第十一夜 絶望
礼夢は、私が生み出した幻想……?
あまりに衝撃過ぎる事実に理解が追い付かなかった。
思い当たる節は幾つもあった。あまりに不審な登場、不審な言動の多かった礼夢を、私は何の躊躇いもなく信じることが出来た。初めから絶対に危害を加えない存在だと信じていた。自分自身だっておかしいことだって自覚していたが、それでも礼夢を疑う気持ちなど微塵も湧かなかった。
それも当然だ。私自身が、私を守るために生み出した存在なのだから。礼夢が私を裏切ることなんて絶対にない。記憶として覚えていなくても、身体と心が礼夢の存在を覚えていたのだ。
「私、最悪だ……」
私は礼夢を生み出したくせに、礼夢のことを忘れて……。
それなのに、礼夢は私の安全のために、私に忘れられることを受け入れて……。
礼夢はたった一人で夢の海で私を見守ってくれたのに、ただ私の幸せを願い続けていた。もし、私が一度だって礼夢のことを思い出したら、彼はまた私の元に戻ってきてくれたはずだった。それなのに、私は一度としてそれをしなかった。
ずっと記憶の片隅に礼夢を追いやって、私は一体何をしていたんだ……?
「礼夢のことは関しては、貴方だけの責任ではない。私達、夢幻の民が意図的に隠していたこと。貴方の夢も検閲が入って、礼夢のことを思い出させないようにしていた」
「夢に検閲!? そんなことも出来るの!?」
「理論的に可能。ただ、普通はやらない。夢はその人間のパーソナルスペースだから、幾ら夢幻の民でもみだりに干渉することはない。……ただ、貴方は特別。貴方の夢はいつ現実化してもおかしくなかったから、武曽が検閲をしていた」
「……他人に自分の夢を見られるのって凄く恥ずかしいんだけど」
私は眉をひそめながら呻いた。
まさか自分の夢を、武曽なんかに見られていたと思うと気分は最悪だった。
こういう話を聞くと、本当に監視されていたのだと改めて実感する。同時に私の与り知らない監視に不快感を覚えた。
「むぅ、気持ちはわかるけど、立場的に小夜子の夢は絶対に放置できないの。過去、現実化した幻想、……『幻想種』が大きな被害をもたらした例は幾つもある」
「幻想種……? そんなの現実に現れて大丈夫だったの?」
「現実世界にも凄い人達はいるから。むしろ、現実の方が凄かったりする」
「そういえば、現実にも『魔法』があるんだっけ?」
以前音緒に聞いた説明を思い出しながら、私はそう返した。
夢幻界は全ての幻想の原初となる場所。神話に出てくる魔法や怪物達は、夢幻界から生まれ出でた幻想。過去に現実として存在していた。
そして、夢幻の民も元々は夢幻界の幻想から生まれ出でた存在だった。
夢幻の民が現存しているということは、他の魔法使いが現実に残っていても不思議ではない。今一つ私にはしっくりこない事実なのだが。
「……そう。きっとあの人なら、悪夢王が現実化しても何とかしてくれる。あの人は私の憧れ。白夜もクサナギも、あの人の武器をイメージして生み出したものなの。あの人がここに来てくれたら……」
音緒は天を仰ぎながら、届かない願いを呟いた。
現実にメイアーハザードを倒せるような人間がいたとしても、今ここに来てくれなければ私達にとっては意味がない。メイアーハザードが現実化しているような状況では、私達はきっと……。
そこまで考えかけて、私は恐ろしい想像を振り払った。メイアーハザードを復活するために私の能力を無理矢理に使う。私には全く想像もつかないことだが、多分酷い目に遭わされるのは確実だろう。考えれば考えるほどに怖くなっていく。
私は……、私達はこれからどうなってしまうのだろうか……?
