赤松記6
その後、天文七年(1538年)、小塩山に屋形様がいらした時、雲州(出雲)の尼子政久(後の晴久)が、山名兵庫頭□たるによって但州(但馬)より当国(播磨)へ乱入する出来事がありました。
弘岡どのをはじめ、国衆の少々が尼子氏に味方し、小塩(置塩)の地も守りがたくなったため、小塩に留守居を置き、高砂の梶原駿河の構(小砦)に居りましたところ、同じく七月十七日に、小寺氏と明石氏が逆心の気配を見せ、高砂の表へ大人数(の軍勢)を繰り出してきたため、高砂に留まることも叶わず、淡路国へと退かれました。
田村能登守という者の館がある郡家という所に(逃れて)居りましたところ、阿波国の細川勝元へ(赤松政村が)連絡されました。
翌年の天文八年(1539年)四月八日、阿波衆の援軍を得て、淡路の岩屋から船で明石の人丸へと上陸され、諸勢力は明石の城を取り囲むことになりました。しかしながら、(合戦ではなく)和平交渉が行われて降参を申し出たため、明石氏は赦免されました。
父子ともに御礼を申し上げ、すぐに陣を引き払い、神吉の常楽寺へと陣を移されました。
小寺氏は依然として敵対しており、御着という所に居りました。
その頃、有田殿が神吉へと参陣され、源太の出仕のことを再度申し上げられました。これまで何度も拒絶されていたのですが、時分を見計らい、有田殿が内々に相談しに来られ、「今、同行している者たちの中に、一人として差し障る(反対する)者はおりません。もし御出仕が叶わぬなら討ち果たすまでです」と申し上げました。
上様(赤松晴政)は今がどの様な時期であるかを察し、無理な訴訟であってもやむを得ないという流れとなったところで、櫛橋左京亮と小寺勘解由左衛門尉の二人が申し上げました。
「すでに御着には御敵(小寺氏)が居ります。この状態で有田殿まで帰られては外聞が良くありません。ここは我々の覚悟として、源太の出仕を許すべきです」。また、「たとえ(源太の出仕を)許しても、領地の訴訟などのことは我ら二人が(認めないよう)固く約束します」と、私(得平定阿)に意見を述べました。
私といたしましては、とにかく上様のためになるようにと考えておりましたので、ついにその時、源太は(赤松政村に)お目見得を果たしました。
私には屋形様から御書をいただきました。その内容は以下の通りです。
【同名源太が出仕することはやむを得ない事情がある。当座の武器とするために召し出すものである。しかし、領地の訴訟は一切許可しない。そのつもりで心得よ。なお、詳細は櫛橋左京亮が申し伝える。】
この御書と両名の添え状により、以前と変わらず、我々が領地の管理を行いました。
その後、三木の城へと御所を移され、京都へ官位の件を奏請されたところ、(赤松家当主は)左京大夫に任じられました。当初は「政村」と名乗っていましたが、公方様から一字を賜り、「晴政」と名乗るようになりました。
内々では、別所氏も尼子氏と内通しているという噂がありました。
急遽、天文八(1539)年十一月二十五日に和泉の境まで出陣し、海会寺という寺に陣を張っていたところ、小寺氏や明石氏が予想に反して願い出をなさいました。同年十二月十一日には兵庫まで進出し、翌天文九(1540年)正月二十八日には播磨の英賀へ下向されました。
その頃、「しゅくゆう」という者の取りなしで、源太の子である源五郎が英賀にて召し出されました。これが後の左馬助です。しゅくゆうが源五郎の世話を焼いた理由は、もともと細川家の家臣に河合八郎という者がおり、めし様を頼って下向し、馬廻りとして奉公していたからです。
その八郎の死後、後家が加茂の人であった縁で、しゅくゆうが世話をしていたのでした。
ここに不思議なことがあります。かの八郎がどのような筋目で申し出たのか、阿方にある我らの知行(領地)を、八郎にゆかりがあると言って望んだのです。
阿方村は、上月伊勢という者の跡取りが絶えて没収地となったため、小河と阿方の両方は、私の祖父の因幡守に賜られた場所です。
上月氏とはゆかりはありますが、それとは別のことです。八郎の申し分は全く理屈に合わないことでした。「厳格に調査してください」と強く申し出たところ、しゅくゆうが当時、奉行職に就いていたため、調査も行われず沙汰は引き延ばしになりました。
挙句の果てに、無理やり阿方の地を押領されてしまいました。あまりに不当なことでありましたが、時代の趨勢でもあったため、別所氏を仲介として、何とか申し開きをしようと考えていました。




