第三夜 届かない想い
「……み、実乃里……」
「実乃里ィィィィィィィィィッ!!」
近衛君は私を放り出して、動かなくなった実乃里の元へ駆けていった。
私もショックで動転していたため受け身も取れず床に腰を痛打したが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。私も実乃里の元に行かなければ。
腰が抜けていることなど忘れて立ち上がろうとする。しかし、まだ上手く立つことが出来ず、勢いだけが空転して顔から床に突っ込んでしまった。
「実乃里、実乃里、実乃里ィィィッ!!」
近衛君の悲痛な叫びが、鼓膜ではなく私の心に直接響いた。
大切な女の子を守りたい、彼がそう言ってからまだ数分も経っていなかった。
それなのに、こんな結末はあまりに酷過ぎる……。
「職員室では静かにしたまえ、近衛」
「かはッ!?」
武曽が指を弾くと、彼の側にあった椅子が触れてもいないのに近衛君に向けて飛んで行った。近衛君は弾丸のように飛んできた椅子を回避できず、そのまま弾き飛ばされた。
「近衛君ッ!!」
「う、うぅ……。み、実乃里……」
よかった、近衛君は無事のようだ……。
近衛君は脳震盪を起こして立ち上がれないようだったが、命に別状はなさそうだった。それでも、まだ実乃里の名を呼んで、未だに痙攣一つしない実乃里の元へ向かおうとしていた。
彼の真っ直ぐな想いには心打たれるが、実乃里の元へ向かうには、あの忌まわしきクソ教師を乗り越えなければならなかった。
それは力なき近衛君には不可能なことだった。例えるなら、巨大な雪山を前にして何の装備もなく登頂を目指すことと同じだ。覚醒者であり、万全の装備を持った実乃里ですら登れなかった山を、覚醒者ですらない彼が登れる道理はなかった。
「さて、残りは覚醒者でもない人間が二人か……」
「武曽先生、どうしてこんなことを……!? この白夜の世界のことも、黒い影のことも、全部貴方の仕業なんですか!?」
「……冥土の土産に教えてやるのも一興だが、無能に弁を語るのは趣味ではない」
武曽は笑みを浮かべながら、倒れ伏す私達にそう言い放った。
その笑みからは普段のシニカルさは消え去り、嗜虐的、嘲笑的としか呼べない悪意塗れのものになっていた。
だが、今の発言は逆説的に、武曽はこの世界のことを知っていると宣言しているようなものだった。いや、この世界そのものに関与していると断じてもいいだろう。
つまり、この白夜の世界で私達が苦しんでいるのは、全てこの男のせいなのだ。
許せるはずがない。こんな悪魔を絶対に許せるはずがなかった。
だけど、私には抗う力さえなかった……。
悔しいけど、何も出来ない……。
「む、武曽……」
「せいぜい何も守れなかった己が無力を呪い、絶対的な力を持つ者に蹂躙される恐怖を味わえ。お前達に出来ることは、絶望のハーモニーを聞かせて私達を喜ばすくらいしかないのだからな? くくく……」
武曽は倒れたままの実乃里の頭を踏み躙り、堪え切れない残虐な笑みを噛み殺していた。
何故、笑いを堪えるのか。私達が絶望のハーモニーとやらを奏でるまで哄笑するのを我慢しているのだ。その方が私達により屈辱を与えられ、なおかつ我慢していた方がそれを解放した時の楽しみが増すからだ。
なんて非道な奴なんだ、この男は……。こいつは人間なんかじゃない。あの黒い影と同じように人間の皮を被っているだけで、本当は腐った化け物なんだ。
「実乃里から足を退けろ、クソ眼鏡ッ!!」
怒りに満ちた近衛君の怒声が職員室に響いた。
温厚で滅多に声を荒げない彼が初めて見せる怒りの咆哮だった。
