真理
「それはただこうした類の真理、証明もできず『偽り』ですらある真理、人が不合理に陥らずにその極限まで導こうとすれば、そうした真理自体の、そしてその人自身の否定に向かわずにはいないような真理、芸術作品が称揚すべきはそんな真理だ。いつの日か応用される幸運にも不運にも、このような真理はけっして出会うことはないだろう。そんな真理こそ、生きてあれ、自らがそれとなり、また引き起こしもする歌によって」
(アルベルト・ジャコメッティのアトリエより
著者:ジャン・ジュネ
小さな真四角に引き裂かれた便器に投げこまれた一幅のレンブラントから残ったもの p1)
あらゆる優れた芸術作品は、あるひとつの共通のものを描こうとしているに違いない。あるひとつの風景を呼び覚そうとしているのだ。それを別の仕方で行っているだけなのだ。文字、絵画、音楽、演劇、映画、写真。どんな媒体だろうと同じことだ。くれぐれも見かけに振り回されてはならない。志向するべきは指先ではない。指先の先にあるもの、指しているもの、透けて見えるもの、重なって見えるもの、方向である。ポインター。ベクトル。巧妙な罠があちらこちらに仕掛けられている。喜び勇んで踏みに行くなど愚の骨頂。足元を見よ。崩落する足場。捕えきれないカメのしっぽ。失われた記憶。いつまでも続く耳鳴り。だからここにひとつのものを!
それは特別なものでなくても良い。むしろありふれていてちっぽけで取るに足らないような、誰もが気にも留めないようなもの、日常の1ページからすらも脱落しそうなものこそが相応しい。ありとあらゆる風景をかき集めてもそこからこぼれ落ちるもの。ノスタルジックなもの。揺れ動くもの。
いや、そうではなかった。こんな愚鈍な表象では断じてなかった。もっとはっきりとしていた。あの瞬間だけは己の実在よりも確かなものであった。あのきらめきを知っているはずだ。あの余りにも脆弱な眼差しに出会ったではないか。あの張り詰めた静寂と轟音を聞いたではないか。あの欠落を忘れたとは言わないだろう。あれに出会って気づかないとはそれこそ幸運の極み。呪いと幸運は同じものなのだ。そんなまやかしに目を奪われるなんて。そんなことはあれに近づいたらすぐに分かるだろう。
ある意味ではあれは呪いと言うに相応しいのかもしれない。あるいは幸運とも。いやはやそのどちらでもないことなど自明の理ではないか。美しい花が咲いては枯れ、咲いては枯れを繰り返している。だから我々はあの情景に、あの眼差しに、あの音に、そしてあのどうしようもない欠落に名前を捧げるのだ。真理という名を。