第五夜 友と共に生き延びるために
辺りが完全に黒焦げだったので、黒い影が残っているかは判断できないが、多分いないだろう。あの凄まじい灼熱地獄で生きていられるなんて考えられなかった。
「無事か、小夜子?」
「う、うん……」
礼夢は私の元まで歩み寄ると、倒れている私にそっと手を伸ばしてくれた。私はその手を取って立ち上がり、改めて彼の姿を間近で確認した。
間違いなく本物の礼夢だ。……あっ、こうして立って並んでみると、そんなに身長高くない。私より少し背が高いくらいってことは、女子の平均からプラス数センチってところだろう。
というか、まるで夢みたいだ。
いや、もうこれは夢でいいのではないか。白夜の世界自体が意味不明だし。
あぁぁ~、何だか舞い上がって少しテンパってる。いろいろ疑問はたくさんあるんだけど、もうどうでもいい。会えたことが嬉しい。ただ純粋に嬉しかった。
「久し振りだな」
「そ、そうだね。八年……振りだね。まさかの再会にビックリしたよ。っていうか、その、私のこととか、約束のこととか覚えてたのも驚いた」
「俺はお前と違って寝惚けてねぇんだよ。っていうか、忘れたのか? 俺はお前を守るためだけに生まれたんだ。お前が泣いていれば、いつだって駆け付けるさ。お前が望めば、世界だって超えられる」
恥ずかしい台詞を言われて、私の顔は熟れたトマトみたいに赤くなった。
どうしてだろう。普通なら少しおかしい台詞なのに、礼夢が言うと自然と心のピースに納まってしまう。彼の言葉に対して疑いを持つことなど愚かという風に、ただ自然と全てを受け入れていた。
確かにまともに考えるとおかしいのは認める。
八年前にほんの少し話しただけの女の子のためにここまでするのは正直、異常と言ってもいい。そもそも今、私がいる場所は訳のわからない異世界だ。そんな場所にまで駆け付けられるなんて、彼は一体何者なのだろうか。
だが、そんな疑問こそどうでもいい。私はただ無条件で礼夢を受け入れていた。
不思議な感覚だった。子供が母親を疑ないように……。いや、むしろ逆かもしれない。母親が無条件で子供を慈しむことに近かった。
「さっさとこんな世界とオサラバするぞ、小夜子」
「えっ……? ちょ……、オサラバって、元の世界に帰れるの!?」
当然だ、というように礼夢は微笑んだ。
「今ならこの世界を創った野郎の手も塞がっている。高いびきを掻いている奴もまだろくに動けない。チャンスは今だけだ」
「ま、待って! それなら、近衛君も一緒に……」
「……あァ?」
あからさまに不機嫌な声と表情になる礼夢。
何というか、わかりやすい奴だ。少しだけ可愛いと思ってしまう。
しかし、これだけは譲れない。自分だけ助かるなんて絶対に認められない。私の親友が命懸けで守った人を見捨てるなんて出来なかった。
「寝惚けてんのか、てめぇ? あのオカマモヤシが腐れ眼鏡の相手をしているからこそのチャンスなんだよ。あんな野郎は置いて、さっさと逃げるぞ!」
オカマモヤシというのは多分、近衛君のことだろう。さすがに温厚な彼でも眉間にしわを寄せそうなネーミングだ。腐れ眼鏡は言うまでもなく武曽のことだ。
あの黒い影も言っていたが、この世界はやはり武曽が創り出したモノなのだろう。
だからこそ、近衛君が武曽を足止めしている今が、この世界に亀裂を入れて逃げ出すチャンス。その理屈はわからないでもない。
しかし、私は断固として、礼夢の提案を拒否する。
「駄目! 近衛君を置いていくなんて出来ない!」
「てめぇ……、そんなにオカマモヤシが大事なのか!?」
礼夢は顔を真っ赤にして食って掛かってきた。
