほとんど初対面に近い相手なのだ。私が彼の何を知っているというのだろう。
「……そういえば、報告書には本人無自覚って書いてあったの……」
「だから、寝惚けてるんだよ、こいつは……」
礼夢と音緒は私の顔を見ながら、嫌がらせみたいな深い溜め息を吐いた。
何だか仲良しみたいでムカつく……。いやいや、違う違う。まるで何も知らない私を馬鹿にしているような物言いが腹立たしかった。
「だ、だから、何のことよ?」
「説明面倒」
「あんた、面倒って……」
「礼夢のことは私が言うべきことじゃないの。小夜子が話すのが道理。だから、私は言わない。だけど、心配はないの。彼は絶対に小夜子を裏切らないの」
パン、と机を叩いて音緒ははっきりと言い切った。
机を叩いたのは、それ以上の問答は受け付けないという意思表示に見えた。そして、その意思は確かに私達に伝わり、反論する機会を奪った。
短い沈黙。それがもうこの話題に触れないという暗黙の了解となった。だが、幾つかの視線が私に絡み付いて離れなかった。
礼夢が決して裏切らないと音緒は宣言したが、それでも彼の存在は不可解だった。ある種の疑惑が心の奥底にこびり付いて離れなかった。それは私だけの感情ではなく、近衛君やレオノーラ先輩も同様だろう。いや、彼等からすれば、もっと耐え難い苦々しい感覚かもしれなかった。
「……さて、時間もないことだし、説明はここで一旦終了。次はこれからのこと……。つまり、この白夜の世界を脱出する方法について話し合うの」
音緒は教卓に手を置き、身を乗り出しながら私達にそう宣言した。
この異常な世界からの脱出。それは甘美な響きとして私達の耳に届いた。
そうだ、こんな朝日さえ差し込まない深い悪夢の世界からは一刻も早く抜け出そう。そして、私達がこれまで当たり前のように享受していた日常に戻るのだ。
帰りたい、元の世界に……。
それまで私達の中に燻っていた想いは、音緒の一言によって激しく燃え上がった。
To be continued