好きだと言ったら、城が魔王になった。
【第一話:禁句は四十七個】
「好きです」と姫が言った瞬間、結婚式場が俺を食い始めた。
礼拝堂の長椅子が床板を蹴った。
磨き上げられた樫材が真ん中から裂け、木目の隙間に白い牙がずらりと並ぶ。座面の赤いクッションが舌のように伸び、俺の左足へ巻きついた。
「うおっ――!」
引き倒される寸前、銀色の光が走った。
クッションが切れ、俺は冷たい大理石へ尻から落ちる。目の前では、純白の儀礼服をまとったアリシアが、抜き放った細剣を片手に首を傾げていた。
「やはり、伝わりましたね」
「確認するために言ったんですか!?」
「いえ。伝えたかったので言いました」
「もっと悪い!」
天井から、きい、と金属の軋む音がした。
見上げれば、百本の蝋燭を載せた金色のシャンデリアが八本の鎖を脚のように折り曲げている。その中央に赤い光が灯った。どう見ても目だった。
「姫様!」
俺はアリシアを引き寄せ、そのまま横へ飛んだ。
直後、シャンデリアが落ちた。
金属の脚が大理石を抉り、砕けた蝋燭が火の尾を引いて飛び散る。礼拝堂の参列者たちが悲鳴を上げ、三つある扉へ殺到した。
「近衛隊は避難誘導! 西扉は使うな、外開きだ! 押し合ったら詰まる! 司祭様、祭壇横の通用口を開けて!」
俺の声に、金縁眼鏡の老司祭が我に返る。
「久世殿! これは、まさか……!」
「一方的な告白による《告白迷宮》です! 規模は――」
礼拝堂全体が、大きく脈打った。
柱が骨のように曲がり、壁を覆う白薔薇が一斉にこちらを向く。甘かった花の匂いが、濃すぎる香水のように鼻を刺した。
祭壇の背後で、聖女のステンドグラスが笑う。
『――規模、王城級』
赤い色硝子の唇から、ひび割れた声が響いた。
「……だそうです」
俺は立ち上がり、礼装の内ポケットから革表紙の手帳を取り出した。
表紙には、俺の字でこう書かれている。
アリシア殿下・禁句一覧。
「姫様。『好き』は禁句だと四十七回申し上げましたよね?」
「ですから、四十八回目なら何かが変わるかと思いまして」
「回数の問題じゃありません!」
アリシアは細剣についた木屑を払い、わずかに唇を尖らせた。
「変わりましたよ。城が」
「うまいことを言った顔をしないでください」
「今のは、かなり面白かったのでは?」
「自分のことを『王城級』とドヤ顔で言ってくる敵の方が、まだ面白いですよ」
八本脚のシャンデリア――告白迷宮が調度品から生み出す《誓装魔》が跳びかかってくる。
アリシアが細剣を振るった。銀光が円を描き、四本の鎖脚を切り飛ばす。それでも勢いは止まらない。
俺はその場に立ったまま、金色の怪物を見据えた。
残った脚が俺の頭を串刺しに――する寸前、ぴたりと止まる。
赤い目が明滅した。怪物は目の前の俺を見失い、首にあたる輪を左右へ回す。
「こっちですよ、照明器具」
返事はない。
当然だ。こいつには、俺が見えていない。
俺に与えられた、この世界で唯一の能力。
《部外者》。
魔法でできたものは、俺を対象として認識できない。
「後ろです」
アリシアの声と同時に、細剣が怪物の赤い目を貫いた。
火花を噴いたシャンデリアが、床へ崩れ落ちる。
「お見事」
「あなたが囮になったからです」
「囮としてすら認識されてませんけどね」
「では、空気ですか」
「言い方」
礼拝堂から人影が消えたのを確かめ、俺たちは祭壇脇の通用口へ走った。
背後で、ステンドグラスが甲高く笑う。
『告げられた愛に、答えはない』
七色の亀裂が、礼拝堂の壁から天井へ走った。
『ならば問おう。その愛は、誰を見ている?』
鐘が、一つ鳴った。
夜明けまで、あと十一。
まだ正午前のはずだった。
◇
話は、礼拝堂が俺を食う四半刻ほど前に遡る。
その時点では、長椅子はおとなしく長椅子をしていた。
高窓から朝の光が差し、磨かれた床に青や赤の模様を落としている。祭壇には白薔薇。左右に二百席。正面扉から祭壇までは三十歩。非常時に使える出口は三つ。
昨日のリハーサルは、夕刻だった。
同じ部屋でも、光の角度が変われば別の部屋になる。段差の影が消え、床の艶が鈍り、昨日見えていたものが見えなくなる。逆もある。
日本で結婚式場のトラブル対応をしていた俺には、神聖な場所より先に、避難経路と、可燃物と、昨日と違う影の落ち方が見える。
職業病というやつだ。
「では、最終確認です」
俺は祭壇前に立つアリシアへ、禁句帳を開いた。
「第一、『好き』。第二、『愛しています』。第三、『お慕いしております』。第四――」
「則人」
「私語も可能なら慎んでください。姫様の声は、何を恋情と判定されるか分かりません」
「では、身振りで伝えます」
アリシアが両手の親指と人差し指を合わせ、胸の前で形を作る。
「心臓ですか?」
「あなたの故郷では、これで好意を表すと聞きました」
「誰です、姫様にハートマークを教えたのは」
「侍女のマルタです」
「あとで禁句帳を一冊渡しておきます」
アリシアは二十歳になったばかりだった。
月光を溶かしたような銀髪。青灰色の目。背筋を伸ばして黙っていれば、国中の画家が描きたがる気高い王女そのものだ。
ただし、黙っていれば、という条件がつく。