こんな状況でなければ、結構可愛い奴と思えるのだが、今は礼夢のヤキモチを微笑ましく思っている余裕はなかった。
「へ、変な勘違いしないでよ! 今私がこうして生きていられるのも実乃里や近衛君のおかげなの! だから、私一人で逃げるなんて出来ない! ただ、それだけ!」
「他の奴のことなんて知ったことか! 言ったろ? 俺はお前を守るためだけに、ここにいるんだよ! 他の奴を守ってやる義理なんてねぇ!」
「私にはあるの! 実乃里も近衛君も私を助けてくれた! だから、私も二人を元の世界に戻す義務があるの!」
「んなこたァ、知るか! 俺は、俺の役割を果たすだけだ!」
礼夢は荒々しくそう言い切ると、空に向けて両腕を掲げた。業火の中より出でる深紅の二挺拳銃ガンズ・オブ・トワイライト。地上を焼き払った銃口は此度、天上の月へと向けられた。
……あれっ? 漆黒の月を見て、違和感が過ぎる。
違和感の正体にはすぐ気付いた。私が最初に見た時は三日月だった黒月は今、半月に近い状態になっていた。更には月自体の大きさも、にわかに巨大になっている気がした。
「ぶち抜いてやるぜッ!!」
特大の炎弾が遥か天空を目指して上昇していく。
白夜の世界を象徴する漆黒の月は、迫り来る灼熱の業火を嘲笑うように受け入れる。
天を揺るがすような大爆発が起こる。炎弾は続けざまに放たれ、空を焼き尽くすように業火と黒煙が入り乱れた。
と同時に校舎側でも変化が起きた。
新校舎三階の窓中から黒い霧が噴き出し、校舎の外壁まで溶解させた。あの黒霧は間違いなく近衛君の能力、腐食の闇だ。おそらく武曽の隙を突いて、咄嗟の反撃に出たのだろう。
武曽の隙が生まれた原因はおそらく、礼夢が黒月に対して行った攻撃。
あの月が白夜の世界を抜ける出口であるなら、そこを攻撃されて武曽は相当に焦ったのだろう。近衛君はその隙を突いた。
それに、あの黒霧は近衛君がまだ生存している証拠でもあった。
私は近衛君の無事に安堵の息を漏らしたが、礼夢はその様子に苛立ったらしく、壮絶に不愉快そうな顔で舌打ちした。
「ちっ! くたばってろよ、オカマモヤシが……」
「あんたねぇ、どんだけ心狭いのよ……」
「うっせぇ!」
礼夢は忌々しそうに校舎を一瞥し、顎をつんと釣り上げて天空を睨み付けた。
業火の嵐は今も続いていた。まさに嵐としか表現できない凄まじさだった。空には灼熱の黒雲に包まれ、火の粉という雨を降らす台風が今、私の上空に訪れていた。
黒き月を突き破ることが出来たのか。それは激し過ぎる炎熱の帳のせいで見ることは叶わないが、苛立った礼夢の表情を見る限り、芳しい状況ではなさそうだった。
「クソッ!! 望まれぬことは出来ねぇってか!?」
苛立たしげに吐き捨てると、礼夢は二挺拳銃を投げ捨てた。
攻撃を止めたかと思ったが、すぐにそれは違うとわかった。何故なら、彼の手から放たれる業火が新たな武器を生み出したからだ。
「陽光を貫く破壊の小銃ッ!!」
灼熱紅蓮のライフル銃、ペネトレイト・サンライズ。儀礼用の銃のように装飾されたライフルは、神罰を下すための槍のように見えた。礼夢はその神々しい小銃を、そのまま神の住まう遥か天空へと向けた。
天に向けられ小銃は真紅のレーザー光線を照射し、黒煙に隠れた月を正確に射抜いた。
すると、世界全体が激しく振動して、鼓膜を破るような金切り声を上げた。
これは白夜の世界の悲鳴だ。
武曽が創り出した幻想世界が壊れようとしているのだ。
近衛君を置いて逃げるつもりはなかったが、それでも否応なく胸が高鳴ってしまう。この世界から脱出口があると判明しただけでも興奮が隠せなかった。
「……ッ!? あァ!? ふ、ふざけんな……、そっちから仕掛けてくるか!?」