守れなかった大切な女の子。それを目の前で踏み躙られる屈辱は、きっと私には理解できないほど辛いものだろう。
彼にだって何も出来ない。それはわかっているだろう。
だけど、それでも絶望して倒れている訳にはいかなかったのだ。
目の前で誰よりも大事な女の子がいるのだから。
「そんなに常盤が大事か、近衛? なら、この女が化け物達に文字どおりズタボロになるまで凌辱させるところを見せてやろう。おっと、これならすぐに殺さない方がよかったな。だが、いいさ。死体でもそれなりに愉快な催しになるだろうからな」
「武曽、貴様ァァァァァァッ!!」
拳を固めて近衛君は無謀にも真正面から武曽に殴り掛かった。
しかし、私達は覚醒者でもない無力な人間なのだ。実乃里を一撃で倒すような武曽に、我武者羅なだけの拳が届くはずもなかった。
それどころか、彼は自分の足元に広がる黒い闇にさえ気付かなかった。
黒い両腕で近衛君の足を掴み、その怒りの歩みを止めた。しかし、あまりの急制動に勢いを殺しきれず、近衛君は顔面から床に転倒した。
「無力な人間は這いつくばっている姿こそが相応しい」
「ぐぅぅ……。くそ、離せッ!! 離せよ、この野郎ッ!!」
近衛君らしからぬ荒々しい抵抗。いや、誰だって抵抗は荒々しくなるものだ。
しかし、黒い汚泥から生えた腕は近衛君の足を掴んだまま、彼がどれだけ抵抗しても離そうとはしなかった。私も一度あれに掴まれたからわかるが、力があまりに違い過ぎる。
近衛君は倒れたまま、憎々しげに武曽を睨みつけた。
「さて、近衛。君に選ばせてやろう。愛する女が化け物に獣的に犯されるのを見るか、それとも猟奇的に食われるのを見るか。どちらでも構わんぞ。こんな死体の始末など、私にとっては興味ない」
「武曽ォォォォォォッ!!」
吠えるように叫ぶ近衛君だったが、その手は武曽に届くことはなかった。
それはまるで鎖に繋がれた狂犬のようだった。いかに犬が吠えても鎖を引き千切れるはずもなく、鎖の届かない範囲にいる限りは絶対に安全。
仮に鎖が外れたとしても、近衛君では武曽に一矢報いることも出来ないだろう。
それがわかるから、今目の前の光景は見るに堪えなかった。
「畜生ッ!! どうして、こんな時に僕に力がないんだ!? どうして、能力が目覚めてくれないんだ!? 実乃里を守ることさえ出来なくて、目の前でまた非道なことがされようっていうのに!? どうして、僕には力がないんだァァァッ!!」
「くくく……、はっははははっ!! 無力無能な奴の嘆きほど笑えるものはないな。まだ目の前で女をボロボロにしてやる前から、こんなに笑わせてくれるとはな」
「くそ……、どうして僕には何の力がないんだ……」
近衛君は感情に任せて何度も拳を床に叩きつけ、その拳からは赤い血が流れていた。
せめて覚醒者の力さえあれば、結果はともかく実乃里のために戦うことが出来た。けれど、それすら出来ず、目の前で大好きな女の子を悪党の好き放題にされかけている。
私も切に願う。この世界に神様がいるなら、彼に力を与えてほしい。
どんな力でもいいから、せめて大切な子のために戦える力を。
「奇跡など起きんよ」
武曽の言葉どおり、近衛君は何の能力に目覚めず、ただ床を這いつくばって無駄な抵抗を繰り返すしか出来なかった。
「どうして……、どうしてなんだよ……」
こんな必死に願っているにもかかわらず、神は非情にも彼を見捨てた。
ついに近衛君は暴れることも止め、ボロボロと悔し涙を零した。
覚醒者という希望があったから彼は抗うことが出来たが、その希望に届かないと気付いてしまえば、もう心が折れるのはあっという間だった。
「ふっ……。君は抵抗しないのかね、国崎」
「…………」
そんなことが出来るなら、とっくにしている。
