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赤松記1

『赤松記』現代語訳


そもそも赤松氏の始まりについて申し上げます。


祖先をたどれば第62代の村上天皇に始まります。その御子である具平親王ともひらしんのうから三代目にあたる右大臣・源顕房みなもとのあきふさの子たちの代になります。


第一子は中院左大臣・雅房まさふさといい、久我家の先祖です。


第二子の丹波守・季房すえふさの子の時、播磨国佐用荘の「赤松谷」という所に流され、その子孫がそこに住むようになりました。それから五代目を則景のりかげといいます。この人は「宇野」という場所を領地としたため、宇野という名字の元祖となりました。


この時、関東へ下り、北条氏の縁者となって、建久四年七月四日、源頼朝公から佐用荘の地頭職の任命書を賜りました。これ以来、宇野播磨権守則景と名乗るようになりました。


則景には二人の弟がいました。一人は宇野新大夫則連うのしんだゆうのりつら、もう一人は得平三郎とくひらさぶろうです。末の弟は佐用荘の内の「得平名とくひらみょう」という場所を領したため、得平と名乗りました。今の「出井分」と呼ばれている場所がそこにあたります。


則景から数えて四代目を次郎家則じろういえのりといいます。その子が則村のりむらであり、ここで初めて「赤松」と名乗りました。赤松孫次郎、法名は円心えんしんと呼びます。円心は播磨・備前・美作の三ヶ国を統治しました。


円心の子は則祐そくゆう律師といい、天台宗比叡山にいらっしゃった後醍醐天皇の皇子・大塔宮(護良親王)に仕えた人です。後に将軍家に仕えて大きな忠義を尽くしました。


則祐の子は上総介義則かずさのすけよしのりで、法名は円斎(えんさい)といいます。背丈が非常に低かったので、京の民衆からは「赤松三尺入道殿」というあだ名で呼ばれました。法名を性松(せいしょう)ともいい、龍徳寺殿(りゅうとくじどの)とはこの方のことです。


ちょうどその頃、都に不思議な化け物が現れ、身分の上の者も下の者もただただ圧倒される出来事がありました。


詳しく事情を尋ねてみると、それは妖怪ではなく人間でした。


まるで妖怪のようにひたすら馬に乗って京の町中を走り回り、手当たり次第に人を斬りつけ、誰も太刀打ちできる者がいませんでした。髪を長く振り乱し、大きな子供のような姿をしていたので、「大わっぱ」と名付けられ、人々は限りなく恐れていました。


「どうにかしてこれを従えさせた者は、天下の忠義者である」という(みかど)からの宣旨が下されました。


しかしながら、容易に従わせる方法などありません。そこで、三尺入道(赤松義則)はどうしてもこれを狙ってみようとお思いになり、舎弟の者も連れず、ただ一騎で方々を巡り歩かれました。


天のお引き合わせでしょうか、御菩薩(みそろ)池のほとりで(大わっぱに)行き合いました。互いに馬上から渡り合い、義則は大わっぱを思いのままに切り落として鎮められました。


その時の恩賞として、因幡国の知頭郡(智頭郡)、但馬国の朝来郡、摂津国の中嶋を賜りました。


あの大童子が打ち下ろした太刀をかわした際、義則の眉の下をわずかにかすめて少し血が流れました。その時、御教書をいただいたので、その御教書には額の血が付いています。


今でも赤松家の重宝であり、末代までの名誉です。大童子退治の際の刀は、そのまま「大わっぱ」と名付けられ、赤松家の代々の重宝となりました。「桶丸の御太刀」と合わせて二つの重宝と伝えられています。


しかし、先年、赤松義祐と範房(則房)の父子の間で和睦の話し合いがあり、義祐が三木から小塩(置塩)へ出向く際、三木の別所孫左衛門(長治)に預けられ、さらに重宗に代々の重要な書類を預けました。父子の不和については色々ありますが、ここでは書き記しません。


ところが、重宗の邸宅が不慮の火災に見舞われ、重要な書類は焼失してしまいました。さらに、二つの御太刀のうち「大わっぱ(備前助平の作)」もことごとく焼失してしまいました。言語道断の次第であり、家名滅亡の前兆と思われました。


さて、義則の子を大膳大夫満祐といい、法名を性具といいます。その子を彦次郎□政(後の赤松教康)といいます。父子ともに在京し、変わらず幕府へご奉公していましたが、ある者が告げ口をしたことで将軍・足利義教との間に確執が生まれたため、とにかく赤松満祐は覚悟を決められた。


しかし、あらわに反旗を翻しては目的を果たすのが難しいため、一計を案じるために将軍の御成りを願い出ました。その際に「将軍様を討ち果たそう」と決めて、庭の泉水にいる鴨の子を御覧に入れるという口実で、嘉吉元年六月二十四日に満祐の屋敷へ将軍をお迎えしたといいます。


諸大名もお供として参られ、勝定院殿(四代将軍・足利義持)の時に定められた能の演目もあり、脇能(最初の演目)には「鵜の羽」が演じられました。


中入りの時に庭へ暴れ馬を放し、その混乱に乗じて、安積監物行秀(あづみけんもつゆきひで)という者が、公方様(義教)に対し、防ぐ間もなくお討ち申し上げました。御年四十八歳であられました。(将軍の)お供の人々も応戦する間もなく、散り散りに逃げ帰り、京極加賀守(高数)や山名中務熙貴は討たれました。武衛殿や大内殿(持世)は門を越えて逃げ延びています。


満祐父子は義教を討ち、摂津の中嶋にて将軍の首を掲げ、宗福寺という寺で葬儀を行ってから播磨へと下りました。


赤松家が将軍の敵となったため、京都はもちろんのこと、諸国の軍勢がこの国へ攻め寄せ、南は□□□□塩屋(現在の神戸市垂水区周辺)あたりまで支えましたが、防ぎきれず攻め込まれました。北は但馬から大山口へ攻め入られ、私の曽祖父である因幡守をはじめ、一族の者たちが一箇所で十三人討死しています。


どの戦線も後には不利になり、本拠地である城山(きのやま)の要害に満祐父子はついに立て籠もり、皆で相談し合い、この山で切腹されることになりました。


(赤松惣領家の)父子が一緒に最期を遂げてしまうのは口惜しくお思いになられ、「彦次郎殿(満祐の息子・教康)はどうにかして身を隠し、時節を待って再興を図るのが良いでしょう」ということで、彦次郎は伊勢国の国司の北畠氏が村上源氏の同族であることから、これを頼って伊勢へ隠れようと様々に試みました。


しかしながら、そのことは記録には残ってはおりません。


また、城山には寄せ手が次第に集まり、防ぎきれず満祐は切腹にて御自害なされました。彦次郎殿もまた、伊勢に入ったことが都にまで漏れ聞こえるようになり、京都からの怒りによって国司も匿いきれず、最後には自害なされたと言います。


こうして、赤松殿の一族はことごとく滅びました。


その後、播磨国は山名殿が賜り、但馬衆が二十年間支配したために、播磨の国の人々は思い思いに他国へと牢人として流れていきました。

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