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第十三夜 絶対の意志は朝日よりも眩しく


心を蹂躙する漆黒の闇。

遥かなる夢幻の海底に存在する汚辱の澱み。

夢見る全ての存在の負の感情が沈殿した悪夢達の故郷、ナイトメア領域。


不破音緒が堕ちたのは、そんな永遠の闇に閉ざされた場所だった。視覚は暗闇に遮られ、嗅覚は腐臭に麻痺し、触覚は泥に包まれたような感覚に惑わされている。五感がほとんど役に立たない。粘着質のある液体の中に沈んでいるようだった。

ただそこにいるだけで溺れるような苦しみが襲ってくる。ナイトメア領域に沈殿する負の感情が音緒の心の中に入り込んでくる。


不安。恐怖。苦悩。孤独。無念。恥辱。絶望。後悔。悲哀。不満。憎悪。憤怒。嫌悪。嫉妬。軽蔑。羨望。空虚。陰鬱。葛藤。劣等感。罪悪感。


数え切れない負の感情の大群。もはや言語化が出来ないほど複雑な感情の数々。誰もが目を背けたくなるような地獄のような苦痛だ。


これは悪夢だ。夢見る全ての者達を苦しめた悪夢。

負の感情を孕んだ悪夢は、音緒の魂を蹂躙しようと心の内側に入り込もうとしていた。例えるなら、数え切れない精子達が一つの卵子に群がるように。


普通の人間ならば、数秒も保たずに発狂してしまうだろう。生きるために必要なあらゆるものが奪われるような場所だった。


だが、音緒は夢幻の民として悪夢に対する耐性があった。固く心を閉ざして、強引に頭の中に侵入してくる負の感情を拒んでいた。それでも、そう遠くなく限界が訪れるだろう。いくら夢幻の民であっても限界はある。武曽の宣言したとおり、数分もすれば音緒の精神は崩壊するだろう。


だが、音緒はまだ諦める訳にはいかなかった。

武曽には何か思惑があって、音緒をこの場所に送り込んだ。


音緒はそう信じていた。彼女が尊敬する師は、弱みに付け入られて悪夢に屈するような人物ではない。むしろ、従った振りをして性質の悪い反撃を画策しているような気がする。あの人の性格の悪さは、弟子として熟知していた。


(……むぅ、私って師匠の性格には恵まれない……)


ふと前の師匠のことを思い出し、音緒は苦痛塗れの状況で苦笑してしまう。


音緒の本来の師は、真城白亜だった。今の師である武曽も傲岸不遜で大分性格が歪んでいたが、白亜も大分困った性格だった。子供の頃から何度も酷い目に遭わされ、いろいろ苦労をさせられた。


真城白亜の性格を一言で、とんでもないトラブルメーカーだった。服の中にカエルを突っ込んだり、寝ている間に人の顔に油性ペンで落書きをしたり、とてもとても大人げない人だった。弟子として一緒にいる時間が長かった音緒はいつも散々な目に遭わされていた。


しかし、白亜亡き今では、あんな騒々しい日々も大切な想い出だった。


(……白亜姉さん……。そうか、白亜姉さんだ!)


その名前を思い出し、音緒はようやく師匠の意図に気付いた。

今、不破音緒がいる場所はナイトメア領域の最深部。そして、真城白亜が閉じ込められている場所もまたナイトメア領域の最深部。


つまり、音緒と白亜は同じ場所にいるということだ。


武曽が音緒をこの場所に送り込んだのは、白亜の元へと向かえ、というメッセージに他ならない。この絶望的な状況を打開するためには、彼女;の力が必要だった。


「――白亜姉さんッ!!」


音緒は闇の汚泥の中でありったけの声で叫んだ。

穢れた闇の中からは、求める人の声は返ってこなかった。


さすがに音緒もすぐに白亜が見つかるとは思ってもいなかった。簡単に白亜が見つかるのなら、武曽がわざわざ音緒をナイトメア領域に送る必要などない。


白亜が見つからない可能性の方が圧倒的に高いだろう。


そもそも武曽の本当の思惑が、音緒に白亜を見つけさせることだという保証はない。やはりあの残酷な言動の通り、音緒を葬るためだけにナイトメア領域に送ったのかもしれない。


