赤松記2
私の曽祖父は、右の大山口で討ち死にいたしました。その後、身重であった曽祖母は丹波へと逃れ、木崎と中所という場所に身を隠して耐え忍び、そこで女子を産みました。
その後、赤松家の再興について、国の浪人たちが相談し、細川殿(讃岐守)を通じて将軍に願い出ました。将軍も寛大なご配慮をくださり、「まずは赤松の名字だけでも立てるが良い」ということで、赤松満祐の弟である常陸守祐之の息子、彦五郎則尚が赤松の名跡を継いで、出仕だけは許されました。
しかし、まだ領地(播磨など)の安堵については沙汰がないうちでしたが、浪人たちが相談し、則尚殿もその覚悟を決め、「既に(赤松の名を名乗る事を)許された以上、もはや猶予はない」と一揆を起こし、強引に本国である播磨へと下りました。
ところが、播磨はまだ山名衆が支配しており、備後の軍勢が室津(たつの市室津)に大勢控えていました。それらの軍勢と戦いましたが、負け戦となり、則尚殿は亡くなってしまいました。これにより、重ねて家督を願い出る術もなくなってしまいました。
その頃、三条内大臣殿という、将軍の信頼が厚い公卿がいらっしゃいました。その家臣である石見太郎左衛門という者を説得して三条殿に頼み込み、再び将軍へ働きかけ、次郎法師丸を赤松の家督として召し出していただきました。(法師丸は)五歳になられた時に家を立てることになったのです。
この次郎法師丸は、満祐の弟で伊予守義雅という、城山で切腹した方の当時九歳だった息子を、天隠和尚が山の中に隠し、その後出家させて「性尊坊」と名乗らせていました。性尊坊とは勝岳のことで、その性尊坊の息子が次郎法師丸です。
彼もまた、出仕は許されたものの、領地の安堵はまだ整いませんでした。
ここで「南方」と呼ばれる両宮(南朝の皇子)がいらっしゃいました。これは太平記の時代の皇位争いの末裔です。いつか天下を取ることを望まれ、ご兄弟で吉野の奥の北山という所に一の宮が、河野という所に二の宮がいらっしゃいました。
そこで、赤松再興を願う人々は、「□□天下第一の忠功を挙げて再興致そう」と考え、「工夫を凝らしてこの吉野殿を討ち果たし、三種の神器(神璽)を取り返してお返し申し上げよう。そうすれば、次郎法師丸に領地安堵の沙汰があるに違いない」と内々に訴え出たところ、将軍様からの内証も得られ、三条殿を通じて宮中へも(赤松家再興の願い出を)申し上げてさせていただきました。
さて、吉野の君(後南朝の二人の皇子)を討ち取ろうという計略についてですが、赤松家の浪人たちは身を置く所もなく、生活も立ち行かなくなっていたため、「吉野の君を頼りにしたい」と言って、細々と吉野へ参りました。
そして、「なにとぞ赤松家浪人が味方して都を攻め落とし、一度は都へお供をいたしましょう」と様々に申し上げたところ、後南朝方より同意が得られました。
しかし、大勢では警戒されるため、夜討ちに入るべき人数を選りすぐり、間嶋、中村弾正、同太郎四郎以下、大和国宇智郡まで出陣し、康正二(1456)年十二月二十日に吉野へ参り、隙をうかがうようになりました。
ついに翌年の長禄元(1457)年十二月二日の夜、子の刻の大雪が降るなか、油断している時刻をうかがい、両宮(一の宮と二の宮)の二手に分かれて一斉に攻め入りました。
一の宮を討ったのは、丹生屋帯刀左衛門とその弟の四郎左衛門の兄弟で、その首級を挙げたのは兄の帯刀といわれています。また、内裏の宝物である神璽をも奪い取って退却したましたが、吉野十八郷の者たちが蜂起し、(丹生屋兄弟の)後を追いかけてきました。
兄弟は首級を隠し置きましたが、不思議な事に(首級から)血が湧き上がり、その血によって居場所が露見してしまい、兄弟は叔母谷というところで討ち死にしてしまいました。そのとき神璽も取り返されてしまいました。
一方、二の宮においても同じ時刻に討ち入りが成功し、首級は中村弾正が取りましたが、こちらも吉野の郷民が蜂起して中村は討ち死にしています。一の宮、二の宮の両宮の間は大山に隔てられ、道も遠かったのですが、赤松の軍勢は互いに堅く約束し合い、同じ時刻に(二人の皇子を)討ち果たしていました。
しかしながら、討手の兵の多くは道中で討たれ、たまたま生き残った者も雪に埋もれ果て、神璽を取り戻す術もありませんでした。
その後、小寺藤兵衛入道が大和衆の越知という者を頼み、種々の計略を巡らせて郷民をだまし、翌年の長禄二(1458)年八月晦日に神璽を内裏へお返し申し上げました。
このように重ねがさね比類なき忠節を尽くしましたが、播磨国の安堵は引き延ばしとなり、まず恩賞として、加賀半国(富樫次郎成基の跡)、および備前国新田荘、出雲国宇賀荘、伊勢国高宮保を賜りました。各々その国へ押し入りましたが、度々の合戦で討ち死にする者もあり、様々な事情の末、ついに(目的の播磨国安堵の許しを)手にすることができました。
その後、天下は応仁の乱で乱れ、諸大名は思い思いの行動をとるようになりました。山名殿も将軍の意向に背かれたので、赤松殿が幕府の味方に参じられたところ、何の問題も無く播磨・備前・美作三ヶ国が安堵されました。
嘉吉元(1411)年に山名殿に渡っていた領地を、二十七年目にして取り返し、安堵されたのです。
その後、次郎法師殿が元服され、赤松次郎政則と名乗られました。官位は左京大夫、後には従三位に昇られました。性善院殿とはこの方のことです。




