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夫の浮気相手が私の親友だった話  作者: 九葉(くずは)


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第10話「桃のパイと、初めての笑顔」

半年後、私は人生で初めて、自分のために桃のパイを焼いていた。


その同じ朝、王都から東へ馬で十日の小さな宿場町、雨。


エドガー・ヴァレンスは、安宿の裏手の井戸端で、自分の顔を、欠けた鏡に映していた。


頬は痩せ、髭は不揃いに伸び、目の下には黒い影が落ちていた。彼は剃刀を握っていた。震える指で、己の顎の下に当てた。一筋、滑らせた。痛みが走った。指先に、血の珠が滲んだ。


「ちっ……」


彼は剃刀を下ろした。


かつて、毎朝、侍従が温めた湯と上等な剃刀で剃り上げてくれた髭を、彼は今、自分で剃れなかった。


宿屋のおかみが、裏戸を蹴り開けた。腰に手を当てて、彼を見下ろした。


「家賃! 今月もないのかい!」


「待ってくれ、もう少しだけ……」


「もう少しもへちまもないよ。今日中に出ていきな。元伯爵様だかなんだか知らないけどね、金を持ってない男に貸す部屋はないんだ」


エドガーは、井戸の縁に手をついた。立ち上がろうとして、膝が震えた。剃刀が、井戸の縁から滑って、地面に落ちた。


おかみは、もう振り返らずに裏戸を閉めた。


宿場町の街道で、エドガーは荷物を背負い直した。数枚の銅貨と、汚れたシャツが二枚と、剣だけ。それが、八年間ヴァレンス伯爵だった男に、残った全てだった。


街道の向こうから、立派な馬車が一台、近づいてきた。アーレンフェルト辺境伯領の紋章。エドガーは、思わず街道の脇に身を寄せた。


馬車が、彼の前で、止まった。


御者台から降りてきたのは、見覚えのある男だった。痩せて、几帳面な、年配の。


ハロルドだった。


エドガーは、息を呑んだ。


「ハロル……」


ハロルドは、エドガーを見た。一度だけ。それから、視線を、まっすぐに前に戻した。彼の目は、エドガーの存在を、まるで、地面に落ちている古い藁屑くらいにしか、認識しなかった。


ハロルドは、馬車の扉を開け、中の貴婦人に「お嬢様、もうすぐ宿でございます」と告げた。馬車は、エドガーの脇を、ゆっくりと通り過ぎていった。


エドガーは、街道の真ん中で、立ち尽くした。


知らんふり、ですらなかった。


存在ごと、もう、視界に入っていなかった。


その夜、彼は町の隅の安酒場の隅で、銅貨数枚で買った薄い葡萄酒を、ちびちびと舐めていた。隣の卓で、商人風の二人組が、声高に話していた。


「聞いたか、アーレンフェルト辺境伯領の話。あの王族傍系の学者様の奥方が、半年で税制を作り変えちまったってよ」


「ああ、聞いた聞いた。なんでも村ごとに帳簿を配って、女子供まで読み方を覚えさせてるとか。畑の出来は今年、東の三領全部抜いたらしい」


「奥方ってのは、確か、もとはどこぞの伯爵の妻だったろう」


「そうそう。あの伯爵が留守番女扱いしてた、可哀想な奥方さ。今頃あの伯爵、どこで何してるんだか」


「破産して行方知れずだろ。ざまあみろだ」


エドガーは、葡萄酒の杯を、握りしめた。


唇から、声が、勝手に零れた。


「俺の俺の俺の妻俺の妻だった俺の俺の妻俺は俺は俺は何を」


隣の卓の二人が、振り返った。それから、笑った。


「なに言ってんだ酔っ払い。お前みたいなボロボロの男の妻が、辺境伯夫人なわけねえだろ」


エドガーは、何も言い返せなかった。


代わりに、自分の手のひらを、見つめた。剣ダコのある、頑丈な、はずだった手。この手で、八年間、俺は、何を、作ったことが、あったんだ。


答える者は、誰もいなかった。


同じ刻、モンフォール子爵領の崩れかけた屋敷の一室で。


セレナ・モンフォールは、冷たい床に膝をついて、針を握っていた。


布の上には、三段だけ、鷲の翼の歪んだ意匠が広がっていた。三段目は、特に酷かった。糸が引き攣れて、布そのものが小さく波打っていた。彼女の指は、何ヶ所も針で刺された跡があり、いくつかの傷からは、まだ薄く血が滲んでいた。