だが、音緒は信じる。

白亜を救うためにナイトメア領域に送り込まれたのだ、と。

あの傲慢なほどに夢幻の民としての自尊心が高かった武曽が、愛する人を救うためだからと言って自らのプライドを捨てるとは思えない。というより、性格に大分難のある彼が婚約者のために夢幻の民を裏切るということがまず信じられない。性格的に。


必ず反撃を画策しているに決まっている。

だから、音緒はこの最悪な状況であっても武曽を信じる。

そして、信じると決めたのならば絶対に揺らがない。

それは、悪夢狩りと呼ばれる者達の基本理念だ。


強固な精神こそが強さとなる夢幻界において、何よりも自らの意志を強く持つことが大事だった。その意志が善悪など大きな問題ではない。とにかく信じること、それこそが夢幻界で戦うのに必要なことだった。


故に悪夢狩りとして最初に教わる理念は、『常に自分こそが最強だと信じること』。


だが、音緒はその教えを否定している。

音緒の強さの源泉は、憧れだった。つまり、最強である人物の模倣であり、借り物の強さとさえ揶揄されることもある力。だが、それでも音緒は憧れを捨てられず、その憧れを武器にしていた。


かつて一度だけ見てしまった英雄の後姿。

音緒はそれを今も忘れられず、そこに最強を見出していた。

だから、音緒はその憧れの背中から自らの幻想を生み出したのだ。


初めは否定された。他人の模倣を頼る音緒を認める者など皆無に等しかった。それでも音緒は揺るがずに信じ続け、今では『魔刃姫』の二つ名を戴くほどに強くなった。


不破音緒の強さは、どんな状況であっても自分の信じる想いを貫けることにある。

必ず白亜を見つけ出す。その意志がナイトメア領域の中で一条の光となる。


希望の光。

悪夢の闇の中でも輝く小さな光。


それは、果てしなく続く夜闇の中でたった一つしかない星の光のよう。

だが、深き夜の闇の中でも微かな星光さえあれば、人は絶望的な状況であっても勇気を振り絞って前と進むことが出来る。


ちっぽけな光が音緒の道を照らしていく。


そして、光は決して一つではない。音緒に諦めない強さを教えてくれたのは、彼女の最初の師匠だった。だからこそ、彼女が諦めているなど初めから思っていない。


「白亜姉さんッ!!」


闇の中だからこそ、ちっぽけな光でも見つけられる。

汚泥の闇の中を掻き分け、音緒はか細く小さな光に向かっていく。永遠に会うことが叶わないと思っていた大切な人の元へ。


そして、音緒はようやく白亜を見つけることが出来た。

深い闇の中、淡い白光に包まれた一糸纏わぬ美女。


まるで止まった時の中にいるように、真城白亜は当時と同じ姿のまま凍り付いていた。心を蹂躙しようとするナイトメア領域の中で精神を保つため、自らの時間を凍らせていたのだろう。きっと、いつか武曽や音緒が助けにきてくれると信じながら、時を止めて待ち続けていたに違いない。