腰を抜かして動けなかった私はそもそも逃げることさえ出来なかったし、気付けば周囲には黒い汚泥が点々と広がっていた。
仮に動けたとしても逃げられないのは目に見えていた。
もう私達は駄目だ……。この期に及んでも能力に目覚めない私達は抵抗すら出来ず、武曽達の玩具にされて殺されるんだ……。
恐怖も許容量を超えてしまうと、脳が麻痺して感情を止めてしまう。私はただ絶望に伏すことしか出来なかった。
「さて、君達の無様な足掻きはそれで終わりか? ならば、泣き叫べ。悲鳴を上げろ。声を上げられないというなら、この女の亡骸を使ってもう少し楽しませてもらうぞ?」
「止めろッ!! 止めてくれッ!!」
「そうだ、そうやって哀れっぽく泣き叫んでいろ。生き血という名のワインを啜り、その味を味わった後は、臓物という名のパンを千切り食らう。無様な乞食が泣き叫ぶ前でな。これほど愉快で優越感を感じられることはないぞ。はっははははっ!」
武曽は踏みつけていた実乃里の頭を掴み、片手で軽々と血塗れの彼女の身体を持ち上げた。
「実乃里に……、僕の女に触るなァァァァァァッ!!」
近衛君の悲痛な叫びが白夜の世界に木霊するが、その絶叫に応える者はいなかった。私も近衛君も何も出来ない自らの無力さを呪い、ただ見ていることしか出来なかった。
言葉だけでは届かない現実がある。
想いだけでは変わらない運命がある。
現実は何故、ここまで無慈悲なのだろうか。これだけ強い想いがあっても、それは理不尽な運命を壊す鉄槌にもならない。ならば、想うことは無意味なのか。届かない言葉には何の力も宿らないのか。
そんなことはないと信じたい。だけど、現実は何も変えられ……。
「……全く、泣き虫だなぁ……」
「なッ……!?」
か細く微かな声であったが、それでも私達の耳にはその声が届いた。
近衛君の言葉は確かな力となって、実乃里の元へと届いていた。
実乃里は武曽に掴まれた状態のまま金色の槍を顕現させる。空間に捻じ込むよう現れたエクレールは、それまでの自らが降臨すべき場所にある全てのモノを押し退ける。
すなわち、顕現することによって黄金槍は武曽の腹を貫いていた。
「がァ……、あァ……ッ!? まさか……、まだ生きてたとは……」
「……私も、ビックリだよ……」
今の実乃里は生きているのがやっとの状態で、槍を振るうほどの力はなかった。だが、零距離からの顕現によって武曽の腹を穿ち、更には激しい電撃を放って追い打ちを掛けた。
「ぐあああああああああッ!!」
「くたばれ、クソ眼鏡……」
これまで余裕の表情を浮かべていた武曽が初めて苦悶の叫びを上げた。
容赦なき稲妻は徹底的に武曽の身体を蹂躙し、もはや絶対に生きてはいられないほどに黒焦げに焼き尽くした。
電撃は更なる拡大を広げて、近衛君を捕える黒い腕を一瞬にして焼き払い、私の周囲にいる黒泥を完全に蒸発させた。
「実乃里ィィィッ!!」
黒の束縛から解放された近衛君は一直線に実乃里の元へ駆けた。
全ての敵を焼き尽くすと、黄金の電流は小さな火花を散らしながら終息していった。パチパチと爆ぜる火花に頬を軽く焼かれながらも、近衛君は必死で走った。
雷にも匹敵する激しい電撃を浴びた武曽は煙を上げながら倒れる。それは同時に、彼に頭を掴まれ持ち上げられている実乃里も地面に墜落する結果になる。
実乃里は身体のど真ん中を貫かれた瀕死の状態。とても受け身を取れる状態でもないし、床に叩き付けられた衝撃に耐えられる保証もなかった。
だから、近衛君は全力で実乃里の元へ向かっていた。落ちていく彼女を抱き留めるために。
「実乃里ッ!!」
「……まこ、と……」