「第五、『あなたは私の太陽』。これは特に危険です。百二十年前、王女の比喩を真に受けた告白迷宮が王宮を三日間燃やしています」
「では、『あなたを見ると心拍数が十八パーセント上昇します』は?」
「症例報告です。たぶん安全でしょう」
「毎朝、同じ症状があります」
「王室医に診てもらってください」
「原因は分かっています」
「なら治療を」
「この一年、試みましたが治りませんでした」
俺は次の項目へ進んだ。
聞こえなかったことにする技術は、異世界へ来てからずいぶん上達した。
「第四十六、『来世でも会いたい』。第四十七、『これが終わったら大事な話があります』。最後のものは告白そのものではありませんが、死亡率が妙に高いので禁止です」
「則人」
「はい」
「これが終わったら、大事な話があります」
「今、禁止したばかりですよね!?」
アリシアは笑った。
声を立てず、ほんの少し目尻を下げる。公の場では見せない、俺だけが知っている笑い方だった。
その声を聞けるのも、あと半刻だった。
今日の《沈黙の誓い》が終われば、アリシアは二度と声を出せない。
王家の女に受け継がれる《誓言》は、強い想いを込めた言葉を現実へ変える。その力が強すぎるため、二十歳を迎えた王女は声を捧げる。それがこの国で七百年続く慣習だ。
彼女の声は王都を包む防壁へ変わり、民を守り続ける。
本人は、そう説明していた。
「……本当に、いいんですか」
俺の口から、予定表にない言葉がこぼれた。
「何がです?」
「これから先、何も言えなくなる」
「筆談はできます」
「姫様、字が汚いでしょう」
「王女に対する発言とは思えません」
「事実です。『視察』を『焼肉』と読み違えて、厨房が三日混乱しました」
「あれは書記官の読解力に問題があります」
「肉の発注書に王印を押したのは誰ですか」
「結果として兵士の士気は上がりました」
また、笑う。
俺は禁句帳を閉じた。
「帰還の術式、今日の儀式が終わったら試すそうです」
「聞いています」
無意識に、胸元の真鍮の札へ指が触れていた。
一年前、この世界へ召喚されたとき、女神官が俺の首へ掛けたものだ。表には異世界の文字で《来訪者》。裏には《帰還まで保護する》と刻まれている。
――あなたはまだ、この世界のものではありません。
石畳へ膝をついたままの俺へ、白い装束の女神官はそう言った。
――この札がある限り、世界はあなたを数えません。魔法も、怪物も、祝福も、呪いも。帰る道が開くまで、あなたは客人です。
便利な話だと思った。傷つかず、巻き込まれず、いつでも降りられる。
――ただし、外せば世界はあなたを数えます。そして、帰り道はあなたを見失う。この札は、あなたがどこから来たかを示す唯一の目印なのです。
一年経っても、俺はそれを外していない。
「成功すれば、俺は日本へ帰れます」
「ええ」
「……それだけですか」
「他に何を?」
アリシアは、まっすぐ俺を見ていた。
冗談の一つも言わない顔だった。
俺は視線を外し、祭壇の白薔薇を一本直した。
「いえ。進行に戻りましょう」
結婚式場では、予定にない感情ほど事故になる。
俺はずっと、そうやって他人の一日を守ってきた。
自分の一日については、決めないまま。
【第二話:沈黙の誓い】
大扉が開き、式典が始まった。
白い礼装のアリシアが、赤い絨毯を進む。
左右の席には王族、貴族、騎士、各地の代表者。誰もが敬意を込めて頭を垂れている。その表情に悲しみはない。
王女が声を捧げるのは、誉れなのだ。
祭壇上では、老司祭が銀の首輪を掲げていた。細い鎖の内側で、淡い光が水のように揺れている。
「初代誓言姫の御業により、王都は守られた」
司祭の声が石壁へ反響する。
「その慈愛を受け継ぎ、第二十七代誓言姫アリシア・セルガルドは、今日、その声を民へ捧げる」
アリシアが祭壇へ上がる。
俺は一段下、進行係の位置に立っていた。
進行係の仕事は祈ることではない。段取りが崩れる場所を、崩れる前に見つけることだ。
俺は祭壇まわりを目で洗った。司祭の立ち位置。姫様の裾が引っかかりそうな縁。参列者の視線が通る角度。それから、床。
そこで、手が止まった。
祭壇の右側面。床から膝ほどの高さまでの帯が、明るい。
昨日、そこは影だった。
リハーサルのとき、俺はその段差につまずきかけて、影の縁を靴先で確かめている。だから覚えていた。高窓の位置は変わらない。変わったのは時刻だ。誓言は正午を越えられないから、儀式は夕刻ではなく朝に組まれた。この部屋のこの帯が照らされるのは、一年でも数えるほどしかない。
照らされた石の上に、彫りの線が浮いていた。
俺は膝をついた。
祭壇の側面には、古い壁画が彫られている。角のある怪物と戦う、初代王女の姿。何百回も見た、この国で最も有名な物語だ。
だが、影に沈んでいた下端まで見たのは、これが初めてだった。
怪物へ向かう足跡が、二人分あった。
一人分は、初代王女のものだ。もう一人分は、彫りが浅い。あとから削られたように、輪郭だけが残っている。その足跡は途中で列を外れ、祭壇の裏へ回り込んでいた。
「司祭様」
小声で呼ぶと、老人の手が止まった。
「初代王女の隣にいたのは、誰です」
「……何の話だ」
俺は返事を待たずに祭壇の裏へ回った。