泣きたくなるくらい懐かしい大好きな師匠との再会だった。絶望の底へと引き摺り込もうとする闇を必死に掻き分けながら、音緒は白亜の元まで手を伸ばした。


音緒の手が触れた瞬間、白亜の時間が動き出す。


「むぅ……、あと五年……」

「いつまで寝る気だ、馬鹿師匠ッ!!」


再会の抱擁はなどなく、容赦なく鉄拳を食らわせる。

音緒自身も寝起きの時は似たような台詞を吐くのだが、こんな状況で言われると腹が立って仕方なかった。


「むぅぅ! な、何? 今、何が起きたの?」

「むぅ、相変わらずマイペースな……」


音緒がそれを言うか、と彼女の仲間達なら突っ込みを入れただろう。しかし、残念ながらこの場にはマイペース少女とマイペース美女の二人しかいなかった。


「……ふふ、冗談よ。大きくなったわね、音緒」


目覚めた白亜の双眸が音緒の姿を捉えた。

可愛い姪御との再会を果たし、白亜は闇を拭い去るような眩しい笑みを浮かべた。そして、かつて幼き頃の音緒にそうしたように優しく少女を抱き締めた。


白亜の温もりを感じ、音緒の瞳からは自然と涙が零れていた。ナイトメア領域に落とされた最悪の状況であっても、白亜との再会を喜ばずにはいられなかった。


「むぅ……、久し振り、白亜姉さん。今の状況、わかる?」


「……うん、大丈夫。ここに閉じ込められてから私自身の時間を止めて悪夢の浸食を防いでいたけど、ずっと時間を止めて待ちに徹していた訳じゃないの。何度か時を動かして、反撃の機会を窺っていたわ。そして、貴方が来てくれたことでようやく反撃の機会が訪れた。貴方もこの状況に挫けず、よく私を見つけ出したわね。偉いわ」


「じゃあ、やっぱり武曽は……」


「えぇ、あの性悪クソ野郎が女のために悪夢に屈する訳じゃないでしょう? 貴方達や悪夢達さえ騙すような性質の悪い方法で私を救い出そうなんて考えてやがったのよ。全く、あんな性格だから誤解されてばっかりなのよね」


辛辣な物言いながらも、白亜の声には武曽に対する信頼に満ちていた。これでも白亜と武曽は婚約者同士。本人達にしかわかり得ない深い愛と絆があるのだろう。


「さて、雑談はこの辺で終わり。すぐにでも行動を起こすわよ」

「は、はい!」


白亜は最後に音緒の頭を撫でると、優しいお姉さんの表情から、純白の戦乙女と謳われた英雄の表情へと変わった。


戦いの決意を固めると同時に、一糸纏わぬ白亜の身体を眩い光が包み込んだ。


天使の翼、白銀の鎧。かつての戦装束に身を包んだ白亜は、厳しい表情でかつての弟子を見つめた。


「音緒、貴方にはこれからある悪夢を見てもらうわ」

「えっ……? 悪夢を……?」


その言葉に音緒は戸惑いを覚える。

悪夢を見る。このナイトメア領域にいれば、否応なく悪夢の苦痛が流れ込んでくる。その悪夢こそが音緒の魂を蝕み、破滅に陥れようとしていた。それなのに、これ以上悪夢を見せて、一体どうしようというのだ。


「貴方はその悪夢を見なくてはいけない。その悪夢こそが全てを覆す最後の鍵なの」


かつての師匠は真摯な瞳で音緒を見つめながら、そう断言した。

ならば、音緒の選択は決まっていた。











絶対的な絶望を前にして私の心は折れ掛けた。

もうこの地獄が一瞬で終わってくれるなら、と思ってしまった。


何もせずに屈服することを望んだ。

しかし、諦めかけて目を閉じた瞬間、仲間達の雄姿が脳裏を過ぎった。この夢幻界で必死に戦ってきたみんなの姿を思い出し、私の心に稲妻で打たれたような激しい衝撃が走った。折れ掛けた意志がバチンと覚醒した。


実乃里……。

近衛君……。

レオノーラ先輩……。

音緒……。

礼夢……。


みんな、誰一人諦めずに戦っていた。絶望的な状況でも誰一人として諦めなかった。


それは彼等に特別な力があったから……?