「えっ? どうしたの、礼夢?」
突如表情を歪めた礼夢はペネトレイト・サンライズを投げ捨て、私と実乃里の遺体を抱えて、その場から飛び退いた。
次の瞬間、世界が割れた。
誇張表現ではない。まさに割れた。いや、叩き斬られたというのが正しい。
漆黒の月の中から、深淵の闇を具現化したような巨大な刃が現れた。それは、ハラワタを引き裂いて現れる怪物のように壮絶な光景だった。
まさに世界を斬り裂く刃。
闇よりなお暗き漆黒の大剣は天空から地上を貫き、更には容赦なく大地を分断していった。黒の剣は大地のみならず、白い空までを容赦なく斬り裂いていった。ただの一刀で白夜の世界は、決して消えない巨大過ぎる傷跡を残した。
これは一刀両断と称するべきなのだろうが、あまりに規模が大き過ぎて、そんな言葉を使う気にはなれなかった。
「な、何……!? 何が起きたのよ!?」
「知るか! だが、まぁ、予測は出来るさ。俺以外でこの世界に割り込めるのは、夢幻の民以外にはいない」
「夢幻の民……? そういえば、黒い影もそんなのを言ってたね?」
「そりゃ……、……奴等の天敵だからな」
何故か礼夢は辛酸を舐めたような表情で呟いた。
礼夢と黒い影達だけが知っている『夢幻の民』という存在。
それは礼夢以外で唯一、この世界に侵入できる者であり、黒い影にとっての天敵。
一体何なのだろう? いや、そもそも理解できないことは、その夢幻の民とやらのことだけではない。白夜の世界そのもの、人間を襲う黒い影達、不思議な能力を使える覚醒者、黒幕と思わしき武曽のこと等々。
そして、不思議な存在である礼夢と、それを全く疑問に思わない私自身も……。
「来るぞ……ッ」
礼夢は緊迫感に満ちた表情で空を見上げた。私も遅れて空を見上げる。
黒き月を食い破った黒い傷跡から、白き翼を羽ばたかせた天使が舞い降りてきた。天使は空を覆う黒煙を薙ぎ払い、鷹が獲物を狙うように急降下して地上に着地した。
急降下の風圧によって地上を覆う焦げた土が舞い上がって私達の視界を奪った。撒き散らされた粉塵のヴェールはしばらくすると風に流され、地上に降り立った天使の姿を私達の前に晒し出した。
「むぅ……。焦げ臭い……」
「えっ……? 嘘でしょ……?」
焦げた砂煙の向こうから現れた人物に驚いたのは、彼女が私のよく見知った人物だったからだ。
「ふ、不破音緒!?」
「むぅ……? ………………国崎、小夜子?」
彼女は相変わらず眠そうな顔で私を見つめると、私の名前を思い出すのに数秒掛けた。マイペースというか、独特のテンポというか、正直とろくさい感じだ。
不破音緒。私と同じく霞ヶ原高校一年八組のクラスメイトだ。容姿端麗で成績優秀な美少女。絹糸のような綺麗な髪は流れる銀の滝のように真っ直ぐ腰まで伸びていた。日本人離れした美貌を持っているが、瞳の半分はいつも眠そうに閉じかけていた。
音緒には、眠り姫というあだ名が付けられていて、授業中はほとんど寝ている。それでも成績は学年上位なのが微妙にムカつく。
地上を降り立つ時に大きく羽ばたいていた白い翼はいつの間に消えていて、音緒は呆れるくらいにいつもどおりの装いだった。
というか、彼女は今、白夜の世界に降り立った。
では、最初の段階で白夜の世界にいなかったということだ。生徒は全員、体育館にいたのではないのだろうか。何故、今になって現れたのだろうか。
……って、そういえば、私も体育館じゃなくてグラウンドで目が覚めたんだ。
実乃里達が私のことを見つけて驚いた理由が今ようやくわかった。確かに、私は他のみんなと違うタイミングで白夜の世界に引き込まれたのか。
そして、音緒は……?