壁画の端。後世に塗られた漆喰が剥がれ、古い文字が覗いている。異世界へ来て一年、式典資料ばかり読まされた俺にも、どうにか判別できた。
「愛する者を……讃えるな。正しく見よ。それでも手を取るなら、門は閉じる」
礼拝堂がざわめいた。
老司祭の顔から血の気が引く。
「その文言は、禁書にのみ残るものだ」
「知っていたんですか」
「伝承としてだ。初代王女は迷宮へ入り、生還した。だが、その後の王女たちは十七人が失敗した。都が焼け、数万の民が死んだ。それゆえ、王家はより確実な道を選んだ」
「確実な道?」
司祭は銀の首輪を見た。
「一人の声で、十万人を守る道だ」
俺は、その首輪をあらためて見た。
銀の輪の内側に、細い針が並んでいる。
「あの針は?」
「声を確実に魔力へ変えるためのものだ」
「喉へ刺すんですか」
「一瞬だ。痛みも長くは続かぬ」
答えになっていない。
礼拝堂の空気が、急に冷たくなった。
「姫様。知っていたんですか」
「則人」
「これは声を封じる道具じゃない。声を使って、生きたまま防壁にする道具だ」
アリシアは否定しなかった。
「話せないだけじゃないんですね」
「眠る時間が少し長くなります」
「どれくらい」
「一日の大半を」
「歩くことは」
「数年後には、難しいかもしれません」
「笑うことは?」
そこで初めて、アリシアの視線が揺れた。
「必要ありません」
腹の底で、何かが切れた。
「必要かどうかを、あなたが勝手に決めるな」
参列者の息を呑む音がした。
異世界人とはいえ、王女を怒鳴りつければ首くらい飛ぶ。それでも言葉は止まらなかった。
「姫様は、自分の命まで国の備品だと思っているんですか」
「私は王女です」
「その前に、人間でしょう」
「十万人の前では、順序が逆です」
「そんな順序、誰が決めた」
「私が決めました」
アリシアの声は、静かだった。
「告白迷宮へ挑み、失敗すれば民が死ぬ。私一人が声を失えば、誰も死にません。比較するまでもない」
「残される側は?」
「……誰のことです」
青灰色の目が、俺を捉える。
答えれば、帰れなくなる気がした。
今日まで俺は、帰還術式の研究を続けてきた。この国の人間にならず、いつでも元の場所へ戻れるように。
魔法さえ俺を《部外者》と呼んでいる。
逃げ道は、すでに用意されていた。
「久世殿」
老司祭が低い声で言う。
「儀式を続けねばならぬ。正午を越えれば、殿下の誓言は制御を失う」
銀の首輪が、また持ち上がる。
アリシアは目を閉じた。
俺は、式次第を握り潰した。
「姫様」
「進行を」
「最後に言いたいことが、あるんじゃないですか」
彼女の瞼が開く。
「言えば、城が迷宮になります」
「俺は日本で、結婚式場の事故処理をしていました」
「存じています」
「酔って噴水を泳いだ新郎。式の十分前に逃げた新婦。ウェディングケーキへ突っ込んだ親族。スプリンクラーを作動させた余興。全部どうにかしました」
「最後のものは、どうにもならなかったと聞きました」
「……半分くらいは」
こんなときだけ記憶力がいい。
「だから城一個くらい、誤差です」
「無茶苦茶です」
「あなたにだけは言われたくない」
俺は首輪を奪い取り、祭壇の床へ投げた。
銀の輪が甲高い音を立てる。
「あなたは、どうしたいんです」
長い沈黙があった。
アリシアが王族席を見る。老いた父王を見る。礼拝堂を埋める民の代表を見る。
最後に、俺を見る。
「私は」
声が震えた。
「明日も目を覚ましたい。自分の足で歩きたい。くだらないことを言って、あなたに呆れられたい」
「それは、かなり迷惑ですね」
「ええ。迷惑をかけたいのです」
一筋だけ、涙が頬を伝った。
「あなたが、好きです」
それで、結婚式場が俺を食い始めた。
【第三話:城が魔王になった】
礼拝堂から続く通路は、もう城の中ではなかった。
白い壁が呼吸するように膨らみ、床の絨毯はぬるい血管のように脈打っている。窓の外には王都ではなく、濃紺の空が広がっていた。上下逆さまの尖塔が、遠い雲から何百本も垂れ下がっている。
「城内に異空間を重ねています」
アリシアが走りながら言った。
「出口は?」
「告白した者が迷宮の核を破壊するまで、出現しません」
「大事な規則は先に言ってください!」
「言えば、止めましたか」
「全力で止めました!」
「だから言いませんでした」
背後から、金属の擦れる音が追ってくる。
銀のフォークとナイフが、二本脚で走っていた。数は百を超える。先頭では、蓋を盾にしたスープ鍋が湯気を噴いている。
「披露宴会場の食器ですね」
「見れば分かります!」
「私たちの門出を祝いたいのでしょうか」
「それにしては、殺意溢れた祝福ですね!」
通路の先に両開きの扉が見えた。
俺は飛び込み、アリシアを招き入れる。扉を閉めた直後、刃物の雨が木板へ突き刺さった。
そこは大宴会場だった。
二百人分の円卓。天井まで届く深紅のカーテン。正面には楽団用の舞台と、三段の巨大な祝宴菓子。
甘い焼き菓子の匂いに、焦げ臭さが混じっている。
「窓がありません」
アリシアが周囲を見回す。
「本来は南側に八枚あります。迷宮に塞がれました」
「則人。詳しいですね」
「非常口と搬入口は、初日に全部確認しました」
「初日に?」