確かに、礼夢達にはそれぞれ力があった。覚醒者、夢幻の民、幻想種としての力。夢幻界で戦えるだけの力。それがあったからこそ戦うことが出来た。


だけど、諦めなかったのは、みんなの意志によるものだ。

何より夢幻界では、意志の力がそのまま強さに変わるのだ。


みんなが絶望的な状況でも戦えたのは、それぞれ運命に抗おうとする強い意志があったからだ。その意志があったからこそ特別になれたのだ。


私は諦めてしまうのか……。

私一人だけが諦めてしまうのか……。


「……嫌だ……」

「何か言ったか、幻想聖母よ?」


今、私の目の前には巨大な絶望がそびえ立っていた。

悪夢王メイアーハザード。あまねく悪夢達を統べる絶対的な王。


「諦めるなんて嫌……」

「ほぅ……?」


私の瞳に宿った抵抗の意志に気付き、メイアーハザードは嘲笑を浮かべた。


ちっぽけな人間の抵抗など、この巨大な化け物には涼風同然かもしれない。だけど、何もせずに終わることなんて出来ない。どれだけ絶望的でも、みんな戦ってきた。私一人だけが何もせずに諦めるなんて出来ない。


これまでの戦いの中で私は何もしてこなかった。

何もすることが出来なかった。


そして、この期に及んでも私はまだ何もしないつもりなのか。


このまま諦めてしまえば、破滅するのは私だけではない。私の中にある幻想聖母の力を使って、悪夢王は現実世界にまで浸食しようとしている。そうなれば、被害は一体どれだけ広がるだろう。


私の力を利用して……、私のせいで……、たくさんの人が死んでしまう。

それなのに、私は何もせずに屈してしまうことなんて出来ない。せめて、せめて一矢報いてやらなければ、死んでも死にきれない。


「負けない……。負けたくない……」

「ははははははッ! 泣きながらも随分と勇ましいなァ?」


メイアーハザードは人間を軽く呑み込んでしまいそうなほど大きな口を開けて、盛大に笑った。眼前に迫るメイアーハザードの笑い声は、ただそれだけで衝撃波となって私を襲う。声とはすなわち空気の振動。巨大な化け物から放たれる音波はそれだけで凶器となる。


怖い……。怖くて堪らない……。

顔はとっくに恐怖の涙でグチャグチャだった。しかも、全身は大岩に拘束された状態。抵抗しようにも何も出来ない絶望的なシチュエーション。そもそも相手は礼夢や音緒達でさえ恐れる悪夢王メイアーハザード。


だが、それでも……。

それでも、私は諦めたくなかった。


何が出来るかとか、そんなことを考えていては駄目なのだ。

結果がどうとか、どうせ何も出来ないとか、何もやる前から信じることを恐れてはいけない。負けるとわかっている戦いに何の意味もないか。抗うことを止めて、屈辱的な敗北を受け入れることが正しいのか。


私は認めない。きっと私の仲間達だって誰一人認めない。

礼夢達はみんな、それぞれに強い想いを胸に抱いて戦ってきた。その想いがあったからこそ、みんな絶望の前でも最後まで真っ直ぐに立ち向かうことが出来た。


だから、私も最期の瞬間まで前を向いていたい。一人だけ俯いたまま終わることなんてしたくない。


私の中のありったけの力をぶつけて戦うんだ。


「うああああああッ!!」


光が爆ぜる。

ただ自分自身を信じる。


どんな状況であっても絶対に自分を信じる。それは口にするだけなら簡単だけど、実際にはなかなか出来ないこと。恐怖に震え、絶望に迷う。それでも、なお信じる。


自分の中にある可能性を。戦うための意志を。

それが夢幻界での力となる。


「なッ……!? ぐぉぉぉ……!?」


私の全身から放たれた光の波動は、私の周囲を一瞬にして焼き尽くした。私を拘束していた鎖も大岩も消滅し、私の間近に迫っていたメイアーハザードを吹き飛ばした。


自由になった私は華麗に地面に着地……しようと思ったが、思った以上の高さにたたらを踏んだ。


思った以上にぐにゃりとした地面だった。

灰色の大地が見た目に反して柔らかないのは、ここがメイアーハザードの脳だからだろうか。そう考えると非常に不気味で私は思わず身震いした。


「な、何故……? 何故、人間がここで幻想を顕現出来る……? ここは我が中枢、脳の中だぞ? 我の幻想以外、存在できない場所で、何故……?」


……そういえば、武曽がそんなことを言っていたっけ?