「出てきやがったな、夢幻の民……」
「貴方は……? …………あぁ、うん、わかった。とりあえず、敵じゃないね。だから、その物騒なのは仕舞ってくれると嬉しいな」
「…………」
礼夢はいつの間にか烈火の二挺拳銃を音緒に向けていた。そして、殺気だった表情のまま、銃口を下げる気配はなかった。
一方、銃を下げろと言った当人はさして礼夢のことを気にした様子もなく、マイペースで周囲をキョロキョロしていた。銃口を突き付けられても全く動じないとは、どういう神経をしているのだろう。
「むぅ……。それより武曽はどこ? 私は彼を倒しに来た」
「倒しに来たって……。音緒、あんた、今この世界に来たばかりなのに、何もかも知ってる感じだけど、どうしてなの?」
「何もかも知っている訳じゃない。でも……、……ッ!?」
音緒は弾かれたように旧校舎側に振り向いた。
武曽が今いるのはおそらく新校舎側だ。近衛君との戦いが続いているはずだ。その証拠に断続的に窓から黒い霧が噴き出し、頑強な鉄筋コンクリートを腐敗させていた。
では、何故音緒は旧校舎を見たのか。私も音緒に釣られて旧校舎に視線を向けた。
そして、その信じられない光景に驚愕した。
それはジャックと豆の木という童話を彷彿させる光景だった。
ジャックと豆の木。少年ジャックが市場で売るはずだった牝牛を、途中で出会った男の持つ豆と交換してしまった。豆を持って帰ると母は怒り、庭に豆を捨てるように言う。ジャックは言われたとおりに庭に豆を捨てると、その翌日に豆は雲まで届く巨木になった。以降詳細は省くが、雲の上の巨人の財産を奪って、幸せに暮らしたという話だ。
空まで伸びようとする巨木。
いや、あれは数多の薔薇が絡まった茨の尖塔だ。
茨の尖塔は幾重にも重なり、遥か天上の月を目指して伸びていた。その塔の頂上にいるのは一人の女子生徒だった。この距離では個人を特定するのは無理に思えるが、あんな綺麗な金髪をした女子生徒はウチの高校に一人しかいない。
レオノーラ・ロゼッタ先輩。日本在住のイギリス人。現在二年生。その美貌に釣られて告白する男子がワラワラと湧いてくるそうだが、その全てを容赦なく振っているらしい。決して触れられない孤高の薔薇、茨姫と呼ばれていた。
全くの余談だが、ウチのクラスの眠り姫も実はかなりモテる。いつも寝てばかりだけど、音緒はやっぱり美人なので、馬鹿な男達はホイホイ寄りつこうとするのだ。告白は全部断っているらしいが。閑話休題。
レオノーラ先輩はおそらく覚醒者なのだろう。あの茨を操って尖塔を作り、漆黒の月を目指していた。
遥か高き漆黒の月は、白夜の世界の出口だ。
あの先を越えれば元の世界に戻れるのだろう。ならば、そこへ目指すのは当然だ。レオノーラ先輩の能力なら、あの月まで届くかもしれない。
だが、この妙な胸騒ぎは一体何だろう……?