「知らない建物で働くなら当然です」
「帰るつもりだったのに」
扉が大きくへこんだ。
「今、その話をします!?」
「今しか聞けないかもしれません」
「縁起でもないことを言うのも禁止!」
俺は円卓の配置を見た。
中央通路は広いが、正面扉まで一直線で追いつかれる。右手の厨房口は鍵がかかっている。左手には配膳用のワゴンが六台。
天井のカーテンレール。
壁際の巻き上げ機。
「姫様。あの赤い綱を切れますか」
「できます」
「俺が合図したら」
扉が砕けた。
銀食器の軍勢が雪崩れ込む。ナイフが光を弾き、白い閃光となって迫った。
「今!」
アリシアの剣から風の刃が飛ぶ。
綱が切れた。
天井を覆っていた深紅のカーテンが一斉に落下し、食器の群れを包み込む。鍋の怒ったような蒸気音。布の下で刃物が跳ねる。
「走って!」
俺たちは配膳ワゴンへ飛び乗った。
アリシアが壁を蹴る。車輪が石床を鳴らし、円卓の間を滑走した。
前方で、三段の巨大菓子が揺れる。
砂糖細工の白鳥が首をもたげ、クリームの中から六本の腕を生やした。
「あれも敵ですか」
「普通のケーキは動きません!」
「則人のいた世界でも?」
「どこの世界でもです!」
菓子の怪物が、燃える苺を投げつけてくる。
俺はワゴンの取っ手を引き、急旋回した。火球が肩を掠め、礼装の袖が焦げる。
「則人!」
「平気です。次、右!」
アリシアが剣を振るう。風圧で別のワゴンが押し出され、菓子の脚へ衝突する。
巨体が傾いた。
「則人、受け止めてください」
「何を――」
三段すべてが、こちらへ倒れてきた。
「無理に決まってるでしょう!」
俺はアリシアを抱えてワゴンから飛んだ。
背後で爆発するような音。クリームとスポンジが床を滑り、カーテンの下でもがく食器軍へ押し寄せる。油を含んだ菓子が火を呑み込み、怪物たちをまとめて壁へ叩きつけた。
俺たちは厨房口の前へ転がった。
「なるほど。倒して消火を」
「狙ってません! ケーキへ突っ込む余興は二度と見たくなかったのに!」
アリシアの肩に、クリームがついていた。
彼女は指ですくい、舐める。
「おいしいです」
「緊張感!」
「あなたが必死になる顔を、私はかなり好ましく思っています」
空中に、ぽん、と白い煙が上がった。
羽の生えた小さな兵士が十二体、弓を構えて現れる。
「姫様ぁ!」
「『好き』とは言っていません」
「類義語も禁句だと説明したでしょう!」
「第四十八番に加えてください」
「増やしてる場合ですか!」
矢が降る。
俺には当たらない。魔法の矢は、俺の体を霧のように通り抜けた。
だが、背後のアリシアには当たる。
俺は反射的に彼女を庇った。
矢は俺を通過し、アリシアの肩へ突き刺さる。
「くっ……!」
白い礼装に赤が滲んだ。
俺は役に立たない盾だった。
「離れてください」
「でも」
「あなたを狙えないなら、私が仕留めます」
アリシアは俺の背から飛び出した。
剣が三度閃く。風が渦を巻き、天使兵をまとめて天井へ叩きつけた。白煙が弾け、光の粉が雨のように落ちる。
彼女は肩の矢を引き抜いた。
「回復魔法は?」
「使えます。しかし、この迷宮では治りが遅い」
「俺が受けられれば」
「則人は《部外者》ですから」
アリシアは傷口へ手をかざした。淡い光が滲むが、出血は止まりきらない。
「便利な力です。あなたは傷つかない。迷宮が崩れても、一人だけ外へ弾き出される」
「褒められてる気がしませんね」
「褒めていません」
声が冷たかった。
「私は告白しました。次は、あなたが答える番です」
「今答えたら、怪物が倍になります」
「そういうところです」
アリシアが厨房口へ向かう。
その手首を、俺は掴んでいた。
自分でも驚いた。この一年、俺の側から距離を詰めたことは一度もない。
「一つだけ聞かせてください。首輪の中身を、いつから知っていたんですか」
アリシアの肩が、わずかに強張った。
「……十四のときです」
「六年」
「ええ」
「六年黙っていたのに、俺の禁句帳に付き合っていたんですか」
「あなたが必死に危険を数えるのが、面白かったので」
「面白がる話じゃない」
「知っています」
彼女は俺の手を、そっと外した。
「だから、面白がるしかなかったのです」
アリシアは厨房口を蹴り開けた。
冷たい暗闇へ、一人で踏み込んでいく。
俺は少し遅れて、その背を追った。
答えを持たないまま。
【第四話:鏡は嘘をつかない】
厨房の先にあったのは、城の廊下ではなかった。
壁も天井も、無数の鏡でできた回廊だった。
幅は四歩ほど。突き当りは見えない。継ぎ目のたびに俺たちの像が折れ、前にも後ろにも、何十人もの俺とアリシアが並んで歩いていた。足音が硬く、何重にも反響する。
そして左右の鏡には、歩いている現在ではなく、知らない未来が映っていた。
最初の鏡に、日本の駅が見えた。
灰色のスーツ姿の俺が、人混みの中を歩いている。ポケットのスマートフォンを確かめ、時刻表を見上げる。誰も俺を知らない。俺も誰も見ていない。
異世界で過ごした一年だけが、切り取られた夢のようだった。
「帰還術式が成功した未来でしょうか」
アリシアが二歩ぶん離れた場所で言う。
「ただの幻です」
「嬉しそうではありませんね」
「姫様はどうなんです」