「上手くなったら……」


彼女は、自分に呟いた。


「上手くなったら……もう一度、社交界に……」


寝室の方から、母の声が響いた。


「セレナ! お粥! 早く!」


「はい、お母様」


セレナは布を置いて、立ち上がった。台所に立った。鍋の前で、薪を組もうとして、上手く火がつかなかった。八年間、彼女もまた、自分で米を炊いたことがなかった。火打ち石を擦るたび、指が震えた。


ようやくついた火で、焦げた粥を作って、母の寝室に運んだ。


母は、寝台の上で、半身を起こしていた。中風で右半身は動かない。けれど、舌は動いた。


「遅い! お前、何をしていたの!」


「ごめんなさい、お母様」


母は、左手で粥の椀を取った。一口、舐めた。それから、椀を、セレナの顔に向かって、投げた。


「焦げてるじゃないの! お前は、本当に、何もできない! 二十年! 二十年計画したのに、お前が下手だったから、ぜんぶ、ぜんぶ!」


熱い粥が、セレナの頬に飛んだ。彼女は声を上げなかった。


「お前なんか、産まなければよかった!」


その夜、雨が降り始めた。


セレナは、屋敷を出た。傘も差さずに。靴も履かずに。


子爵領の門を出て、街道を、東へ歩いた。アーレンフェルト辺境伯領の方角へ。何百キロも、ある道のりだった。彼女は、それでも、歩いた。


三日、歩いた。


四日目の夕方、雨に打たれ、痩せこけ、目を落ち窪ませたセレナは、アーレンフェルト辺境伯邸の門前に、辿り着いた。


新しい白い石造りの門。金細工の装飾。八年前、ヴァレンス家の門よりも、ずっと豪奢だった。


セレナは、門の前の泥にひざまずいた。


額を、地面に擦り付けた。


「リネア!」


声は、かすれていた。


「お願い、一度だけ会って! 私が悪かった、全部私が悪かった、お母様に言われてやっただけなの! 本当はあなたが大好きだったの! 十二歳の時から、本当はあなたが、大好きだったの!」