「むぅ! 危ない!」
「音緒!」
音緒は突如駆け出し、大地を蹴って空へと飛び立った。彼女の背には再び白い翼が広がり、一度大きく羽ばたくと一気に急上昇した。
レオノーラ先輩は黒月を目指しており、下から近付く音緒には気付いてなかった。
漆黒の月が変化したのは、音緒がレオノーラ先輩を背後から掴む直前だった。
月の闇は一気に肥大して巨大な獣の口となって、レオノーラ先輩を呑み込もうとした。しかし、すでにレオノーラ先輩の背後まで回り込んでいた音緒が彼女を抱えて、闇の牙を間一髪のところで回避した。
音緒はそのままレオノーラを抱えて私達の元まで戻ってきた。月より伸びた闇の顎は彼女達を追わず、月の中へ戻って行ってしまった。
「むぅ……、危なかった……」
「ちょ、ちょっと離しなさい! 私に触れるな!」
「むぅぅッ!? あ、危ない!」
猫の子みたいに抱えられていたレオノーラ先輩が茨鞭で音緒の手を狙い打った。音緒は間一髪のところで鞭を避け、その拍子に放り出すようにレオノーラ先輩を手離した。
レオノーラ先輩は信じられない反射神経で地面に着地すると、優雅に立ち上がって私達を憎々しそうに睨み付けた。
「……あんた、さっきあの月から来た子ね? 何者なの? あそこがこの狂った世界の出口なの! 答えなさい!」
金色の髪を掻き上げ、レオノーラ先輩は激しい口調で問うた。
私もまた同じ疑問を持っていたので、固唾を呑んで音緒の返答を待った。
二人の視線を受けた音緒は一度静かに顔を伏せた後、白と黒に蝕まれた異世界の空を仰ぎ見た。彼女の視線に釣られて私とレオノーラ先輩も空を見上げた。
異世界の空、あの向こう側に私達の帰るべき世界があるのだろうか。
それは漆黒の月を破り、白夜の世界に舞い降りてきた音緒しか知らないことだろう。
感傷に浸ったのは数秒だろうか。とても長い時間、あの不気味ながらも美しさを湛える漆黒の月を見つめていた。
音緒が口を開いのは、私が感傷から戻って彼女に視線を戻した瞬間だった。
「あの月は確かに出口。でも、貴方達にはあそこを越えて現実に戻ることは出来ない」
「どうして!? 貴方はあそこから出てきたじゃない!?」
「それは順を追って説明する。だから、まずは自己紹介。私、貴方のこと知らない」
「自己紹介って、何でそんなことを……」
「しないと話が進まない」
「進むわよ! 貴方がとやかく言わずに全てを説明すればいいだけでしょ!」
「しないと説明しない」
「こ、この……」
音緒独特のマイペースに巻き込まれ、レオノーラ先輩はウンザリした様子でこめかみを押さえた。まぁ、気持ちはわかるので少しだけ先輩に同情した。
「……レオノーラ・ロゼッタよ」
「そっちの子は?」
次に標的になったのは礼夢だった。
礼夢は案の定、鬱陶しそうな顔で音緒を睨み付けた。
「……あァ?」
「しないと斬る」
「ちょ、物騒なことを言うな!」
一触即発の空気になる前に音緒の頭をはたく。
「むぅ……、何するの、国崎?」
「あんたが変なこと言うからでしょ! 大体……」
「いい、小夜子。自己紹介くらいしてやる。……俺は礼夢だ。真城礼夢」
……真城? あれっ? そんな苗字だっけ……?
「じゃあ、ついでに小夜子も」
「何で私まで……」
と文句を言いかけたところで、レオノーラ先輩のことを思い出した。彼女とは初対面なので確かに自己紹介が必要だった。
「え、えっと、一年八組の国崎小夜子です」
ぺこりと先輩に一礼をするが、レオノーラ先輩はツンとそっぽを向いて鼻を鳴らした。どうやらこの人は男子のみならず、女子や後輩にも冷たいようだった。軽くイラッとするが、ここで突っ掛かるのも大人気ないので不満は呑み込んだ。
「あとはあんただけよ」
「……私は……」
「国崎!? 無事か!?」
音緒が話を語り出す直前、聞き慣れた声が割り込んできた。
この声はまさか……? 慌てて声のした方へ振り返ると、そこにはボロボロになった近衛君の姿があった。
