赤松記4
いよいよ返還され、□るという時、折悪く浦上掃部助村宗と主君との間になんとも言えない不和が生じ、播磨の国中が騒乱状態となりました。あらゆる事が混乱に陥ったため、正式な文書を受け取ることも延び延びになってしまいました。
「何としても浦上を討伐すべきである」として、十一月九日に小塩(置塩城)を出陣し、浦上方の「ふくりゅう」という場所を本陣としました。その後、浦上が在城していた備前の三石城まで軍を進めました。
この三石城は古くからの名城であり、攻める側にとって自由が利かず、思い通りに攻略できずにいたところ、「備中から松田将監という者が浦上に加担して援軍に現れる」という噂が流れました。難波にて櫛橋豊後守が計略を巡らせ、浦上が降伏を申し出るようなふりをして「からゆひ(髻)」を切り、謝罪の意を示したことで、十二月晦日に撤退することとなりました。
翌年、永正十七(1520)年、美作の住人・中村五郎左衛門が浦上の一味として美作の岩屋城に立てこもりました。
これを成敗するため、小寺加賀守則元が命を受け、同年四月二十日に各軍がその城を取り囲みました。主君も「はしさき(現・たつの市觜崎?」まで出陣し、その後、城を包囲して白旗城(上郡町)へと陣を移しました。
すでに中村(五郎左衛門)は窮地に陥っていましたが、浦上が援軍を出したところ、岩屋の陣中にいた中務丞という人物(これは下野守村秀の弟です)が城内の兵と内通し、十月六日に寄せ手を打ち破りました。小寺加賀守とその息子たち三人は力及ばず自害しました。白旗城にいた御屋形様も、命からがら敗走し帰陣されました。
こうした状況で浦上が優勢となり、小塩(置塩)でも不穏な空気が流れ、「(御屋形様は)隠居されるのがしかるべきである」と取り計らわれました。同年十一月、御曹司(赤松政村、後の晴政)が七歳の時、浦上掃部助村宗に引き渡されました。村宗はこれを受け取り、室津へと入りました。
めし様と御二人も、以前より浦上氏と同じ志を持って御屋形(赤松義村)を捨て、屋形の曹司様とご一緒に出立なされました。その後、先代の屋形様は髪を下ろして出家され、常印とお名乗りになりました。
このような事態になったため、小塩(置塩)の地では状況が困難になり、十二月二十六日の夜、公方様(足利義晴)と共に小塩(置塩)を離れられました。明石の沖にある「はし谷」という所の、衣笠五郎左衛門の館で年を越され、翌大永元(1521)年正月、御着?まで出陣されました。
先陣の弘岡殿を大将として、馬廻りの衆わずかとともに太田の城まで出向いたところ、弘岡殿が心変わりして先陣が敗れたため、急いで御着を離れ、東条の玉泉寺という寺に留まられました。
その後、浦上氏が誓紙を持ってしきりに懇望してきたため、同四月二日、若君様をお供として、英賀の「いま在家」の遊清院まで出向き、それから「かたしま」の長福寺へ移られました。
さて、この若君様は細川殿と浦上氏の相談の上で、同六月に入洛なさいました。そして公方様(将軍)としてお座りになりました。これが義晴様(足利義晴)であります。
その後、先代の屋形様を室津へ入れましたが、浦上氏の家臣である実佐寺の所に囚人のようにして置かれました。
翌年九月十七日の夜、菅野・花房・岩井弥六といった者たちが大勢で押し込み、常印(先代の屋形、赤松義村)を討ち果たしました。この時、岩井弥六は左手を首から打ち落とされました。これほどの働きは比類ないものでしたが、多勢に無勢で討ち死になさいました。
その間、屋形様の一味であった衆はみな他国へ逃れ、淡路国などに身を寄せていました。
その後「高峯の陣」と呼ばれた大永三(1523)年、方々に散っていた屋形方の一味や浪人たち、伊豆孫次郎殿、浦上因幡守村国、小寺藤兵衛、その他有力者たちが集まり、淡路国から福泊へ船を着けました。
大貫の上の高峰という山に陣を張ったところを、浦上掃部助が包囲しましたが、但馬口から山名殿が乱入してきたため、急いで和睦し、浦上は陣を引きました。
しかしながら、御座の地を慕って合戦に及び、城衆は□打□ました。浦上は室津まで入れられました。その後、備前国へはた□□れました。
そのため但馬衆は、ながら口から入り、長良の城に陣を構えました。山名殿は屋形を攻撃し、□□をも打ち破りました。その際、かの増井阿弥陀坊という者に我らの荷物を預けておきましたが、性善院殿(赤松政則)の御判や御感状などをすべて紛失してしまいました。仕方のないことであります。




