冷蔵庫 1.概
「残高見たい?」
秋樹がにっこりと通帳を掲げた。
「謹んでご辞退申し上げま……」
「じゃあ口頭で」
言わせも果てず、容赦なく金額を告げる。……結構少ない。少なくなっている。
「ところで四人が一日三回、百五十円のパンを食べるとすると」
「わーった、わーった! 俺が悪かったって」
「悪かったなんて。置き忘れたなら仕方ないよ」
……怖いんだよおまえの笑顔は。
要するに。財政事情を顧みず、ゲーセンなんぞで遊んだ揚句、財布をなくしてきた俺に対して。
秋樹どのはご立腹なのだ。
ゲーセンで使ったとバレただけなら、俺の取り分なんだからいいだろうと言えた。財布ごとなくなったのは、痛い。
「あー、その。一週間食事抜きって辺りで」
「岡野さん、春花。子守り頼んだ」
俺にひたりと目を据えたまま、秋樹はあとの二人に呼びかけた。こちらから提案した罰は一顧だにされなかったらしい。
「あ……」
「りょーかい」
「何が子守りっ」
ささやかな抗議も黙殺して、背を向けてすたすた去っていく。どこへ何しに行くとも告げない。こいつはそういうやつだ。
残った女子組の片方は心配そうに、片方はじっとりと俺を見ていた。
「で? 幾ら使ったの、ゲーセンで」
「引き継ぐな!」
「あたしだって知りたいもん。月島君が遊んだお金で何日食べられたのか」
一人が文句を言う横で、
「一日……千八百円、千八百で割ると……」
あと何日で貯金を食い潰すことになるか、計算してもう一人が青ざめている。どっちも味方にはなりそうにない。
俺たち四人は施設育ちで、育った施設で酷い目に遭って、耐えかねて揃って逃げ出してきた。以来基本的に四人で過ごしているのだが、中学生と小学生の集団だから色々不自由はあって、経済的な問題も大きな一つだった。要するに自力で稼げないってことだ。
俺と秋樹は同い年なのだが、秋樹は当たり前のようにリーダーの位置にいた。まあ、問題児として知られていた俺と優等生で通っていた秋樹とでは、どちらが信頼されるかは目に見えている。……言っとくが、優等生が、じゃない。優等生としての外面を維持する能力のあるやつが、だ。
で、そんなわけで通帳は秋樹が握っている。言うなれば一週間の小遣いとして、月曜になると幾らか引き出してきて分配するのである。だから――寿命は一週間縮まったにすぎない。一週間以上の生活費は財布に入っていなかった。口座の残高があれだけなら、どのみち近々使い切ってしまうし、四人で一日千八百円なんてきりつめにきりつめた数字だ。
「俺がなくさなくても、あんまり変わんなかったよーな」
「それとこれとは別! 心がけの問題っ」
あ、そ。
「ま、それはいいとして」
「よくない」
「よくないとして。あれが俺らの全財産ってのは、実際ヤバいな」
貯金が底をついたら。何もやりようがなくなったら。
一番恐ろしいのは、施設に戻る破目になることだ。想像したのか、二人は黙り込んだ。俺にも笑い飛ばせない。
だからって、宝くじにでも当たらない限り、いきなり大金が転がり込むことはない。稼げないなら、拾うか、貰うか……。
「ああ! 河野のおねーサマ!」
俺は手を打ち合わせた。
「あの人にお縋りできるんじゃないの?」
「やあおねーサマ、ブリックレーブリット! 元気してる?」
〔おや、久しいね、流浪少年〕
電話の向こうから幸先のいい声が聞こえた。
河野のおねーサマと知り合ったのは、施設を飛び出して間もない頃だ。今は大学生で、学生の一人暮らしには勿体ない広さの部屋を借りている。実家がなかなかの金持ちなんだとか。
前にもしばらく泊まり込んだことがある。俺らが、というより秋樹が使っている郵便局の口座も、元はおねーサマが開いたものだ。大金を生で持ち歩くのも危ないと、新規開設の上、中身のおまけつきで下賜されたというわけ。
〔あたしも出先なんだわ。帰る途中なんだけど、まだ四、五十分かかると思う〕
「こっちもそんなもんだよ。じゃ、ヨロシク」
話をつけて電話ボックスから出ると、既に秋樹は戻っていた。喋りすぎたらしい。
「河野さんは何て?」
二人から聞いていたようで、開口一番の問いはそれだった。
「近くまで来てるって言ったら、どうせならうちに来いってさ」
「なら、行こうか」
あっさり認めた。何かしら言われるだろうと思ったんだが。
おねーサマのマンションへはここから電車で一本、徒歩と合わせて一時間ぐらいだ。久しぶりだとか元気かなとか喋りながら女子組が並んで前を歩き、俺と秋樹が後ろについて駅への道をたどった。
「で? 河野さんにたかるそうだけど」
……あー、やっぱり言うのか。
「いーだろ。おねーサマも満足だよ」
金持ちの道楽なのだ。助けてほしいと言えば喜んで泊めてくれるし、軍資金ぐらい振り込んでくれる。さぞ気持ちがいいことだろう。縁もゆかりもないというのに、自分はなんて親切なのかと。
「喜ばせるために頼る? それとも利害が一致するから?」
我らがリーダーは横目でこちらを見やった。というか、流し目に近い。これがどぎまぎするのだ、とっくに見抜かれてるような気分になる。
前の二人の様子を窺った。小声めにすれば聞こえない、かな。
「――巻き上げてやりたいじゃん? 金を恵んで酔ってるやつから」
助かっているのは事実だ。その事実を後ろ盾に、おねーサマは自分自身に浸り込める。俺たちを使って。
それなら、どうせなら、とことん搾り取ってやりたいじゃないか。
「君は河野さんに懐いてると思ってたけどね」