向かいの鏡に、玉座の間が映っていた。
アリシアが玉座に座っている。
銀の首輪。閉じた目。やせ細った体。足元から無数の光の糸が伸び、王都を覆う防壁へつながっていた。
人々が彼女へ祈り、感謝し、通り過ぎていく。
誰一人、彼女の返事を待たない。
「予定されていた未来です」
「あれを見ても?」
「民は守られています」
「あなたは死んでるようなものだ」
「生きています」
「あれを生きていると言うな!」
声が鏡へぶつかり、砕けるように反響した。
アリシアが足を止める。
「では、あなたは?」
「何がです」
「帰れば、生きていることになるのですか」
「俺の世界です」
「あなたの家には、誰が待っています?」
答えられなかった。
両親とは何年も会っていない。友人たちは結婚し、子供ができ、年に一度メッセージを交わす程度だ。
仕事では、誰かの晴れの日を成立させた。感謝はされた。翌日には次の式が来た。
俺が消えても、別の担当者が席を埋める。
「待っている人がいなければ、帰ってはいけませんか」
「そうは言っていません」
「言っているのと同じです」
「則人はいつもそうです」
アリシアの声が震える。
「必要とされる場所には立つ。けれど、誰にも近づきすぎない。帰還方法を探し、私からも、この国からも、半歩だけ離れている」
「俺を呼んだのは、そっちでしょう」
「だから一年も客人でいるのですか」
客人。
一年前、女神官が使ったのと同じ言葉だった。
「俺は、この世界の人間じゃない」
「ええ。《部外者》ですから。魔法にも怪物にも、私の告白にも、本当は関係がない」
「関係ないなんて言ってない!」
「では、何です?」
アリシアが俺へ向き直った。
鏡の中で、何十人もの彼女が同時にこちらを向く。
肩の傷から、また血が滲んでいる。
「私が首輪をつけていたら、あなたは悲しかった?」
「当たり前でしょう」
「なぜ?」
「一年も一緒にいた人間が、あんなことになれば誰だって」
「誰だって」
その言葉を、彼女は吐き捨てた。
「私は、誰でもありません」
「分かってます」
「分かっていない!」
鏡が一斉に震えた。
ひびの間から、白い指が伸びる。
何百本もの腕が鏡面を掴み、内側から何かを押し出そうとしていた。
アリシアは剣を構えたが、俺を見たまま言った。
「あなたは、私が消えれば怒る。けれど、自分が消えて私がどう思うかは、考えもしない」
「日本へ帰るのと、首輪をつけるのは違う」
「残される側にとって、何が違うのです!」
鏡が割れた。
白い破片の中から、女が現れる。
アリシアと同じ銀髪、同じ青灰色の目。けれど、その顔には怒りも涙もない。
純白の花嫁衣装をまとい、薄い微笑を浮かべている。
『私は望みません』
女が言った。
『私は怒りません。妬みません。迷惑をかけません。愛する方のお帰りを、笑ってお見送りします』
アリシアの顔が青ざめる。
『私は民のために声を捧げます。歩けなくても、笑えなくても、何も求めません』
「黙れ」
『それが、完璧な王女。完璧な花嫁』
「黙れ!」
アリシアの剣から風が放たれた。
花嫁の胸を貫く。
白布が裂け、鏡の破片が飛んだ。だが傷口から薔薇が咲き、瞬く間に元へ戻る。
『あなたの愛するアリシアは、私でしょう?』
「違う!」
俺は叫んだ。
「アリシアは、そんな人形じゃない。優しくて、勇敢で、誰より民を思って――」
花嫁の背から、巨大な白い翼が開いた。
体がひと回り大きくなる。
「……え?」
『もっと讃えて』
女の指先から、白い光が放たれた。
アリシアが俺を突き飛ばす。
光が彼女の脇腹を抉り、鏡へ叩きつけた。
「姫様!」
『美しい。優しい。気高い。勇敢。あなたが愛するのは、欠点のない王女』
壁画の言葉が脳裏に蘇る。
愛する者を、讃えるな。
正しく見よ。
そこでようやく、俺はあれが教訓ではないと理解した。
《誓言》は、言葉を現実へ変える力だ。この迷宮も、この女も、俺たちの言葉でできている。
讃辞は、像を作る。美しい、優しい、気高い――そういう言葉は、相手の輪郭を削って型へ嵌める。型に嵌るぶんだけ、像は濃くなる。俺がさっき並べた言葉は、全部この女の設計図に載っていた。
だから、太った。
なら、逆をやればいい。
設計図のどこにも書かれていない言葉。理想像の中に置き場所がない言葉。
つまり、欠点だ。
「姫様、立てますか」
「問題ありません」
「いや、問題しかないでしょう」
「王女ですから」
俺は思わず舌打ちした。
「そこです」
「何がです?」
「あなたの一番嫌いなところ」
アリシアの目が丸くなる。
花嫁の笑みが消えた。
「自分を犠牲にすれば立派だと思ってる。何でも一人で決める。人の話を聞かない。字が汚い。冗談が絶望的につまらない」
「最後の二つは今、必要ですか?」
「全部、正しく見るために必要です」
花嫁の頬に、細い亀裂が走った。
効いている。
理屈通りだ。この女は、王女の理想像しか収納できない。収まらない言葉を渡されるたび、器のほうが割れる。
「それから、怒ると早口になる。甘いものを見ると王女の顔を忘れる。視察と称して屋台を食べ歩く。寝起きは髪が爆発してる」
「なぜ知っているのです!」
「朝の打ち合わせを何度したと思ってるんですか!」