驚愕するメイアーハザードの言葉を聞いて、この悪夢王の脳内では幻想が使えないということを思い出した。


あれっ……? じゃあ、どうして私は幻想を……?


「……ふふふ。わからないのか、悪夢王?」


少し離れた岩場に腰を掛けていた武曽が嘲笑を浮かべながら口を開いた。


「武曽!? 貴様には、何故こやつが幻想を使えたかわかるというのか!? 我の脳内で幻想を顕現した理由が貴様にはわかると言うのか!?」


「わかるさ、当然だろう? というより、何故お前は気付かない、悪夢王?」


「答えろ、武曽!? 何故、この小娘が幻想を使えたのか!?」


「彼女が幻想聖母だからさ。国崎小夜子の幻想は誰からの妨害も受けない。あらゆる世界において、国崎小夜子の幻想は優先される。全ての幻想を生み出す母なる能力、それが幻想聖母の力だ。そんな当たり前のことを気付かないとは、悪夢の王は随分と程度が低いのだな?」


「黙れ、人間風情が!!」


メイアーハザードが巨大な足で武曽を踏み潰そうとするが、彼は素早くその場から飛び退いて難を逃れた。悪夢王も本気で武曽を殺す気がなかったようで追撃はなく、腹立たしげに武曽を睨んでいた。


「やれやれ、危ないな」

「目障りだ。下がっていろ、武曽」


「……そうだな。私がここで出来ることは何もないな」


武曽は自嘲気味な笑みを浮かべる。

メイアーハザードの脳内では、武曽であっても自らの幻想を顕現することは出来ない。悪夢王の力を譲渡され、多少の力は使えるが、それゆえにメイアーハザードに逆らうことは出来ない。メイアーハザードから力を与えられなければ、武曽も普通の人間と何一つ変わらないのだから。


「では、失礼するよ、悪夢王」


武曽は颯爽と踵を返すと、その身が紫色の霧に包まれていった。霧の向こう側に姿を消しながら、武曽は振り返って私に声を掛けた。


「そして、国崎小夜子。微力ながら君の健闘を祈っているよ」

「……メイアーハザード側の人間なのに、私の応援をするの?」


「どうせ勝ち目のない戦いだ。せいぜい足掻いてみせろ」


嫌味なことを言い残し、武曽は霧の中へと消えていく。そのまま姿を消すと思っていたが、武曽は消える寸前、不敵な笑顔を私に向けた。その笑顔にはこれまでの敵意が全くなく、不思議と安堵感を覚えた。


「無謀な戦いに挑む勇敢な姫君に餞別を与えてやろう」


霧が消えると同時に、武曽の代わりに何かが霧の中から現れた。

一瞬、それが何かわからなかった。


最初に認識したのは、その何かの色。燃え盛る太陽のような赤。もしくは、鮮やかな血の色。そして、その何かが倒れている人間だと気付き、ようやく私はその何かの正体に気付くことが出来た。


「クソの役にも立たない王子だが、劇の舞台には必要だろう? 特に悲劇なら、なおさらな」


「れ、礼夢ッ!?」


霧が晴れた先には、礼夢が血塗れで倒れていた。

私は即座に礼夢の元に駆け寄り、彼の安否を確認した。ひとまず息をしているようだが、ほとんど瀕死の状態だ。素人目でも危ない状況なのは目に見えていた。


どうして、こんな酷い怪我を負っているのだろうか。

全身を鋭利な刃で切り刻んだような傷跡は、きっと誰かとの戦いで負ったものだろう。クレパスに落ちて離れ離れになった後も礼夢は戦っていたのだろう。近衛君も、レオノーラ先輩もきっと戦っていたに違いない。