「そりゃあおねーサマは楽しい人だから。無理して媚びなくて済むのサ」
それがいいところだ。おねーサマと会って喋って、楽しいのは確か。こんなやつの金で生きたくないと感じるような相手じゃない――あの人になら、恵ませてやってもいい。
秋樹はしばし黙り、俺は少々どきどきしながら次の反応を待った。……カナシイな、タメだってのに……。
「ん?」
不意に封筒を突き出されて目を瞬く。受け取って覗けば、中身は財布に入っていたはずの額――なくしたのと同じだけの金額の紙幣と硬貨だった。正確には少し足りないが、ゲーセンで使った分を見繕って差し引いた結果だろう。
つまり、さっきはどこへ何をしに行っていたのかというと、郵便局へこれを下ろしに行っていたわけだ。俺の失敗に対して、金銭的なペナルティは課さないということらしい。
「さんきゅ」
囁けば含みのある笑みが返ってきた。こいつにはこれが普通だ、素直な笑顔なんて見せたことがない。だから逆に、いかにも裏のありそうな笑みは、必ずしも裏があることを意味しない。はずだ。
やがて駅に到着した。女子組に聞こえるところでは、ああいった話はしないことにしている。それから会話は他愛のない、差し障りのないものになった。
マンションの手前でおねーサマと合流した。
「泊まってくでしょ?」
「よければ」
「じゃあキャベツを使い切れるな」
あっは、そーいえば、一人暮らしでキャベツを一玉使い切るのは大変だっていうねえ、なんて暢気に笑っていたのだが。
何故か夕飯前、他の三人が奥の部屋で寛いでいるときに、俺だけはおねーサマと台所にいた。
「なんで俺、ご指名?」
「由真と春花は前のとき手伝ってくれたもん。今回はおまえが働け」
秋樹はどうなんだよ。
女子組の片方が手伝おうとしたのも秋樹が止めてたし……ひょっとしてこれがペナルティか? いつの間に示し合わせたんだ?
「内緒話でもしたいわけ」
「別に。お金の話は秋樹の担当でしょ?」
「そう言うなら全部秋樹の担当だよ」
「偏ってるねえ」
おねーサマは笑った。
台所に立つなんて施設時代にもなかった。物珍しさもあって、口で言うほど悪い気はしない。本日のメインディッシュはロールキャベツで、確かにこれならキャベツを一気に消費できる。ついでに女子組の好物でもある。なかなかいい選択だ。
「――買い込みすぎだよ、おねーサマ」
呆れた声を上げたのは、冷蔵庫を開けたときだった。一人暮らしなのである。何だよ、この中身の充実具合は。金があるからってこんなにたくさん――。
……。
ひょっとして……?
「ちゃんと全部食べてるわよ。無駄にはしてない」
「――ならいいけど?」
そっと閉める。それから目的の物を取り忘れたのに気づいて、慌てて開け直して笑われた。
次の日は午後から授業があると言って、おねーサマは出かけていった。最初の頃は流石に、留守宅に俺たちを残してはいかなかったものだが。
「……なあ、秋樹」
女子組が奥の部屋で本を読み始めてから、俺は冷蔵庫を開けた。
「おねーサマって炭酸ダメだったよな」
「そのはずだね」
じゃあ、これは何だ?
扉の裏に立っていたサイダーのペットボトルを、取り出して秋樹に示す。俺の気に入りの銘柄だ。
ひょっとして。
俺らがいつ来てもいいように常備してある、なんてことは。食材を多めに用意して。俺ら好みの内容を揃えて。
俺らが現れてから買いに行っても、勿論構わないはずだ。が、それだと見せつけることになる。俺らのためだと声高に主張するも同じになる。
言わんとすることを、秋樹は読み取ったらしい。
「一人暮らしが寂しいのかもしれないよ。それで僕らを待ってたのかも」
歩み寄ってきた、と思うと、開けたままだった扉を閉めた。
「何の証拠にもならないさ。どう解釈したいかだ」
「おまえはどう思う?」
「車一台分振り込んでおいてくれるってさ」
一瞬何のことかと思った。生活費の話だ、今回ここに来たきっかけの。車一台分、という価格設定がおねーサマらしい。
「その事実があれば結構。河野さんの本心がどうでも」
……そうやって割り切れるから、秋樹は優等生でいられたのだ。人格と行為を分けられるから。
けど、俺は気にしてしまう。道楽に過ぎないのか、本当に案じているのか。自分のためなのか、俺たちのためなのか。
俺たちを本気で心配してくれる人なら――たかってしまって、よいものか。
リーダーは肩を竦めた。
「本気で心配してるなら家出の協力はしないさ。保護して学校に行かせるよ、将来のために」
それはまあそうかもしれないけど、そんなことはこっちは望んでいない。保護だの何だの余計なことは、しないでいてくれた方がありがたいんであって。
……ああ。
秋樹の微笑に気づいて悟った。そういうことじゃないんだ。
「そうだな」
そう思った方が――気が楽だと。
親切だとしても無責任なのだ。優しいとしても浅はかなのだ。いい加減で片手落ちなのだ。それなら、感謝ばかりしなくてもいい。
それで行こう。
「人の家の冷蔵庫なんて勝手に開けるもんじゃないんだよー?」
口うるさいのが隣りの部屋から、サイダーを見咎めて声を上げた。
「いーんだよ。おねーサマの物は俺の物」
「図々しいんだから」
ぺろんと舌を出して返答に代える。寧ろ満足だろうよ、そのために買っておいたはずなんだから。
特別喉が渇いていたわけではなかったが、俺はその場でサイダーを飲み干した。車一台分のお返しだ。後で空のペットボトルをみつけて、おねーサマは悦に入るだろう。