亀裂が首筋まで伸びる。
しかし、花嫁は甲高い声を上げ、回廊の奥へ飛んだ。
白い翼が鏡を次々と砕く。破片の向こうに、夜空へ伸びる鐘楼が現れた。
『十二の鐘が鳴るとき、答えなき愛は都を呑む』
二つ目の鐘が鳴った。
続けて、三つ目。
時間が加速している。
「追います」
アリシアが血のついた剣を握る。
「その傷で?」
「誰かが、私の欠点を並べすぎたので腹が立っています。痛みは忘れました」
「それは何よりです」
「終わったら、あなたの欠点を百個挙げます」
「禁句帳より多いな!」
走りながら、俺は壁画の三行目を思い出していた。
――それでも手を取るなら、門は閉じる。
欠点を並べるだけでは、門は閉じない。正しく見て、なお選ぶ。そこまで揃って、初めて条件になる。
つまり、最後に必要なのは俺の答えだった。
一年、保留にしてきたやつだ。
俺たちは、崩れる鏡の回廊を走った。
【第五話:死が二人を分かつまで】
鐘楼は、暴風の中に浮かんでいた。
壁はない。直径二十歩ほどの円形の床が、夜空へ剥き出しになっている。俺たちが駆け上がった階段口は東の縁。真向かいの北側、床の中心を挟んだ十歩ほど先に、黒鉄の大鐘が四本の鎖で吊るされていた。
床の外では王城の尖塔が獣の牙のように折れ曲がり、その向こうに本物の王都が見えた。
家々の灯りが、巨大な影に呑まれようとしている。
城が四本の塔を脚として立ち上がっていた。
石壁に無数の窓が開き、目のように赤く光る。正門は顎となり、王都の大通りへ向けて開いていた。
「本当に、城が魔王になってる……」
「命名は則人に任せます」
「そんな役目まで増やさないでください」
大鐘の下に、《完璧な花嫁》が立っている。
その姿は、もはや人間の大きさではない。白い裾が床を覆い、背の翼は鐘楼の端から端まで広がっていた。手には、金色の杯。
四つ目の鐘が鳴る。
『健やかなるときも』
花嫁が杯を傾けた。
金色の雫が落ち、砕けた鏡から銀の騎士たちが起き上がる。先ほど倒したはずの食器や天使兵まで、傷一つない姿で蘇った。
「再生か!」
アリシアが剣を構える。
「次は来ます。左へ!」
「なぜ分かるのです?」
「結婚式の誓詞です!」
五つ目の鐘。
『病めるときも』
白い毒霧が吹き出した。
俺たちは左へ走る。霧は俺を避けるように割れたが、アリシアの足へまとわりつく。
「風で散らして!」
彼女が剣を振り、毒霧を銀の騎士へ押し返す。騎士たちの体が黒く変色し、次々と崩れた。
「次は?」
「富めるときも!」
六つ目の鐘。
『富めるときも』
黄金の硬貨が弾丸となって降り注ぐ。
アリシアは床から砕けた石板を起こし、盾にする。金属音が連続し、石板が削られていく。
「貧しきときも!」
七つ目。
『貧しきときも』
アリシアの細剣が、光の粒となって消えた。
「当たりです!」
「喜ぶところですか!?」
「進行通りなら対処できます!」
日本で何百回も聞いた言葉だ。
健やかなるときも、病めるときも。富めるときも、貧しきときも。
世界が違っても、誓いの順序は同じだった。
召喚されたのが俺でなければ、ここで終わっていた。
そう思った瞬間、足元の石が光った。
青い線が円を描き、俺だけを外側へ弾き飛ばす。
「則人!」
俺は床を転がり、東の縁で止まった。
アリシアは中央。俺は縁。その間、十二歩ほどのところに、透明な壁が立っている。
彼女は花嫁と怪物たちの側。
俺は安全な外側。
『部外者は、問いへ答える資格を持たない』
花嫁が告げた。
――魔法は、俺を狙えない。傷つけられない。だが、資格があるかどうかだけは、判定できるらしい。
都合のいい半分だけの無視だ。
アリシアが壁を叩く。
「則人、逃げてください!」
「嫌です」
「迷宮は私が閉じます!」
「どうやって」
「核ごと自分を封じればいい」
「またそれか!」
「他に方法がありません!」
「ある!」
俺は透明な壁へ拳を叩きつけた。
音がしない。
魔法は俺を認識しない。だから壊せない。通れない。傷つかない。
いつだってそうだった。
俺は外側から指示を出し、誰かに危険を引き受けさせる。終われば礼を言われ、次の現場へ行く。
安全で、便利で、何も失わない。
何も得ない。
胸元から、真鍮の札を引き出した。
――この札がある限り、世界はあなたを数えません。
――外せば、帰り道はあなたを見失う。
裏返せば、こういうことだ。
この札を割れば、俺は客人ではなくなる。魔法は俺を数える。毒は肺へ入り、刃は肌を裂き、鎌は骨を折る。
そして、日本へ続く座標が消える。帰還術式は、俺という目印を永久に見失う。
指が震えた。
部屋の鍵。定期券。変えたばかりの携帯の契約。冷蔵庫に入れっぱなしの調味料。誰も困らない。誰も探さない。それでも、あそこには俺の名前が残っている。名前が残っている場所を、俺は一年、後生大事に握っていた。
割れば、それが全部なくなる。
怖い、と思った。
危険を数える仕事を、俺はずっとしてきた。数えるのは、当事者にならないためだ。予定表の外側に立って、事故の起きる場所を先に指差す。指を差すだけなら、誰も俺を傷つけない。
壁の向こうで、アリシアが剣を失った手を握り締めている。肩と脇腹から落ちた血が、白い礼装を赤黒く縁取っていた。
