32. ワン・ナイト・ラブ
神様の来訪から、少しだけ経ったある日。
サキュバス国の自室で、ニーフェアは物思いに耽っていた。
その指先で小さな小瓶を弄びながら、思い出すのはあの日の事だ。
ただ救われることが、あんなにも恐ろしい事だとは思わなかった。だから、この身を包み隠した暖かさにただ安堵の涙を流すばかりだった。
その事を考えると、それなりに長い時を母として生きた者として、少しだけ恥ずかしさを覚える。
だからこそ、潮時を感じるのだ。
部屋の外がにわかに騒がしくなる。
少しの間を置いて、一人のサキュバスが部屋に入ってくる。
親衛隊。国として体裁を保つ他に、単純にニーフェアを慕い、警護する為の組織。その長のミディアだ。
サキュバス特有の柔らかなボディラインと違い、明らかな鍛錬の硬さを身につけた均整な体は、また別の需要があり、ニーフェアには持てない魅力を羨ましく思う事もある。そんな肢体をビキニアーマーで飾った彼女は、普段はあまり見せない怒った様は雰囲気を見せてニーフェアに詰め寄ってくる。
「変な噂が流れているわ。貴方がその……国を売ったって」
怒りの矛先は、ニーフェアに、というよりは噂を流した方に向いているらしい。心配の色を見せる声音は、普段の彼女とは違い弱さを感じられ、そういうところをたまに男に見せればいいのに、ともったいなく思う。
そんな風にズレた事を考えていたら、ソレを見咎めたのか、少しだけ険しい顔をするミディアに返事を返す。
「そうね。噂は正しいわよ。売ろうとしたの。もう、必要がなくなるから」
「なっ、どういう事よ!」
肯定の言葉に驚くミディアに、弄んでいた小瓶を渡す。
「なにコレ……薬?」
コロコロと表情を変えるミディアの様子が面白くて、笑いながら答えを告げる。
「エリクサーよ」
「は? ──っ?!」
思わずといった様子でそれを手の中に隠したミディアの、まるで子どもの様な振る舞いは、けれどもそれを笑うことは出来ない。
『ソレ』はサキュバス族の悲願だ。
「エリクサーに強壮剤を混ぜた特別品。私達が絞り尽くせない程の精を授けてくれるものよ。さしずめ、サキュバスの永遠の愛ってところかしら」
親愛と己の愛に挟まれて、泣きそうな顔のミディアに笑いかけて、革袋を机の上にあげ、その中身を広げる。
ザラザラと、幾つもの小瓶が転がり出てくるのを見て、今度こそミディアはこれ以上ない驚きに表情を染める。
無造作に掴んだ幾つかをそっとミディアに手渡し、口元に手を当てる。
「今まで頑張ってきたんだもの。ちょっとぐらい多めに渡しても文句は言わせないわ」
彼女が流す涙は、サキュバスの悲しみの終わり、そして喜びの始まりになるだろう。
「誰もが、愛し、愛される事が出来る。だから、もうこの国の役目もオシマイ。だから、エリクサーの供給と引き換えにしようと思ったんだけど、断られちゃった」
エッチな国を失くすなんてとんでもない! なんて、凄い勢いで説得してきたエッチで悪いスライムを思い出してまた笑う。
神様に救われそうになったあの日から、ずっとそうして笑顔にされてばかりだ。
「コレがあれば、これから先、国に依る子供はきっと少なくなる。私が女王である必要もね」
「そんな事はない! 貴方が与えてくれた愛を私達は忘れたりしないっ!」
「嬉しいわ。その言葉があれば、もう少しだけ頑張れそう」
ミディアに返した言葉は本心だ。
まだ、愛する娘のために出来ることがある。
この薬を、この先ずっと、誰もが受け取れるようにする。愛が途切れないように。
愛する娘達の為に。母として。
「でも、おばあちゃんって呼ばれるのはちょっと嫌かなぁ」
最近はとみに若返る毎日だ。あのスライムエステがあれば、あと百年はお肌の艶を維持できるだろう。
……百年後、きっとこの国は今と全く違う状態になっている。そして、その時、きっと今は思いつきもしないような問題が起きたりするのだろう。
でもきっと、その時も笑っていられる確信がある。
ずっと昔、宿命に逆らうために立ち上がった誰かがいたように……
この世界には、自分の好きなもののために、神様に立ち向かうモノが居ることを知っているから。
だから、そんな日が訪れても、この世界を愛する事が出来る。そう確信するのだ。