赤松記8
我が家のことは、前に申し上げた通り代々続いてきたものですが、そのような証拠となる系図などは、伊井の地にて紛失してしまい、どうしようもないことでした。
ところが思いもよらず、我が家の古い証拠書類を、とくてう(徳久)の依藤太郎左衛門が持っていると聞き及びました。色々と懇願したところ、「造作もないことだ、一通も残さず渡そう」と直接言ってくれました。
これらは依藤の証拠書類と一緒に、八幡の岩の坊に預け置かれていました。
これらは家来の「くり山」と「いのへ」の両人のうち、一人が立ち会わなければ取り出すことはできないので、待ってほしいと言われて引き延ばされました。
その後ほどなくして、依藤は死去してしまいました。彼の跡地は無残な有様となり、なかなか(書類を)申し出ることができないままになってしまいました。別所孫右衛門が依藤の遺領を整理する際に頼んで申し出ようとも思いましたが、世間の目が厳しく、下手に動いて疑われるのを恐れて、結局言い出せませんでした。
重宗には心当たりがあるはずですので、よく心得ておいてください。くれぐれも今の知行についてです。現在支配していない分については、もはや手に入らないものと考えています。
現在支配している分だけを一冊の書き物にまとめ、性煕様、義祐様のご父子からいただいた御判(署名入りの安堵状)を申請し、難波にて裏封(封印)をして保管してあります。
それは右近の手元に置いてありましたが、右近は姫路にて風気を患い、亡くなってしまいました。我々は荒田に居を置き、遠路であったため、その最期の様子を知ることができませんでした。
その後、姫路へ赴いたところ、「萬満母」が備前国へ下った後でした。そのため、そのような(預け置いた重要な文書などの)品々がどこにあるのか、何もかも分からないまま帰ってまいりました。
その後、どうしても「まんみつ母」に会うことができず、なすすべもありません。おそらく(孫の)「萬満」か、あるいは備前の「徳萬」か、どちらかの手元にあるはずですので、皆さんの心得のために書き残しておきます。
何事も今の時代にあっては、一切役に立たないことを書き集めたようで、おかしなことではありますが、もし自然と不審に思うようなことがあっても、もはや誰に問うこともできないでしょうから、前後の脈絡もなく書き付けました。
まことにたわ言のようなものですが、年寄りのしたことだと思ってお読みください。
天正十六(1588)年 八月吉日
因幡守入道定阿(花押)
八十四歳にてこれを書く