きっと無事では済まない。おぞましいナイトウォーカーに追われた時のことや、あの血塗れになった教室、殺された実乃里の姿などが脳裏を過ぎる。私達の敵は残虐非道で人の命を簡単に踏み躙る悪魔のような連中だ。何をされるかなんて想像もできない。
怖くて怖くて堪らない……。
ここに礼夢がいてくれれば、どんなに心強いか……。
「礼夢……」
私を守るために生まれた幻想。
ピンチになれば絶対に駆け付けてくれる私の騎士。
都合よく生み出しておいて、勝手に忘れてしまったのに、礼夢は全然そんなことを責めずに私を守ってくれて……。私は礼夢がいるのが当たり前で、守ってもらうのも当たり前だとどこかで想っていた。多分それは無知ゆえに、無自覚ゆえに、とても残酷なことだった。どれだけ礼夢を傷付けたのかわからない。
だけど、全てを知った今、私は礼夢に頼ることを躊躇っていた。こんな状況なのに、本当は泣き出したくて、礼夢に助けを呼びたくて仕方ないのに。
私はずっと礼夢を傷付けてきた……。
こんな酷い自分に守ってもらう資格なんてない……。
本当は助けてもらいたい。だけど、真実を知った罪悪感のせいで、どうしても礼夢に助けを呼ぶことが出来なかった。
「残念だが、ここにお前達の幻想が入り込む余地などない」
「む、武曽……」
どこから現れたのか、いつの間に武曽は私達の目の前に立っていた。
無駄だと知りつつも抵抗をしたかったが、今の私達は大岩に縛られて何も出来ない。まさに俎上の鯉だ。悔しいけど、私達には何も出来ない。
「さて、おおよその事情は音緒から聞かされただろう? 私も話を聞かせてもらったが、ほとんど間違いはない。おかげで説明をする手間が省けたよ」
「……師匠、一つ聞きたいことがある」
「何かね、我が弟子よ」
「貴方が夢幻の民を裏切った理由……。あの戦いで私が聞いた時、師匠は『愛ゆえに』と答えた。それが嘘でないのなら、貴方は……」
「…………」
音緒はそこで言葉を区切り、大きく深呼吸をした。武曽は静かに瞼を閉じ、音緒の厳しい視線から目を背けた。
「……師匠が裏切ったのは、白亜姉さんを助けるため?」
それは二人にとって辛い過去を抉る話だった。
礼夢の後見人、真城白亜さんは武曽の婚約者でもあり、音緒の叔母に当たる人物だった。元々、音緒が悪夢狩りとして師事していたのは白亜さんだった。その白亜さんが悪夢に敗れ、ナイトメア領域に閉じ込められて以来、武曽が白亜の代わりに音緒の師となった。
白亜さんの敗北は、音緒にとっても武曽にとっても人生を変える辛い過去だった。
礼夢や音緒の話では、以前の武曽は夢幻の民としての矜持を持ち、尊敬に値する人物だったそうだ。今の武曽しか知らない私にとっては信じられないことだが、彼もその過去さえなければ今のような悪魔にならなかったのだろうか。
「…………」
「師匠、答えて」
「……お前が知る必要はない」
武曽は音もなく音緒の元に歩み寄ると、そっと彼女の頬に触れた。それは何故か、慈しむような優しい手付きだった。悪意なんて微塵も感じられない。
しかし、武曽の言葉はあまりに残酷だった。
「さぁ、お喋りは終わりだ。お前はこれからナイトメア領域の最深部に堕ちてもらう。あの場所でまともな精神を保っていられるものなどいない。たとえ、白亜であってもな。お前のような未熟者では数分も保つまい」
「…………」
音緒はただ黙って武曽を睨みつけていた。彼女の変化の乏しい表情からは、感情の機微は感じられなかった。今、音緒は何を想っているのだろうか。
「堕ちろ、二度と現実に戻れぬ底知れぬ悪夢の深海へ」
「ね、音緒ッ!! や、止めて、武曽ッ!!」
武曽の手から黒い闇が溢れ、音緒の全身にまとわりついていく。
音緒は一瞬恐怖に顔を引き攣らせたが、すぐに毅然とした表情を戻して、真っ直ぐに武曽を睨んだ。無論、悲鳴など一切上げず、恐怖を押し殺し、黙って睨み付ける。それが唯一の抵抗とでも言わんばかりに。
黒い闇に全身を包まれた音緒の身体は、そのまま溶解して地面に消えていった。
「ね、音緒……、音緒ォォォォォォッ!!」
「国崎よ、お前に他人の心配をしている余裕などあるのか?」
恐ろしい悪魔の視線が私にまとわりつく。
恐怖に喉が引き攣り、全身が小刻みに震え出した。
たとえ身動きが出来なくても、音緒の存在は今の私の心の支えだった。その最後の砦が易々と落とされ、今の私を守るものは何一つとしてない。すでにチェックメイト同然の盤上で敢えて勝負を決めず、他の駒を奪うような行為だ。
「い、嫌……、助けて……」
「助けを呼んでも無駄だ。ここは悪夢王メイアーハザードの中枢。夢と幻想を生み出す脳の中だ。ここでは全ての幻想の存在が許されない。この私であってもな。今の私も悪夢王の力を譲渡されているが故、音緒をナイトメア領域に送り込むが出来た。つまり、どういうことかわかるか?」
幻想が使えない。
覚醒者でもない私にそう指摘する理由はただ一つだけ。
「れ、礼夢は呼べないってこと……?」
「そうだ。幻想は本来、個人の思想の中でしか存在できないものだ。理屈は説明しなくてもわかるだろう? 幻想というのは本人の頭の中にしか存在しない。それが本来あるべき形であり、我々夢幻の民や覚醒者という者達の方が異常なのだよ。