「えっ? こ、近衛君!」
どうやらグラウンドでの一連の騒ぎを聞き付け、私を見つけたようだった。
私達は死神の鎌に狙われながらも互いに生きて再会できたことを喜び合った。しかし、他の連中はあまりに淡白だった。礼夢はやたら不機嫌そうになるし、音緒はクラスメイトなのに近衛君のことを覚えてなさそうな顔しているし、レオノーラ先輩に至っては全く興味がなさそうだった。
「よく武曽を相手にして無事だったね?」
「うん、本当に運がよかったよ。咄嗟の隙を突くことが出来て……。国崎の方も大変だったみたいだね」
「むぅ! 君、あの武曽と戦っていたの?」
音緒が驚いた表情で近衛君に詰め寄った。このマイペース娘が驚く姿は結構レアだ。
「えっ? う、うん。さっきまで」
「その話、詳しく!」
「……ごめん。今は少し待ってくれないかな」
詰め寄ってくる音緒を押し退け、近衛君は私に近寄ってきた。いや、正確には私のすぐ側で眠る実乃里の元へ、だ。
命辛々で逃げ延びていたので、私も実乃里も土塗れ埃塗れだった。出来れば、近衛君のためにももう少し綺麗な形で実乃里を守ってあげたかった。
「実乃里……。ごめん……。ごめん……」
近衛君は静かに跪くと、もう二度と目を覚ますことない実乃里を優しく抱き締めた。そして、誰に憚ることなく涙を流した。
最愛の人を亡くした近衛君の慟哭を邪魔する者はいなかった。
事情を知らない礼夢達も察してくれたようで、痛ましい彼の叫びを妨げることはなかった。ただ静かに見守り、黙祷を捧げ、近衛君と共に見ず知らずの実乃里の死を悼んでくれているようだった。
そして、近衛君はどれだけの時間を泣いていたのだろうか。ようやく泣き腫らした顔を上げた。
「……国崎、実乃里をあいつ等に渡さないでくれてありがとう。大変だったろう?」
私の泥塗れの制服や、焼け焦げたグラウンドを見て、近衛君はいろいろと察してくれた。彼は深々と頭を下げて私に感謝した。そこまで感謝されると正直恥ずかしかったが、悪い気にはならなかった。
実乃里は私にとっても親友だ。あんな化け物には渡したくなかった。だから、近衛君に頼まれなくても私は同じことをしただろう。しかし、最後まで挫けずに実乃里を黒い影達に渡さずに済んだのは、近衛君との約束があったからだと思う。
「ははは。軽く死に掛けたけど、礼夢に助けてもらったから」
「そういえば、いつの間にか人がたくさん増えてる。恥ずかしいところを見られちゃったな……」
「別に恥ずかしくなんてねぇよ」
予想外の人物から、予想外の言葉が飛び出した。
まさか口の悪い礼夢から近衛君を気遣うようなセリフが出るとは思ってもみなかった。
「惚れた女を亡くして泣かない奴なんてクソだ」
「…………ありがとう」
「ちっ……」
その舌打ちがなければ満点だったんだけどね。でも、礼夢にしてはいいことを言った。
私達がそんなやり取りをしていると、遠巻きに私達を見ていたレオノーラ先輩が近寄ってきて、実乃里の遺体の前で膝を突いた。
「……その子を置いて、ちょっと退いてなさい」
「えっ?」
レオノーラ先輩の物言わぬプレッシャーに圧され、近衛君は言われたとおりに実乃里をゆっくり地面に置いて数歩下がった。
近衛君が下がったことを確認すると、レオノーラ先輩は実乃里の手をそっと掴み、埋葬される死者にするように遺体の胸に置いた。そして、厳かに額の上で十字を切り、静かに実乃里のために祈りを捧げてくれた。
「……せめてもの手向けよ」
パチン、とレオノーラ先輩が指を鳴らすと、制服の袖から薔薇の蔦が伸びた。無数の茨は優しく実乃里を包み込むと、彼女に安らかな眠りを与える棺桶となった。幻想的な棺桶の装飾は痛ましい実乃里の傷跡を隠し、そこに横たえられた彼女は本当に眠っているようにしか見えなかった。
まさかレオノーラ先輩が見ず知らずの実乃里のためにこんな手向けをしてくれるとは思ってもみなかった。
「あ、ありがとうございます……」