こんなボロボロになるくらいの酷い戦いを……。


「礼夢! 礼夢!! 礼夢!!!」

「……さ、小夜子? どうしてお前が……?」


私の呼び掛けによって、礼夢の意識が戻った。いや、反応が随分と早かったので、もしかしたら最初から意識があったのかもしれない。


「武曽め、余計なことを……。だが、たかが幻想種が一人増えたところで……」


「あんた達のせいなの……?」


傷付いた礼夢の頭をそっと撫でて、私は毅然と悪夢王に向き合った。

メイアーハザードは私の表情を見て、口にし掛けていた言葉を失う。私みたいな小娘の睨みで怯んだ訳ではないだろうが、これまでとは違う私の意志を感じ取ったのは間違いないようだった。


傷付いた礼夢の姿を見て、私ははっきりと意識した。

こんな悪夢なんかに負けられない。私の大事な人達を傷付ける悪夢を絶対に許しはしない。絶対にぶっ飛ばすという強い意志が私の胸に宿っていた。


「礼夢が……、近衛君達がこんな酷い目に遭っているのは……? 悪夢王メイアーハザードッ!! あんたのせいで礼夢達がこんなに傷付いているのッ!?」


「……そうだ。その幻想種の少年は、我が心臓の管理者メイアーハーツとの戦いに敗れてそうなった。そして、お前の友人の一人もつい先程死んだぞ。今はまだ一人生き残っているようだが、もうどうにもならん。人間如きに我の……」


何かがブチ切れる音がした。

多分、これが堪忍袋の緒が切れた音に違いない。

この悪夢野郎のせいで、一体どれだけの犠牲が生まれたというのだ。実乃里を始めとして、何人もの人達が殺されてしまった。

怒りが恐怖を凌駕して、私の中の何かが爆発した。



「私の礼夢に何してくれんだ、この馬鹿ァァァァァァァァァッ!!」



私の叫びは衝撃となって、灰色の丘陵を揺らす。

大切な人達を傷付けられたことの怒り、大切な人達を守りたいと思う気持ち。


この巨大な悪夢に立ち向かう。いや、絶対に倒さなければいけない。その想いが確固たる意志となり、黄金の光となって私の身体を包み込んだ。


もうゴチャゴチャと考えるのはナシだ。

夢幻界に来てから、ずっと私はゴチャゴチャと考え過ぎていた。

どうして、そんならしくもないことをしていたのだろう。いつも考えるより行動をしていた私が、色々と考えていても駄目に決まっている。


そうだ、いつもみたいに駆け抜ければいい。


私は元々、そういう性格だったはずだ。悩んでいる暇があるなら、行動をするのが本来の私だったはずだ。どちらかと言えば、私は実乃里と同じタイプだ。今まで恐怖で身が竦んでいたから走れなかった。だけど、もう充分に身体も心も熱くなった。


出来るとか出来ないとか、才能があるとかないとか、そんなのは全部考えない。ただ、自分のできることを精一杯にやるだけだ。陸上部でも、実乃里みたいに才能はなかったけど、誰よりも走ってきた。負けたくないから、誰よりも走った。


さぁ、駆け抜けろ!

あのクソ野郎をぶっ飛ばすんだ!