雨は、止まなかった。


辺境伯邸の二階の窓辺に、私は立っていた。


ユリウスが、隣で、静かに尋ねた。


「会うかい?」


私は、しばらく、雨の音を、聞いていた。


門前の泥の上の、痩せた影を、見ていた。


八年間、私の親友だと思っていた人。十二歳から二十六歳まで、私の隣に座って、私の冗談に笑って、私の刺繍の抽斗を開けていた人。


私は、首を、横に振った。


「もう、覚えていないの。あの方の顔を」


私は、自分でも驚いた。それが、嘘ではなかったから。


セレナの顔を、思い出そうとしても、もう、像を結ばなかった。八年間の親友の顔が、半年で、私の中から、静かに、消えていた。


私は、カーテンを、引いた。


それだけだった。


セレナは、三日三晩、門の前で泣き続けた。


四日目の朝、衛兵が彼女を抱え上げた時、彼女は高熱で意識を失っていた。子爵領まで、衛兵の馬車で送り返された。


二度と、社交界には戻らなかった。


家紋刺繍も、最後まで、刺せなかった。歪んだ三段の布だけは、彼女が死ぬまで、寝台の枕の下に隠されていた。


母は、その後も、毎日、娘を呪った。娘は、毎日、母を恨んだ。二人は、同じ屋根の下で、お互いだけが地獄の同居人として、何十年も、生きていくことになった。


辺境伯邸の厨房。


私は、エプロンの裾で、額の汗を拭いた。


オーブンの中で、桃のパイが、ゆっくりと、きつね色に焼けていた。甘い匂いが、厨房の中に、満ちていた。


書斎の方から、足音がした。


「リネア」


ユリウスが、書斎の戸口から、顔を覗かせた。腕には、いつも通り、革表紙の本を一冊。


「はい?」


「小麦粉が、ついている」


「え?」


「頬に」


ユリウスは、厨房の中まで歩いてきて、私の前で、立ち止まった。


それから、不器用に、人差し指の腹で、私の頬に触れた。


そっと、白い粉を、拭った。


十年間、ずっと文字しか触ってこなかった指の、ぎこちない動き方だった。


私は、俯いた。


褒められると固まる癖は、まだ、治っていなかった。八年間誰にも褒められなかった指が、半年では、まだ、慣れなかった。


ユリウスが、小さく、笑った。


「君は、笑った方がいい」


私は、顔を、上げた。


ユリウスの瞳の中に、私が映っていた。エプロン姿の、頬に小麦粉の跡を残した、髪が少し乱れた、私。


「ユリウス。それ、十年前から、思っていたの?」


「はい」


「十年前から?」


「十年前、図書館の北窓の机で、初めて声をかけた日から」


「もっと早く、言ってくれればよかったのに」


「言えませんでした。あなたが、笑える日まで、待ちたかった」


私は、息を、吸った。


そして、八年と十年分の何かが、肋骨の右側、ちょうど心臓ではない方の、見たこともない場所で、ふっと、初めての方向に動いた。


声が、出た。


「ふふっ」


それから、


「ふふ、あはははっ」


私は、笑った。


声を出して、肩を揺らして、目尻に少しだけ涙を浮かべて、笑った。八年間、夜会の席で何度も作ってきた微笑みではなかった。十年前、北窓の机で、ユリウスの「美しい」の一言に、口元だけを綻ばせた笑顔の、その続きだった。


ユリウスは、ただ、私を見ていた。


「ようやく、見られました」


彼は、呟いた。


「十年、待った甲斐が、ありました」


オーブンの中で、桃のパイが、ちょうど焼き上がった。


私はエプロンの手で、熱い天板を取り出した。きつね色の表面に、桃の薄切りが幾何学的に並んでいた。八年間、誰のためでもなく、ただ自分のために焼きたかった一皿。


ユリウスが、机の上に、紅茶を二杯、淹れた。不器用な手つきで。半分こぼしながら。


私は笑った。今度は、もう、止まらなかった。


「ユリウス、お紅茶は、私が」


「いえ、僕が淹れます。十年分、淹れますから」


窓の外で、新しい領地の桃の木が、満開だった。


机の隅には、ユリウスと私が、ここ半年で書き上げた税制改革の書類が、積まれていた。アーレン王朝中期の判例を、私の畑の数字で、書き直したもの。二人の知識を、掛け合わせて、初めて、解けた問題。


その書類の上に、桃のパイの皿を、そっと置いた。


私は、椅子に座った。


ユリウスが、私の隣の椅子に座った。


私たちは、しばらく、何も言わずに、桃のパイの湯気を、見ていた。


机の抽斗の中には、十年分の便箋の束と、母の形見の紺色のドレスをしまった木箱と、白薔薇の押し花が、静かに眠っていた。


書斎の窓の外で、辺境伯領の村々から、子供たちの笑い声が、風に乗って、聞こえてきた。


私は、フォークを取った。


桃のパイを、一切れ、ユリウスの皿に取り分けた。それから、自分の皿にも、一切れ。


「いただきます」


「いただきます」


八年間の留守番が、ようやく、終わったのだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
面白い作品でした。ざまぁと仕打ちのバランスがとれていて読み終わってもスッキリと後味が悪くない作品でした。 エドガーの落ちぶれ具合が細かく書かれており、アル中かなとか、何も出来ない不器用具合を表現してい…
今までの『ざまぁ』のタグが付いている作品の中で、最も苛烈で鮮やかな作品でした。 静かで淡々と真綿で首を絞める感じが最後まで続く。 非常に良かったです。
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