あの人は、六年黙っていた。
十四で自分の終わり方を知って、それでも俺の禁句帳に付き合って、字が汚いと言われて笑っていた。
俺は、一年黙っていた。
黙っていた理由の重さが、比べ物にならないことに、今さら気づいた。
「則人、何を――」
「姫様。俺の欠点を百個言うんでしょう」
「戻ってから、いくらでも言います! だから今は――」
「一番目だけ、先にお願いします」
アリシアが息を呑む。
八つ目の鐘が鳴った。
花嫁が新たな杯を掲げる。
『喜びのときも』
鐘楼に甘い香りが満ちた。頭が霞み、何もかもどうでもよくなるような幸福感が押し寄せる。
俺は唇を噛んだ。
血の味で意識をつなぎ、真鍮の札を床へ置く。
近くに落ちていた銀騎士の折れた剣を拾った。
「あなたは!」
アリシアが、涙で顔を歪めた。
「あなたは、臆病です! 理屈ばかりで、自分の感情を最後まで認めない! 誰かに必要とされても、いつか捨てられると思って、先に逃げ道を作る!」
「正解です」
正しく見てもらった。
なら、次は俺の番だ。
剣を振り下ろした。
真鍮の札が、甲高い音を立てて割れた。
世界が、俺を見た。
毒霧が一斉に肺へ入り、焼けた袖の痛みが戻り、黄金の弾丸が肩を掠めた。怪物たちの赤い目が、初めて俺へ向く。
透明な壁が消えた。
「俺を無視するな」
床を蹴り、アリシアの側へ飛び込む。
銀騎士の槍が迫る。折れた剣で受けるが、重い。腕が痺れ、刃が頬を裂いた。
痛かった。
怖かった。
それでも、彼女の隣に立てた。
「則人の馬鹿!」
「それ、欠点の二つ目ですか」
「一つ目に含まれます!」
アリシアが俺の手から折れた剣を奪い、銀騎士を斬り伏せる。
九つ目の鐘。
『悲しみのときも』
黒い雨が降った。
一滴触れるたび、胸の奥から後悔が湧き上がる。
帰れない。
日本へ続く道を、自分で壊した。
明日、この選択を悔やむかもしれない。
それでもいい。
後悔する権利まで、誰かに預けたくなかった。
「姫様!」
俺は雨音に負けないよう叫んだ。
「俺が好きなのは、完璧な王女じゃない!」
花嫁の翼が、大きく震える。
「あなたは頑固だ。人の話を聞かない。自分を犠牲にすれば全部丸く収まると思ってる。国民全員を守ろうとして、一番近くにいる人間を平気で置き去りにする!」
花嫁の額に亀裂が入った。
「字が汚い! 寝起きもひどい! 冗談は説明されても面白くない!」
「そこまで言いますか!?」
「正しく見ろと書いてあったので!」
「私にも我慢の限度があります!」
「怒ると早口になる!」
「則人!」
「それでも!」
声を張った。
アリシアが黙る。
「そんな面倒なあなたと、明日も話がしたい。明後日も、その次の日も。帰れる場所じゃなく、帰りたい場所を、あなたの隣にしたい」
黒い雨が止まった。
「俺は、アリシアを選びます」
正しく見て、それでも手を取る。
壁画の条件が、そこで揃った。
花嫁の顔が、砕けた。
白い仮面の下から現れたのは、泣いているアリシアの顔だった。
十個目の鐘が鳴る。
『それは、永遠の誓いか』
怪物が問う。
俺は答えようとした。
だが、アリシアが先に口を開く。
「いいえ」
花嫁が動きを止めた。
「永遠など、今の私たちには分かりません」
アリシアは俺を見た。
涙と血で、ひどい顔だった。たぶん俺も同じだった。
「則人は臆病です。逃げるかもしれない。私は頑固です。あなたの話を聞かず、また勝手に決めるかもしれない」
「否定できませんね」
「ですが、そのたびに捕まえます。そのたびに話します。そのたびに、選び直します」
彼女の手に、光が集まった。
美しく整った聖剣ではない。刃には大小の欠けがあり、鍔は左右不揃いで、握りには補修したような布が巻かれている。
不完全な剣。
「私は、この臆病で、理屈っぽくて、肝心なときだけ無茶をする人を選びます」
俺の左腕に、光が絡んだ。
現れた盾も歪だった。継ぎ接ぎだらけで、中央には大きなひびがある。
それでも、手に馴染んだ。
『不完全な誓い』
花嫁が後ずさる。
『永遠を約さぬ愛など――』
「永遠を軽々しく約束するほうが、信用できません」
アリシアが剣を構えた。
「現実的だなあ!」
「あなたに教わりました」
十一個目の鐘が鳴った。
『死が二人を分かつまで』
花嫁の両手に、黒い大鎌が現れる。
鐘楼を両断する一撃が、横薙ぎに放たれた。
「則人!」
「分かってます!」
俺はアリシアの前へ出た。
不完全な盾を、両手で構える。
衝突。
腕の骨が軋んだ。足元の石が砕け、靴底が床を滑る。盾の中央のひびが、蜘蛛の巣のように広がっていく。
以前なら、攻撃は俺をすり抜けた。
今は全身が痛い。
「重っ……!」
「則人、あと三秒!」
「二秒にしてください!」
「では、二秒!」
アリシアが俺の背を踏み台にして跳んだ。
銀髪が夜風に広がる。
花嫁は鎌を押し込んでいる。がら空きになった頭上には、十二回目を鳴らそうとする黒鉄の鐘。
アリシアは怪物を見なかった。
不完全な剣を、鐘を吊るす四本の鎖へ振り下ろす。
「これで――終わりです!」
鎖が断ち切られた。
大鐘が落ちる。
花嫁が振り返った。
黒鉄の塊が、白い翼ごと怪物を押し潰す。
十二回目の鐘は鳴らなかった。
代わりに、世界中の鏡が割れるような音がした。