「人間風情が調子に乗るな! 貴様は黙って我を孕め、幻想聖母!」


悪夢王が巨大な足で私達を踏み潰そうとする。

圧倒的な質量が迫ってくるが、熱く興奮している私は不思議と恐怖を感じなかった。守りたい、その気持ちを込めて両腕を掲げた。すると、私の想いを顕現するように黄金の障壁が生まれ、巨大なメイアーハザードの一撃を防いだ。


「よし、イケるッ!!」


私の幻想はメイアーハザード相手にも充分通用する。

その事実が自信となって、私の幻想を更に高める。


「舐めるな、人間風情がッ!!」


強烈な踏みつけを防がれたメイアーハザードは、全体重を込めて更に踏み込んだ。


しかし、黄金の障壁は決して揺らがなかった。私の幻想がメイアーハザードを上回っている。初撃を防げたことによって精神的ゆとりが生まれたおかげだ。


それに、私には退けない理由もあった。

私の側には礼夢がいる。ここで退いてしまえば、礼夢は無事では済まない。彼が私のために戦ってくれたように、私も彼のために戦わなければいけない。だから、意地でもメイアーハザードの攻撃を通す訳にはいかなかった。


「人間がァァァッ!! 我が脳内で人間が勝てると思っているのかッ!!」

「えっ……? きゃあああッ!!」


灰色の地面から無数の触手が生えてきて私の両足を掴んだ。

すっかり忘れていた。今、私が立っているこの場所もメイアーハザードの一部。自らが立つ大地さえ敵だったのだ。


つまり、この灰色の大地に立っている限り勝機はない。


「このぉ……、だったらッ!!」


私は全身から黄金の光を放ち、絡み付いてくる触手を焼き払った。黄金の光は更に広がっていき、触手だけではなく周囲の大地を削っていった。しかし、礼夢だけは絶対に傷付けず、慈しむように包み込む。


そして、光は遥か地平の先まで広がっていき、灰色の大地を塗り潰していった。


「なッ……!? き、貴様……」

「どうよ、悪夢王。さっきの台詞はノシつけて返すわ」


見渡す限りに広がる黄金の大地。

この場所は私の幻想が支配する場所となった。

幻想、私の想いが悪夢を倒す力となってくれる。これならば、悪夢王メイアーハザードが相手でも勝てるかもしれない。


「……吹っ切れたな、小夜子。ようやく、らしくなってきたじゃねぇか……。そうやって、自分に出来ることを精一杯に頑張るのが、ホントのお前だろう?」


血だらけの礼夢はそう言うと、瀕死の身体に鞭打って起き上がった。こんな瀕死の状態で動けば命にだって関わる。

私は咄嗟に駆け寄り、フラフラと立っている礼夢の身体を支えた。


「れ、礼夢ッ!? 駄目だよ、無茶しちゃッ!!」

「無茶させろよ、馬鹿! 俺はお前を守るために生まれた! だから、お前を守るために戦わせろ!」


礼夢は私の手を振り払い、一人の力だけで毅然と立ち続けた。

そんな傷だらけでボロボロなのに、礼夢は私を守ると言い張っている。

どうして、そんな一生懸命に私なんかを守ろうとするの……。ついさっきまで礼夢の存在を忘れていた私なんかを、どうして守ろうとするの……。


「駄目だよ! そんなボロボロの状態で戦える訳ないでしょ! ……それに、私のためにそんな無茶させたくない! 私の勝手な想いを礼夢に押し付けたくない……」


「お前の勝手な想い……? ふざけんなよッ!!」


急に激昂した礼夢が私の胸倉を掴み、怒りに満ちた表情で私を睨んだ。

どうして礼夢は怒っているのだろう? 突然過ぎて、その理由がわからず、私はポカンと怒った礼夢の顔を見つめることしか出来なかった。


「小夜子、お前を守りたいってのは、俺の想いだッ!! お前に押し付けられた想いなんかじゃねぇッ!! 俺は確かにお前の幻想から生まれたが、俺自身がどう生きるかは俺が俺自身で決めるッ!! そして、俺は俺自身の意志でお前を守りたいッ!! この想いだけは、お前にだって変えられないッ!! いいか、わかったなッ!!」


「う、うん……」


コクコク、と頷くしかなかった。

礼夢はずるい……。そんなことを言われたら、何も言えなくなるに決まっている。


どうして礼夢はこんなに私の好みのタイプをピンポイントで突いているんだろう。やっぱり、自分で生み出した幻想だからなのかな? あぁ、もう……、格好いいなぁ……。真剣に怒った顔なんか凄い素敵だよ……。