夢幻の民にとっては周知の事実だが、夢幻界において幻想は個人のパーソナルスペースに近ければ近いほどに強力となる。そして、今私達がいる場所がどこかはすでに説明しただろう? ここはメイアーハザードの体内。私も音緒も、他の覚醒達も本来の力とは程遠い力しか出せなかったのだよ」
「う、嘘……? あれで……?」
私は衝撃の事実に驚愕し、目を見開いた。
幻想が個人の思想の中にしか存在できず、夢幻界ではパーソナルスペースに近ければ近いほどに強力だという理屈は理解できる。
しかし、覚醒者達や夢幻の民の圧倒的な力を見てきた私にとって、あれでもまだ本来の力に程遠いという事実は簡単には信じられないことだった。本来ならば、あれよりも強い力を出せると言うのか。
「そうだ。そして、脳とはあらゆる幻想が生まれる場所だ。もっとも個人の幻想が強くなる場所。ここでは他者の幻想の存在を許さない。仮にお前が真城礼夢を呼び寄せることに成功したとしても、お前の幻想でしかない真城礼夢の力など期待できない」
「そ、そんな……」
絶望の涙が零れ、私は力なく項垂れた。
私には最後の希望に縋ることさえ許されないのか……。
礼夢に助けてもらう資格なんて私にはないけど、それでも私はどうしても礼夢を求めてしまう。これは礼夢が私の幻想だからなのかな。それとも……。
「これでお前の心を支えるものは全て失われたか? 抵抗など無意味だと心の底から理解したか? 幻想聖母の力を使うにはお前の心というキャンバスが必要だ。あまり壊し過ぎてもいけない。だが、無駄な抵抗の意志があっても困る。お前の心を折りつつ、また壊し過ぎないようにしなくてはならない。なかなか加減が難しいものでな」
「もう嫌……。なんで、こんな酷いことが出来るの……?」
「……見てみろ、国崎」
武曽は私の問いを拒絶するように灰色の天井を指差した。
私もその指先に導かれるように天井を見上げると、一部異様に隆起した場所があった。遠目からでも激しく脈打つように蠢いているのがわかった。
あれは一体何……?
「ようやく現れるぞ、悪夢王メイアーハザードが」
大仰に武曽が言い放った瞬間、隆起した灰色の岩塊が天井から切り離された。
不気味に蠢く灰色の塊は地面に落ちるとグチャッと潰れてしまう。このままずっと動かないでほしいと願うが、私の願いなど無視するように灰色の塊は再び動き出した。
一度潰れた塊は粘土アニメのように不自然な形で起き上がった。
そして、その塊の中から漆黒の腕が突き出された。
「ひぃ……。な、何なの……?」
「言っただろう、あれが悪夢王だよ。幻想聖母のお前に自らの姿を知らしめるために、わざわざその姿を見せに来たのだよ。感動したかね?」
「ぅあァァ……」
恐怖で悲鳴さえロクに出ない……。
灰色の中にいるそれは、卵を破る雛鳥のように自らを包む殻を破っていく。いや、卵を破る雛鳥などという表現を使うと、現実の雛鳥が大変気を悪くするだろう。むしろ、これは人の腹の中を引き裂いて登場するエイリアンのようにといった方が正しい。
初めに現れたのは黒い両腕だった。邪魔な殻を力ずくで破いていく。そこから徐々に全体の輪郭が見えてきた。
それは人間のシルエットに近いが、そのサイズは優に十メートルを超えている。とてつもない巨人だ。皮膚の色はナイトウォーカーと同じ闇色。墨で塗り潰したような人間の肌をしており、割れた破片から金髪の髪が零れ出た。そして、現れた悪夢王メイアーハザードの顔は想像以上に端正で、美しい彫刻のようだった。
壊れた灰色の殻はいつしか破片ではなく、メイアーハザードの肌に触れた瞬間に溶解してそのまま服へと変貌していく。メイアーハザードの服はギリシャ神話に出てくる神様のようだった。それが更に美麗な彫刻のような印象を与えた。
目の前に現れた悪夢王メイアーハザードに対して、私は恐怖すら超越して圧倒されていた。それは大自然の絶景を目の当たりにしたような感覚に近かった。私達人間がとてもちっぽけに感じられる瞬間。
「幻想聖母……」
全ての殻を破り捨てた悪夢王メイアーハザードはゆっくりと視線を私に向けた。
岩に縛られた私に出来ることなど何もなかった。仮に縛られていなかったとして、私がこの巨大過ぎる怪物にどんな抵抗が出来たと言うのか。
いや、ここに心強い仲間達がいたとしても、こんな化け物に勝てるはずがない。
勝てない……。誰もが無残に殺されてしまう……。
それだけ圧倒的な力を感じる。私に気配で相手の強さを測れるような芸当はないけど、この悪夢王メイアーハザードの力は容易に感じ取れた。
悪夢王の全身から放たれている圧倒的な悪意はもはや凶器のようだった。ただ、想うだけで人間を平伏させるような絶対的な力。武曽なんかとは格が違い過ぎる凶悪な気配だった。これが悪夢達を統べる王者の風格なのだろうか。
そして、私はこんな恐ろしい化け物に狙われているのか。だったら、どう足掻いても無駄ではないか。何をやったって私に逃げられるはずがない。
「さぁ、我を孕め、幻想聖母……」
「あァァ……」
もう受け入れるしかないのだ、この絶望を……。
絶望の涙がボロボロと零れ、私はただ祈るくらいしかなかった。
……せめて、これから起ころうとする地獄が一秒でも早く終わるように、と……。
To be continued