床に落ちる寸前の実乃里を、近衛君が滑り込んで受け止めた。
大事なお姫様を受け止めた近衛君は、瀕死の彼女を苦しめないように優しく抱き締めた。実乃里は本当に大切で愛おしそうに抱き締められていて、それは女の子として羨ましくなるくらいの無限の愛情を受けていた。
だから、本当は傷口が灼熱の焼き鏝を押し当てられるように痛んでも、実乃里は心の底から幸せそうな笑顔を浮かべられた。
「僕の女、だって……? 全く、図々しい、よ……?」
嬉しいくせに憎まれ口を叩く実乃里。
この期に及んでも素直でないのは彼女らしかった。けれど、もう素直になってもいいと思う。実乃里には多分、もうあまり時間は残されていないのだから。
傷口から零れる実乃里の命は、近衛君の身体を真っ赤に染め上げていた。
「ごめん……。でも、君を誰にも渡したくなかったんだ。いや、誰にも渡せないんだ。君は僕のモノだ。僕だけのモノにしたい」
「……それはそれで、嬉しいセリフ、だけど……、こういう時は、もっと、ズバッと……一言だけで、いいんだよ……?」
「そう、だね……。そうだよ。ただ一言だけでよかった。いつもそれを言う勇気がなくて……、ごめん……」
「……私が、聞きたいのは、そんな謝罪じゃ、ないよ……?」
実乃里が最後の力を振り絞って、彼の背中に手を回し、ぎゅっと抱き付いた。
だから、近衛君の背中に向こうにいる悪意に逸早く気付けたのかもしれない。私も一瞬遅れて、それに気付いた。
近衛君は気付けない。それに対して背を向けていたから。
だから、私は有らん限りの声で叫んだ。
「実乃里、君のことが……」
「二人とも、逃げてェェェッ!!」
言葉だけでは守れない、想いだけでは守れない。
力がなければ、現実を変えることは出来ない。
その二つを持っていた実乃里は、運命を変えるために行動した。自分を抱き締める近衛君の腕を振り払って彼を突き飛ばした。しかし、今の彼女にはそれが限界だった。
それからは全てがスローモーションに映った。突き飛ばされて倒れる近衛君。彼を突き飛ばした状態のまま崩れ落ちる実乃里。
そして、黒い影の身体から槍のように伸びる七本の触手。
骨肉が貫かれる不協和音が白夜の世界に響いた。
七本の黒槍が実乃里の身体を貫く音。多分、私は一生この音を忘れられないだろう。目の前で起きた親友の死を忘れられるはずもない。
「み、実乃里……」
「……よか……、った……。まこ、とが……無、事で…………」
それは、心の底からの安堵の表情だった。
光の消えかけた実乃里の瞳はただ真っ直ぐに近衛君だけを見つめていた。
自分が今まさに死に逝く寸前であっても、ただ一人の男の子のことだけを想う。それだけの強い想いが彼女にはあった。
大切な人を守りたかったのは、近衛君だけではなかった。
実乃里もまた大好きな人のためなら命だって賭けられた。
そして、彼女はそれを本当にやってみせた。
命を賭けて近衛君を守り抜いた。
そんな実乃里の最期は誰よりも純粋な愛に満ちていた。君のためなら命を賭けられる、と言った者達の何人が実際にそうすることが出来るだろうか。この白夜の世界で間近に死を感じ、その恐怖を痛いほどに感じていたはずなのに、それでも実乃里は自らの命を差し出してまで、愛する人を守り抜いた。
だけど……、だけどね……、実乃里…………。
残された近衛君の気持ちは……、きっと誰よりも悲しくて辛いはずだよ……。
「実乃里ィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ!!!」
残された者の慟哭が響く。
血と惨劇に満ちた白夜の世界に。
これが今、私達のいる世界の現実だった。
To be continued