「ふん、礼を言われるほどのことじゃないわ」
少しだけ頬を赤くしたレオノーラ先輩はつんと顎を跳ね上げた。
冷たそうに見えて、意外と優しい人なんだ……。
「それに、こんなのはただの気休めよ。奴等は死体であろうと構わず食らうわ。そして、この世界で奴等から逃れられる場所なんてない。いつかは……」
「……それでも、先輩の気遣いは嬉しいです」
「ふ、ふん……」
ツンデレ可愛い。
しかし、レオノーラ先輩が言うようにこの世界に安全な場所などない。奴等は人の心を踏み躙るためなら何でもする。実乃里の遺体を放置しておけば、どんな辱めを受けるかわからない。
「……だったら、奴等が触れられないようにすればいいだけだ」
「えっ……?」
「古来より死者の送り方は、灰に還すものだ……。まぁ、還す土がこの世界の腐った土ってのは納得がいかないかもしれないがな」
礼夢は燃え盛る右腕を見せ、そう提案した。彼が言わんとするのは、つまり火葬だ。確かに礼夢の炎ならば、骨も残さずに灰になるだろう。
「……どうする?」
「それは…………」
近衛君は安らかな寝顔を浮かべる実乃里を見つめる。
私達がどれだけ望んでも彼女が目を覚ますことはない。死者は静かに送ってあげるのが正しい。そして、今できる最善は礼夢の力による火葬以外にないだろう。
しかし、私にしてもそうだが、近衛君もまだ実乃里の死に対して心の整理が出来ていなかった。もう二度と手の届かないところへ実乃里が逝ってしまうことを受け入れたくなかった。
近衛君はそっと実乃里の頬を撫で、静かに目を閉じた。
「……僕は最期まで君に好きだって言えなかった」
彼がそれを口にする寸前、あの惨劇は起きてしまった。
確かに近衛君の言葉は届かなかったかもしれないけど、その心はきっと届いたはずだ。しかし、それを私が口にしても気休めにすらならない。
近衛君の想いに応えられるのは実乃里だけだ。
その実乃里がもう二度と応えられないのなら、私達にはただ見守ることしか出来なかった。歯痒いことだけど、仕方がない。
「…………」
近衛君は決意したように瞳を開き、名残惜しそうにゆっくりと立ち上がった。言葉を紡がなくても、その背中から彼の想いは伝わってきた。
「……頼むよ」
「あぁ、わかった……。下がっていろ」
私達は礼夢の指示どおり、グラウンドから離れて校舎に向かう階段まで移動した。
そして、しめやかに執り行われる実乃里の葬儀を見守った。
灯火のように燃える両手を掲げ、礼夢はゆっくりと薔薇の棺桶に近付いていく。葬送の炎は静かに薔薇へと燃え移り、棺桶はゆっくりと燃えていく。礼夢が一歩ずつ後ろへ下がっていくたびに火葬の炎は大きくなり、天へ届かんばかりに高く立ち昇っていった。
爆ぜる火の粉のパチパチという音だけが静寂を破る。どこまで燃え上がる炎からはキラキラと光の結晶が舞い散り、実乃里が私達にお別れを言っているようだった。
止め処なく涙が溢れてくる。
葬送の火柱を見て、ようやく実乃里の死を実感した。
周囲を顧みずに騒ぎばかり起こすお転婆娘ともう二度と会えないと心の底から痛感して、ボロボロと涙が零れてしまうのだ。親友の死を悼む涙をどうして止めることが出来るだろうか。私は嗚咽を漏らしながら静かに泣いた。
「……小夜子」
「うぅ……、えっぐ……。れ、礼夢……」
戻ってきた礼夢が何も言わずに私を抱きしめてくれた。
私は礼夢の胸に顔を埋めて、全ての想いを吐き出すように泣き叫んだ。彼は私の慟哭が漏れ出さないように私を強く抱き締めてくれた。だから、私は誰にも遠慮することなく思い切り泣くことが出来た。
もう誰かが死ぬのは見たくない。
こんな狂った世界なんてなくなってしまえ。
「……お前がもう誰も死なせたくないなら、この世界を終わらせたいなら、俺がその願いを叶えてやる」
「うん……、うん……、ありがとう、礼夢……」
礼夢に慰められながら、私はもう一度だけ葬送の火柱を見つめた。