魔王となった城の赤い目が、一つずつ消えていく。
四本の塔脚が崩れ、石の巨体が元の位置へ沈む。逆さまの尖塔が空へ溶け、夜が剥がれ落ち、その向こうから朝の光が差した。
鐘楼の床も崩れる。
「姫様!」
落ちてきたアリシアへ手を伸ばす。
指が触れた。
今度は、魔法に邪魔されなかった。
俺たちは一緒に床へ倒れ込んだ。
礼拝堂の大理石は冷たく、朝日の中には白い埃が舞っている。
胸元には、もう何も下がっていない。
すぐ近くで、アリシアが息をしていた。
「則人」
「はい」
「答えを聞きました」
「聞こえてましたか」
「かなり大声でしたので」
「城がうるさかったんです」
「もう一度、静かな場所で聞きたいです」
「欲張りですね」
「私の欠点です」
アリシアが笑った。
笑い声が、壊れた礼拝堂に響いた。
その声を奪う首輪は、落ちた鐘の下で真っ二つに割れていた。
【第六話:四十八番目の禁句】
王城が魔王になってから、七日が過ぎた。
人的被害は、奇跡的に軽傷者三十二名。
建物の被害は、礼拝堂半壊、大宴会場全壊、鐘楼消滅、客室二十七室が一時的に胃袋となった。最後のものは、元に戻ってからも利用客が寄りつかないらしい。
俺は執務室の机で、修繕費の見積書を眺めていた。
「ゼロが一つ多くありませんか」
向かいに座る財務官が、無言で首を振る。
「では、王家の予備費から」
財務官が、もっと強く首を振る。
「俺、無職なんですけど」
「本日付で職ができました」
背後から声がした。
振り返ると、アリシアが書類の束を抱えて立っている。肩と脇腹にはまだ包帯が巻かれているが、自分の足で歩いていた。
「《王配候補兼・告白迷宮管理官》です」
「勝手に変な役職を作らないでください」
「王議会は全会一致でした」
「誰もやりたくないだけでしょう!」
財務官が初めて頷いた。
「ほら!」
アリシアは俺の隣へ腰を下ろし、書類を机へ置く。
最上段には、《沈黙の誓い廃止令》と記されていた。
祭壇の壁画と迷宮から得られた記録によって、本来の儀式が明らかになった。
王家の誓言は、恋を罰する呪いではない。
理想や役割を愛するのではなく、不完全な一人の人間を見つめ、なお選べるかを問う試練だった。初代王女の隣にいたもう一人分の足跡は、その試練に付き合った誰かのものだ。名は残っていない。
今後、王家の女性が声を捧げることはない。
もっとも、告白するたび迷宮が発生する危険は残ったため、専門の管理官は必要らしい。
「帰還術式は、もう使えないそうですね」
アリシアが、書類を揃えながら言った。
「札が座標でしたから」
「……後悔していますか」
「毎日します」
彼女の手が止まった。
「それでも、毎日ここを選び直します。後悔と選び直しは、両立するそうですよ。誰かに教わりました」
アリシアは俺を見て、それから、少しだけ目尻を下げた。
「ところで、《王配候補》とは」
俺が尋ねると、アリシアは不思議そうな顔をした。
「そのままの意味です」
「聞いてません」
「迷宮で、帰りたい場所を私の隣にすると」
「言いましたが、段階というものがあるでしょう。まずは交際からです」
「交際」
アリシアは未知の魔法を聞いたように、その言葉を繰り返した。
「恋人として互いを知って、それから将来を決めるんです」
「鐘楼で、欠点まで十分知られたと思いますが」
「あれが全部だと思わないでください。俺にはまだまだ嫌なところがあります」
「楽しみです」
「普通、不安になるところですからね!?」
アリシアが、俺の机に置かれた禁句帳を手に取った。
火とクリームと血で汚れた革表紙。中には四十七の危険な言葉と、宴会場で追加した一つが書かれている。
「恋人として、最初のお願いがあります」
「嫌な予感しかしませんが、何でしょう」
「もう一度、好きと言ってください」
「城が直ってないのに!?」
「二度目なら、離れが迷宮になる程度かと」
「根拠は!?」
「ありません」
「王族の発言として、それはどうなんだ!?」
俺が立ち上がった瞬間、窓の外で、みしり、と音がした。
中庭の隅にある物置小屋が、こちらを向いていた。
木の扉が横へ裂け、ぎざぎざの牙が覗いている。
「姫様」
「まだ、何も言っていません」
「思っただけでも駄目になってません!?」
「思いが強くなったようです」
「嬉しくない成長だな!」
物置小屋が地面から四本の柱を引き抜き、走り出した。庭師たちが悲鳴を上げて逃げる。
アリシアは楽しそうに窓を開け、剣を抜いた。
「則人。初仕事です」
「この役職、今すぐ辞めていいですか」
「その場合は、王配候補だけが残ります」
「……謹んでお受けします」
俺は禁句帳を開き、四十九番目の項目を書き加えた。
交際開始後も、油断しない。
それから剣を掴み、笑っている王女と一緒に窓を飛び越えた。
もう、外側には戻れない。
帰りたい場所が、今日も俺を面倒事へ連れていく。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
下の☆☆☆☆☆は、全部点けても城は魔王になりません。
「面白かった」「この二人が好き」と感じていただけましたら、応援していただけると嬉しいです!