こんな生きるか死ぬかって状況なのに、私、何考えているんだろう……。


「……怒鳴って悪かったな」


礼夢はいつになく優しい笑顔を浮かべ、そっと私の頭を撫でた。

彼の手を通して感じる温もりが、彼の存在を確かに伝えてくれた。


「ありがとう、小夜子。俺を俺として認めてくれて。お前がいなければ俺は生まれなかったが、生まれた以上、もう俺とお前は別の存在だ。お前がどんな想いで俺を生んだとしても、俺は自分の意志でどう生きるかを決める。

 俺は自分の意志で生きている。お前の想いに縛られている訳じゃない。それだけは忘れないでくれ」


「そうだね……。それは当たり前のことだよね……」


私と礼夢は別の人間、別の存在。

真城礼夢が私の幻想から生まれた存在であっても、私が彼の生き方を束縛することなんて出来ない。親が子の生き方を決めることが出来ないと同じだ。


「俺はお前を守りたい。俺自身の意志で」


礼夢が力強く拳を握り、その手を大きく開くと、深紅の二挺拳銃が現れた。


「あれっ? 礼夢も幻想が……?」


礼夢が力を行使できたことに疑問を感じた。

メイアーハザードの脳内では、メイアーハザードの思想がもっとも強く現れるために他者の幻想が入り込む余地がない。幻想聖母の力を持つ私は、メイアーハザードのパーソナルイメージの中であっても自らの幻想を顕現できる。


しかし、礼夢の場合はどうして幻想が使えるのだろうか。


「別に不思議なことじゃない。俺の力は夢幻界だけでしか顕現できない幻想とは根本的に異なるんだよ。

 幻想種ってのは、存在そのものが魔法だ。すでに存在している魔法は、現実として認識される。誰の思考にも否定できない存在。だからこそ、俺の力は現実であっても使える。夢幻界でしか力にならない幻想の力とは根本的に異なるんだよ」


「あぁ、なるほど……」


理解は今一つだったが、ひとまず頷いておく。

詳細な説明をすると、幻想種の力というのは、夢幻の民や覚醒者達が使う幻想とは別種の力ということだ。現実として確立された幻想、それが幻想種。どれだけ不可思議であっても、現実として固定された力ゆえに、幻想のように誰かのパーソナルイメージに左右されない。


「さぁ、待たせたな、悪夢王。お前を倒して小夜子を元の世界を返す」


ボロボロの身体で悪夢王メイアーハザードを睨みつける礼夢。

メイアーハザードは警戒した様子で私達の動向を窺っていたが、礼夢の敵意に反応して巨大な身体を更に広げた。


「ほざくな、死に損ないの幻想種の分際で我に倒す気か! 悪夢の王であり、悪夢の集積体である我を倒すことは不可能と知れ! 見よ、貴様等が世界とさえ称したこの広大な全てが我の肉体! この全てを滅ぼすことが貴様等に出来るのか!」


「出来るかじゃねぇよ、馬鹿! やるんだ! たとえ、世界そのものが相手でも俺は退く気はない! 行くぞ、メイアーハザードッ!!」


黎明と黄昏の二挺拳銃をメイアーハザードに向ける礼夢。

どれだけ強大な敵であっても、真城礼夢は決して退かない。たとえ、どれだけボロボロな身体であっても、守りたいと想う気持ちが彼の力となっている。


ここは夢幻界。想う気持ちが形となる世界。

礼夢が私を守りたいと想う気持ちが刃となる。私が礼夢を守りたいと想う気持ちが盾となる。二人一緒なら、どんな巨大な絶望が立ちはだかっても絶対に負けない。


終わらせよう、この絶望的な悪夢を。

そして、みんなと一緒に元の世界に帰るんだ。






To be continued


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