その十六
翌日、ハンナがアンと大荷物を背負ってやって来た。
「ハンナの荷物、す、凄い量ですね」
「桶とバケツに石鹸、古着などです。ミレーユ様のお食事はアンが持ってますよ」
アンが食事のトレイを渡してくれる。
「お母さんに言われたんだ。かくまっていただくんだから、お世話をするようにって」
「わ、わたくしの世話ですか?」
ハンナが丁寧に頭を下げる。
「これで罪滅ぼしになるとは思っていませんが、ふたりでできることはさせていただきますので」
彼女は何度も何度も頭を下げてから、塔を出て仕事へ向かった。
それからアンとふたりで朝食をとる。
でもなるべく彼女から離れて食べた。
ドレスが汚いのが気になるだろうから。
アンは食事を終えると腕まくりを始めた。
「まずはお水を汲んでくるね」
「え、アン⁉」
アンはバケツを持って元気いっぱいに塔を飛び出していくと、しばらくして近くの小川から水を汲んできた。
「ねえ、アン。ひ、ひとりで外に出るのは危険ですよ」
「お母さんが、塔の周りは安全だって言ってたよ」
この塔が女王陛下の管理物だと近所の人は知っているそうだ。
侵略戦争を仕かけるベネディクト女王の強硬な姿勢は、街中に知れ渡っているらしい。なのでこの塔へは誰も近寄らないそうだ。
「そ、それで塔の近くを誰も通らないのですね」
幽閉されてすぐのころ、通行人に何かお願いしようと上から何時間も眺めていたが誰も通らなかった。
人が塔を避ける理由があったのだ。
アンがバケツいっぱいの水を大変そうに運んでくると大きい桶に移してくれる。
「もっと汲んでくるね。それと、はいこれ」
そう言って石鹸を差し出してくれた。
「ああ、石鹸で髪が洗えるなんて! アン、本当にありがとう」
手渡された石鹸は、数年前に市井で広まったラベンダーの香りがついたもの。
貴族なら日常使いができても、庶民にとって高級なことは間違いない。
きっとハンナが無理をして買ってくれたんだろう。
そして目の前の桶にはキラキラと輝く水があった。
気まぐれで降る雨ではなく手で掬えるまとまった量の水。
湧き水の出る綺麗な小川から汲まれた透明な水が目の前にあるのだ。
それに石鹸で髪が洗える。
たったこれだけのことがどれだけ嬉しいか。
大雨の日にこっそり裸で屋上に出て体を洗ったりしたけど、長い髪をしっかり洗うことはできなかった。
雨水でいくら洗っても皮脂汚れが取れなくてさっぱりしない。
いっそ髪を切りたいとも思ったけど、ハサミもナイフもなくて伸ばすしかなかった。
でも清潔な水と石鹸があれば髪を綺麗に整えられる。
感激で立ち尽くしていると、アンが重そうにバケツを運んできて大きな桶に二杯目を入れてくれた。
「アン、ありがとう。ありがとうございます。う、うう……」
「……ミレーユ様。ねえ、もっと水を汲んでくるから待ってて」
アンは少し鼻声で返事をしながら飛び出していった。
まだ小さなアンが頑張って汲んできてくれた水です。
大切にしなくては。
ミレーユは慎重に水を使った。
裸になり水の入った大きな桶の中でしゃがんで、そのまま足元の水をすくって石鹸で髪を洗った。
その水を利用して体も洗う。
ファラシュからもらったおしぼりを使ってごしごし洗った。
体を洗っている間、ミレーユはずっと泣いていた。
最初は綺麗になれることが嬉しくて、女性らしさがよみがえる幸せを噛み締めた。
大きな桶に入って洗髪を繰り返すうちに、今度は感謝の気持ちがあふれる。
あんな塔の下の小川から六才の子がバケツで二回も水を運んでくれたのだ。
それもこれもミレーユが塔から出られないから。
健気な優しさが嬉しくて感激してまた涙があふれた。
「お水がもったいないからこれくらいで」
頭と体を二回洗ったけど汚れは完全に落ちない。
アンはいま三回目の水汲みに行ってくれているけどあまりにも大変そうだ。
もう終わりにしましょう。
裸のままで桶の中の汚れた水をお手洗いに捨てる。
空の桶を持ってフロアに戻ったら、アンが三杯目の水を運んできたところだった。
「あ、ごめんね!」
驚いたアンは大慌てで塔の扉から外へ出てしまった。
たぶん裸なので気遣ったのだろう。
「へ、平気です。どうぞ、気にしないで入ってください」
いくら貴族の娘として育っても、小さな女の子に裸を見られるくらい気にしない。
むしろさっきまでの汚いドレス姿のほうが気になっていたくらいだ。
「いや、でも。その、本当にいいの?」
アンが扉を開けて恐る恐る入ってくる。
「だ、だって女性同士ですし」
「僕、男なんだけど」
「……え?」
何を言っているのだろうと思った。
「やっぱり誤解してた? 僕は男だよ」
「う、うそ」
信じられない。
だってアンの髪はサラサラで、目が大きくってとても可愛いのだから。
「人攫いも女と間違えて僕を攫ったんだ。いくら男だって言っても「そんな嘘で逃がす訳がないだろ」って確かめもしないしさ」
「え、でも、ハンナがアンって呼んでいたわ」
「あれ、本当はやめて欲しいんだ。アンドリューって名前なんだからアンディって呼んで欲しいのに」
嘘でしょう⁉ 男の子なの? こんなに可愛いのに?
騙された訳ではない。
自分で勝手に誤解しただけだ。
でもそれは仕方がないと思う。
だって美少女で通るほどの可愛らしさなのだから。
アンディがそんな見た目だからか、裸を見られたのにあまり恥ずかしく感じない。
まだ六才で幼いというのもある。
むしろ面倒を見てあげたいという気持ちになった。
別に恥ずかしくはないけど、彼の気持ちを考えて一応背を向ける。
「お水、助かりました。で、でも運ぶのが大変そうだから終わりにしましょう」
後ろ向きのまま顔だけ横に向けて感謝を伝えると、彼は首を横に振った。
「僕、ミレーユ様に本来の美しさを取り戻して欲しいんだ。だから遠慮しないで」
アンディはバケツの水を空の桶に開けると、率先して四度目の水汲みへ出て行った。
バケツいっぱいの水は六才には絶対に重いはずなのに。
そう思うとまた涙が溢れてきた。