遥か空まで届きそうだった葬送の火柱は次第に小さくなっていき、静かに消え去ってしまった。そこには何も残らず、あそこに実乃里がいたことさえ嘘のようだった。
近衛君は涙を流しながらも、燃え尽きたその場所をまっすぐと見つめていた。今、彼の胸に去来する想いを推し量ることは誰にも出来ないだろう。
「近衛君……」
「僕は大丈夫だよ。おかげで心の整理が出来た」
大切な人を亡くして、そんなすぐに心の整理が出来るはずがない。しかし、近衛君は私達にはそんな様子を見せずに微笑んでみせた。
「……ありがとう。おかげでもう実乃里の眠りは誰にも邪魔はされなくなったよ」
「小夜子のためにやったことだ。てめぇに礼を言われる筋合いはねぇ」
礼夢は恥ずかしいことを平気で言う。私は彼みたいに面の皮が厚くないので、赤くなった頬を隠せないのに。
「ははは……。愛されてるね、国崎」
「うっ……。べ、別にそんなことは……」
「あァ……?」
邪悪な笑みを浮かべた礼夢はズイッと私に近寄ると、思い切り私の頬を抓り上げた。
「ふがががッ!! にゃにをしゅうの(何するの)ッ!?」
「調子に乗るなよ、てめぇ?」
「おみゃへがゆうにゃあああ(お前が言うなあああ)ッ!!」
私は礼夢の手を振り払って、仕返しに陸上部仕込みの必殺キックを食らわせてやった。しかし、礼夢は簡単にそれを避けて、代わりに私にデコピンをしてきた。
くそぉ……、まともに喧嘩したって勝てないか……。
「さっきから気になってたけど、あんたも何者なのよ? ウチの生徒じゃないわよね? こんな馬鹿みたいに目立つ赤頭が学校にいれば、気付かないはずがないし」
「あァ? てめぇ……って、何しやがる、小夜子!」
レオノーラ先輩にまで喧嘩を吹っ掛けそうな雰囲気だったので、私はこの短気小僧の首根っこを引っ掴んだ。
「あんたはちょっと黙ってなさい!」
「ちっ……」
意外と順々に従う礼夢。……結構可愛い奴?
「レオノーラ先輩、こいつはえっと……、私の幼馴染なんですよ。私が八年前に引っ越しをする前に少し会っただけの仲なんですが……」
そこから先は言葉が出なかった。
言葉にすると八年前に少し会っただけの人物。それ以上のことは何も知らない。というか、そういう人物を幼馴染と呼んでいいのかさえ怪しい。
私が言葉に詰まっていると、見かねた音緒が助け船を出してくれた。
「むぅ、彼のことも含めて詳細な話をするなら移動する方がいい」
「そうだね。あっ、行くなら新校舎は止めた方がいいよ。さっきまで武曽と戦ってたせいで内部がほとんど腐敗してるから、いつ崩れるかわからないんだ」
近衛君が少し恥ずかしそうにそう言った。
武曽とは随分と派手に戦ったようだ。あの実乃里さえ敵わなかった相手なのだから、決して楽な戦いではなかったはずだ。それを本当によく生き残ってくれた。
「じゃあ、ひとまず旧校舎の方へ行こう」
「……なら、急いで。全てを説明するには立ち話じゃ長過ぎる。本当なら、貴方達に事情を説明している時間だって惜しいの」
音緒は普段のぼんやりした態度を一変させ、厳かにそう告げた。
これから語られるようとする真実に身震いを感じ、私達は思わず息を呑んだ。
私達はようやく白夜の世界の真相を知ることになる。だが、この狂った幻想世界の真実など、まだ全ての真相の序章に過ぎなかった。
真実とは禁断の果実。無知であることは飢えであり、真実という果実を求めてやまない。だが、その果実の中に潜む甘い毒の存在など考えもしない。ただ貪り食らい、毒の苦痛にのたうち回ってから初めて後悔するのだ。
白夜の世界、それは本当の悪夢を内包する舞台に過ぎない。私が知ったのは、自らが足を踏みしめて立つ大地のことだった。本当の悪夢はまだ深い霞の向こう。
知るべきではなかったと後悔する真実。
私がそこへ至るのは、そう遠くない未来のことだった。
……黒い月は今、静かに満ちようとしていた。満月となる時間はもう間もなくだった。
To be continued